9
……──私には、母がいた。
母は、とても優しかった。どんな時でも大きな愛情を注いでくれた母が、私は大好きだった。兄弟もいない私にとって、母と二人で過ごす時間が一番楽しかった。
それと正反対に、父は厳しかった。
子供の頃はまだ、当時の一般的な家庭の父親の厳しさとさほど変わりはなかったのだが、私が高校受験を迎えた時期、父から異常なほどの恐怖を感じるようになった。
父は昔、医者を目指していた。しかし、受験に失敗して夢を諦めるほかなく、その後はずっと職人として働き、母と結婚する前に今の鉄工所を作った。
私は、父が成し得なかった夢を押し付けられていたのだ。
夢を叶えることを諦めた自分の過去を棚に上げ、事あるごとに私を叱責し、だんだん蔑むようになり、意味もなく罵倒される日々が続いていた。
母は父の言いなりだった。父が黒と言えば、母も黒と言った。それでも父がいない時は、受験と父のプレッシャーに圧し潰されそうになっていた私を、優しく励まし、元気づけてくれた。
──だが。
精神的に圧迫された生活の中、そんな母の優しさが疎ましく思えてきた。父が私に何を言おうと、父の前では少しのフォローもしてくれないのに、あとになって私の所へきて「ごめんね」と謝る母に、押し付けがましさを感じていた。多少、反抗期だったことも加わっていたのかもしれない。
ある日、いつも以上にきつく父に叱られた私が部屋にいると、母がこっそりと私の様子を見にきて、「大丈夫、気にしないでいいのよ」と慰めてきた。
それが気に入らなかった私は、椅子に座ったまま後ろにいる母を突き飛ばした。母はよろめき、箪笥に肩を強く打ってその場に崩れた。
……その先が、さっき見た光の中の映像だ。部屋の物音と私の怒鳴り声を聞きつけて、父がやってくる。揉み合いになり、父が私を殴る。さらに私を殴ろうと父が一歩踏み出したところで、母はようやく父にしがみついて止めに入った。
父が部屋を出ていったあと、母はいつものように「ごめんね、ごめんね……」と言って泣いていたが、私は何も言わなかった。
それ以来、私は母のことを自分より下の存在だと思いはじめ、父から受けるプレッシャーの捌け口の矛先は母に向いた。
父が私に何かをするごとに、母の身も心も傷ついてゆく。それに気付いた父は以来、私に近寄らなくなった。母も必要以上に私と接しなくなり、家庭での私の居場所はなくなった。
私の心は荒んでゆき、父が私にしていたように、意味もなく母に暴力を振るうようになった。まだ後悔する気持ちは残っていたが、それが逆に自分自身を追い詰め、部屋に引き籠る生活が始まった。
当然、受験などやめていたので高校へは行かず、風呂以外は部屋から一歩も出ない毎日。食事は母が持ってきていたが、お互いに口を開くことはない。私は暗い部屋の中で一日中、何をすることもなく、誰と話すこともなく過ごしていた。
精神は徐々に壊れていった。頭の中にはおかしな世界が広がり、私はその中で暮らすようになった。口を動かしているのは自分でもわかっていたが、何を喋っていたのかはわからない。目に映るものさえ現実のものとは思えず、意識は完全に内側へ入り込んでいた。
──そして、事件は起こった。
ある時、食事を部屋に運んできた母の姿を見た。そして、何か声を掛けられたように思い……気が付くと私の前には、顔から鎖骨のあたりまで血に濡れた母が横たわっていた。母は、無惨にも両眼が抉り取られていた。
……私がやったのだ。私が母を、殺したのだ……。
母の変わり果てた姿を見て、私の精神はまたどこか遠い所へ行ってしまった。意識が現実の世界に戻った時、私はすでに精神病院のベッドにいた──……。




