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食事を済ませて自分の席に戻った私は、スリープしたパソコンを起動させるため、わくわくしながら──事務所でこんな気分になれたのは初めてだ──キーボードのエンターキーを叩いた。しかし現れた画面は、朝に電源を入れた時と同じように真っ青だった。
いくら目を凝らしても、一時間前のあの映像は見当たらない。今の私の顔がうっすらと映り込んでいるだけだ。普段ほとんど使われない箇所の表情筋まで必死に動かしてみるが、当然のごとく画面は鏡と同じ役割しか果たさない。
芸人のようにおかしな顔を作っているのが、だんだん惨めったらしく思えてきて、自分にもまだこれほどの感情が残っていたのかと思うほど、私はひどく落胆してがっくりとうなだれた。
ひとつ大きなため息をついて頭を持ち上げると、通路を挟んで斜前の、横向きの席に座っているあの痩せた中年男が、能面のように表情のない顔をじっと私に向けている。
──まさか、ずっと見られていたのか? 今までの私の行動を目にして、気でも触れたかと思っただろうか?
取り繕うように引きつった愛想笑いを見せると、中年男はにたりと嫌な笑みを浮かべ、顔の向きをこちらに固定したままゆっくりと立ち上がり、上半身をゆらゆらと揺らしながら、私のほうへ歩み寄ってくる。異様な気配を感じてその場を離れようとしたが、私の目は男に釘付けになっていた。
私の机の前まで来た男に「な、なんだ。何か用か」と、少し怯えながらも強気に言った。男はそれに答えず、張りついた笑みを崩さずに私を見下ろしていた。
私がもう一度声を掛けようとした時、男が頭をゆっくりと後ろへ反らしはじめ、首が裂けてしまいそうなくらい反って顔が見えなくなったかと思うと、男の体がぶるぶると小刻みに震え出し、「うぁ……あぁ……」と押し潰したような呻き声をあげる。声を出すたびに顎から首をつたって、泡立った薄い黄色の液体が流れ落ちてくる。
私は戦慄した。その間も、頭では逃げようとしているのだが、蛇に睨まれた蛙のように体を動かすことができずにいた。
しばらくその状態が続いたあと、急に男の震えが止まり、硬直した。冷や汗を流しつつ様子を見るが、ぴくりとも動かない。……死んでしまったのだろうか?
ようやく体を動かせるようになった私は、男から一時も目を離さずに、盗人のようにそろそろと立ち上がり、少しずつ男に近付いた。
そして、上から顔を覗き込もうとした途端。
男の頭がものすごい勢いで反りを戻したかと思うやいなや、それは私の眼前にあり……黒く落ち窪んだ二つの穴には、眼球がなかった。
あまりの驚きに、今度は私が金縛りにでもなったように硬直し、声も出なかった。鼻先数センチで寸止めされた、中年男の顔。その眼球の失われた、どこまでも続く深淵のごとき暗い穴を見つめることしか、今の私にはできなかった。
そのうち穴の中に、なにやら動くものがぼんやりと現れはじめた。間近にきてわかった、男の口から放たれるとてつもない異臭──嗅いだ経験はないが、これがいわゆる腐敗臭というものだろうか──に意識を飛ばされそうになりながらも、それがはっきりとした形を作るまで見ていた。
──それは、私だった。中年男もいた。
仰向けで横になっている中年男に、私が馬乗りになっている。そして男の両眼を、そういう動きをするように作られたゼンマイ式のオモチャみたいに、寸分たがわぬ角度で右腕を上げ下げし、手に握られたハサミだかナイフだかの白く光る刃物で、男の顔面が血にまみれてもなおメッタ刺しにしていた。
「うわぁ!」と恐怖に満ちた大声を発し、私は勢いよくあとずさった。その時、足がもつれて、ガツンという大きな音とともに、どこかに強く腰のあたりを打ち、顔をしかめて目を閉じた。
その瞬間的な、ほんのまばたき程度の間に、再び開いた私の目に映る世界は変わっていた。
きょとんとした表情で私に注目する、職場の人間たち。もちろん、あの中年男もその中に加わっている。彼らのいる位置も、中年男の姿も、まるでいつもと変わらない。立っていたはずの私も、しっかりと椅子に腰掛けている。唯一の変化は、すぐ背後にある壁際にまで追いやられていた、私のいる位置だけだった。
私は今の状況を必死に理解しようとしたが、できなかった。その間、私自身も含めて、職場全体が静止画のように固まっていた。
はじめに動いたのは、あの中年男だった。先ほどの恐ろしい光景を、まだ記憶の新しい箇所に留めていた私は、「大丈夫ですか……?」と近付いてくる中年男に恐怖を感じ、反射的にその場から逃げようとした。しかし立ち上がりかけた時、ズキンと腰に痛みが走り、あえなく再び椅子に腰を下ろすことになった。
私は慌てて「く、来るな! 大丈夫、大丈夫だ! なんでもない!」と男に掌をかざし、その歩みを制する。私の尋常でない狼狽ぶりに、訝しげな表情を見せていた中年男だったが、「はぁ……」と顎を突きだして言いながら、のろのろと自分の席に戻っていった。
男が発した「はぁ……」という言葉に混ざる吐息から、あのとてつもない異臭が感じられるような気がして、私はしばらく呼吸を止めたまま、申し訳なさそうに丸まった男の背中を見つめていた。
ふと、視線の延長線上にある棚に置かれた時計が目に入った。……驚くことに、昼食を終えてここに戻ってきてから、わずか五分しか経っていなかった。




