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ようやく息苦しさから解放されたが、駅からほど近い職場へは、ひと息つく間もなく到着してしまう。
五年前に父が他界し、半ば強制的に継がされた寂れた鉄工所だ。当時、勤めていた会社の経営が危うくなってきたことを、ある社内の情報筋から知った私は、いち早くそこを退職した。保身のためにとった行動だったが、五十歳を過ぎて新たな職など、今の時勢では簡単に見つかるはずもなく、人生の指標を失いかけていた。
そうして一年が過ぎようとしていた頃、父が心筋梗塞で倒れた。数日後、病院のベッドに伏せていた父は、私にこの鉄工所を託して逝った。職安へ足を運ぶだけの日々を送り、虚無感に苛まれていた私は、図らずもここに身を置くことになったのだが、仕事は減る一方なので退屈なことに変わりはない。行くべき場所があるだけでも幸せか──そう考えるようにしていた。
そのほとんどが深緑色に煤けた、機械と鉄材が瓦礫の山のように積まれた工場を通り抜け、奥の事務所の扉を開けると、先ほどよりも少しだけ血液の温かみを感じる人間たちが、しかし仮面のように作られた笑みで、「おはようございます」と挨拶を催促してくる。その都度、おざなりにそれに応じながら、無骨な造りの灰色の椅子に手をかける。
引き出した椅子の、背凭れは真ん中がこげ茶に変色し、擦り切れたシート部分の端からは、中の黄色い綿がちらりと顔を覗かせている。キャスターを転がすたび、キィキィと錆びたブランコのような音を立てるのが不快だ。
机に置かれたパソコンの電源を入れると、一日の始まりを──ストレスを蓄積させるためだけに用意された長い時の流れの始まりを、電子音がわずかばかりの慈悲をもって柔らかく告げる。
まだ青一色で塗られたままのパソコンの画面に、覇気のない人間の顔がぼんやりと映り込む。これは自分なのか、画面の向こう側にいる誰かなのか。まばたきもせず凝視していると、私は無表情を保っているのに、その顔は次々と喜怒哀楽を表現する。するとやはり自分ではない、あちらのほうが今の私なんかよりもずっと有機的だ。
そのうち、画面の顔はいびつに変形しだした。直径二センチほどの小さな球が数個、顔の内側を不規則にゆっくりと這い回り、その動きに合わせて奇妙な表情を作り出す。見つめていると、だんだん自分の顔にも球の蠢きを感じてきて、何とも形容しがたい気味の悪さを覚えた。耐えきれず両手を頬に当てるが、何も変化はない。
小さく息を吐いてキーボードに視線を落とし、瞼を閉じた上から掌でぐっと眼球を押しつけた。顔から手を離してもう一度パソコンの画面を見ると、今しがた掌を当てていた場所には、眼球ではなくアナログ時計の文字盤が嵌め込まれていた。
驚いて指先で右目に触れてみるが、むろん眼球はある。そうでなければ、私がこの映像を見ることはできないはずだ。そう思うと、非現実的なこの体験と不可思議な映像は、私を妙に愉しい気分にさせ、これをじっくり観察してみようという好奇心を持たせた。
文字盤にはちゃんと三本の針が付いていて、二つある時計の向かって左側は時計として正しく、右側はその逆方向に回っている。だが、その動きは異常なほど速い。
私はまず、左側の時計に焦点を合わせた。どのぐらいの速度で回っているのか気になって、左腕に巻かれた腕時計と画面の時計を見比べてみると、腕時計の秒針と画面の長針が同じ動きをしている。なるほど、向こうの時間の流れでは一分が一秒らしい。となると、一日が二十四分……。
私は画面の中の世界へ身を投じたくなった。それができれば、こんな退屈な日々などすぐに終わってしまえるだろう。私が切望しているのは何年も前から、ただそれだけなのだ。
次に、針が逆方向に回る右側の時計に注目した。左側よりもゆっくり動いていたかと思うと、急に速くなったり、時折止まったりする。どれほど眺めていてもデタラメなリズムを捉えることはできず、何か意味があるのかと思ったのだが、その有無を読み取ることはできなかった。
すると今度は、両方の時計がぴたりと動きを止めた。どちらもすべての針が、真上を指して重なっている。すなわち、十二時だ。それと同時に耳に入った昼休みのチャイムの音で、私はわれに返った。反射的に腕時計を見ると、画面の時計と同じく十二時を示している。
──なんてことだ。いつの間にか三時間も経っていた。パソコンの画面から目を離し、現実の世界の様子を確認するように、事務所の中を見渡す。
揃って財布を小脇に抱え、肩を寄せ合って事務所から出てゆく二人の女子社員。この時間になると彼女たちは、出社してからようやく人間らしい笑顔を見せる。それは一日のうちで唯一、この空間に楽しげな笑い声が響く瞬間でもある。三十歳前後の若い彼女たちにとって、こんな退屈な所にいれば食事だけが日々の楽しみだろう。
椅子に座ったまま、腰から上だけを面倒臭そうに傾けて、鞄から布に包まれた弁当箱を取り出す男性社員。まだ私が過ごしてきた人生の半分も生きていないというのに、なぜこんなにも疲れた顔をしているのだろう。二年前に結婚し、半年ほど前には子宝にも恵まれたらしい彼の近況は、一般的に考えれば幸せな時期だろうに、ここにいる彼からはそんな雰囲気など微塵も感じられない。……きっと、私にはわからない苦労があるのかもしれない。
小銭入れの中を覗いてため息をつき、とぼとぼと歩き出すくたびれた中年の男。この男はたぶん、いつものように近くの食堂で一番安いメニューを選んで、大事そうにちびちびと箸を口に運ぶことだろう。その痩せ細った体に似つかわしい姿を、今まで何度も目にしてきている。
あたりに向けていた目をパソコンへと戻した私は、びくっと体を震わせた。チャイムのお蔭で、その存在を忘れかけていた。画面にはまだ、両眼に時計が埋まった顔が映っていたのだ。慌てて電源を落とそうとしたが、すぐにマウスを持つ手は止まる。
……この退屈な場所で、気が付けば昼だったなんていうことが今まであっただろうか? これがあれば──奇妙だが不思議と嫌悪感は抱かないこの映像あれば、午後もあっという間に終わるかもしれない。拷問のような現実の時の流れから、早く解放されるかもしれない……。
そんな欲求に駆られて、普段は一旦落としているパソコンの電源をそのままに、私は不快な音を立てる椅子から立ち上がった。




