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「状況は?」
眼鏡の縁を指でなぞりながら──珍しい仕草だが、彼の癖らしい──、その奥に光る鋭い眼差しを若い刑事に投げ掛ける、白髪の小柄な刑事。声を掛けられた若い刑事が、すぐさま質問に答える。
「はい。ガイシャは二名、いずれも刃渡り十センチほどの刃物で、全身を何カ所も刺されてます」
「ん? 二名? ホトケは三人と聞いてたんだが」
「通報してきた女性──ガイシャと同じくここの社員なんですけど、その話によりますと、あとの一名は自殺だそうです」
「自殺?」
「はい。とりあえず現場、見てください。署に戻ってから詳しく話します」
「ふん……」
警察署の取調室には、容疑者の男が座っていた。男の目は、ここへ来る前からずっと遠くを見ている。その焦点は、まったく定まっていない。
「話は聞けたか?」
先ほどの老刑事が、取り調べを行なっていた刑事に尋ねる。
「駄目ですね。話どころか、口も開きません。目、飛んじまってますし」
「そうか……。そういや、一人は自殺だったんだってな」
「ええ」
「概要は」
「あ、ボードに書いてますよ」
促されて、老刑事は部屋のホワイトボードに目をやった。
《容疑者》
黒崎博也・二十六
《被害者》
阿武一郎・五十七、自殺
野中進・四十五
一ノ瀬陽子・三十一
「自殺したのは社長か……。どういう経緯だったんだ?」
老刑事が尋ねると、一緒にボードを見ていた刑事が答える。
「無事だったもう一人の女性社員の話ですと、阿武は今朝、出勤してきた時から様子が少しおかしかったようです。その理由が──」
刑事は言いながら、小さな透明のビニール袋を老刑事に見せた。
「これです。職場の本人の机の中から出てきました」
「ヤクか……」
「それと、過去に精神障害で入院していたこともあったようです」
「ふん……」
「阿武は、職場へ来てすぐにパソコンの電源を入れたそうなんですが、何をするわけでもなく、じっと画面を見つめていたそうです。そのまま昼になったので、女性社員は一ノ瀬と昼食に行きました。戻ってくると、また阿武はパソコンの画面を見つめたまま動かなくなり、その直後、背にしていた壁に体をぶつけて、三たびパソコンの画面を食い入るように見ていたようです」
「本当に何もしてなかったのか?」
「話では、ほとんど動かなかったそうですよ。で、しばらくすると、突然ぶつぶつと何か言い出して、声がだんだん大きくなってきたかと思ったら、机の抽き出しの中からカッターナイフを取り出し、立ち上がって自分の眼を抉りはじめた」
老刑事は現場を思い出し、顔をしかめた。過去にもそういった凄惨な事件は何度も扱ってきたが、最近は歳のせいか、その手の話にはめっきり弱くなってきていた。……そろそろ潮時か、と考える。
「何て言ってたんだ?」
「『ごめんね』とか『ごめんなさい』とか……」
「ふん……。で、何でそれで終わらなかったんだ?」
「それを見ていた黒崎が、急に発狂したんです」
「発狂?」
「実はこの男、調べたら麻薬所持で前科持ちだったんですよ」
「こいつもか……」
「でも黒崎は、最近やってなかったそうです。──あ、奥さんから聞いたんですけどね。付き合ってた当時はちょくちょくやってたそうなんですけど、結婚すると決めてすぐに更生施設で毒抜きした、と」
「なのに、なぜ?」
「ちょっと聞いたことがあるんですが……麻薬をやっていた人間が、使用をやめた後でも何らかのきっかけで、症状が再発することがあるそうなんです。フラッシュバックというらしいんですが、この場合、阿武が自殺行為に及んだのを黒崎が見て、そのショックに起因したものだと考えられますね」
「フラッシュバック……」
人間の記憶に関してのその言葉は、老刑事も聞いたことがあった。だが、麻薬に関してもそれが使われるのは驚いた。──〝麻薬をやっていた時の記憶が再現される〟と考えれば、不思議ではないのかもしれないが。
「発狂した黒崎は、持ち歩いていたサバイバルナイフで野中と一ノ瀬に襲いかかり、殺害に至った。そこへ、通報で駆けつけた警官が来て……といった具合ですね」
老刑事は、深いため息をついた。
──今夜も、夢見が悪そうだ……。