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新海誠監督へ  作者: ぐでんぐでん
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前編

 もし、翼があるのに飛べない鳥いたら、人はどう思うのだろうか。いつも飛ぼう飛ぼうと必死に翼をはためかすのに、体は微塵も浮かばないのだ。人は飛べない鳥のことなどきっと忘れてしまう。カモメのジョナサンよろしく、どこまでも速く、どこまでも遠くまで飛ぶ鳥のことばかり、覚えている。でもあなたが少しでも想像力を働かせて、飛べない鳥のことを憐れんでやれば、その鳥は少しのみじめな気持ちと大きな救いを得るだろう。世界とはいつのころからか、そういうふうにできている。


 ぼくの母親が声を失ったのはぼくが十のときだった。母は本を書くのが仕事で、それについてぼくはあまり詳しくはないけれど、それをおこずかいにして人生を楽しんでいたみたいだ。いつも口元に微笑みをたたえ、口を開くときれいな音がなったような気がする。もうずいぶん前のことだからよく覚えていない。

 そんな母が他界したのは、病のせいだった。慢性骨髄性白血病、CMLと省略されるその病は進行自体は早くないが徐々に、そして確実に病者の体を蝕み発見が遅れるともうどうにもならないことがある。母の場合はもっとずっと特殊だった。抗がん剤であるリスペリドンの効果は薄く早期発見にもかかわらず弱っていった。一度は寛解までこぎつけたものの、そのあとの病態は悪くあっというまにこの世を去った。

 母が彼女自身の不思議な世界からいなくなってから、もうすぐ八年になる。ぼくの誕生日が彼女の命日というのは耐えようもなく心に突き刺さる。ぼくは彼女がいなくなった年数を自分の歳の分だけ体に、血脈に刻みつけていくのだ。

木目の粗い座敷机の上には青を基調とした更紗の反物が一反敷かれている。その上に父が昔よく使っていた百日紅が銀色のライターが置かれている。小振りな花につるつるとした肌触りがうまく表現されていて中々の骨董具合を示していた。ただ、母が急逝してからめっきりタバコを呑まなくなった。ひんやりとした銀めっきの感触が嫌いになったのだと言った。

 今はぼくの愛用になったそのライターに手を伸ばして取ると確かな冷たさが伝わってきた。タバコに火をつけると徐々に熱を帯び始めた紙巻が焦げ、その匂いが鼻に広がる。乾いた唇の上にタバコをのせて思い切り吸い込むとふんわりとした煙が今度は肺に立ち込めるのが分かった。この奇妙な吸い方を父はよく馬鹿にしたが、今はもうなにも言わなくなった。

 父は、変な人だった。まだ全然母が健在だったとき。特別意識する前から彼はいつもぼくの視界の外からやってきて面白いことを喋った。

「おい、蒼汰、お前知ってるか?お母さんはな、山の女神なんだよ」

 そう言いながらタバコを吸う父の後ろ姿があまりのも大きく見えぼくはよくその真似をした。

 初めてタバコを吸ったのは十二のとき。片親という世間一般に感じられる風評を哀れにもぼくも受けた。道を踏み外したというわけでもなかったが、母の存在はやはり大きかったのだ。父の袂にすがりつきながらの生活は二人にとって負の要素が占めていたのも承知している。

 唇に火を近づけると顔が火照ってかすかな恐怖を誘起した。それで、何度か口にタバコを咥えながら火をつけようとしたものの、頓挫した。それからずっと馬鹿にされようともこの吸い方が板についてしまった。タバコの吸い方は重要でないよう見えて、意外にぼくの生活に変化をもたらしていた。

中学校に入学してからその吸い方を面白いと言っては笑ってくれる仲のよい、友人ができた。彼女は頭がよく、所謂不良という類の人間を無条件に嫌っていたが、どういうわけだろう、ぼくにはとてもなついた。友人曰く、その吸い方はあいつらがよくやる見栄とか虚勢とかと違って、もっと奥の方に暗闇がある、だって火が怖いのにタバコなんて吸うんだもん。

 友人の言っていることが分からないではなかったが、少し違うと思った。ぼくのはもっと残酷な意味を持っている気した。

 そのうち、友人は県内で一番いい高校へ進学して、ぼくはほかの碌でもない大切な友達たちと同じように近所の高校へ通った。

 それなのに、なぜか今、ぼくと友人は一緒に働いている。たった二人だけの事務所で。


 事務所は暗く壁の冷たさが部屋中に満ちている。冬は底冷えして暖房なんか役に立たないし、それでいて夏は熱がこもって蒸し風呂のように暑い。部屋にはソファが二つ、対面においてあるのとその間に膝丈のテーブルが一つおいてあるだけだ。その上には一皿、灰皿が置いてあってもう灰が幾分かたまっている。友人はタバコを吸わない。吸うのはぼくだけだ。

 部屋の照明をつけると奥のほうのソファに沈み込むように座る。クロスワイヤーの入った網入りガラスにかかった札は中からにて『営業中』になっている。友人が来ないことにはぼくらの仕事は始められない。頭のいい友人にしかこの仕事はできない。

 通学用に使っている白のエナメルバックからタバコと一箱取り出す。中身は残り三本。そのなかで一番色が良さそうなのを一本無意識にとって、火をつける。先端が仄かに赤みを増し、それを口へと運ぶ。吸うと色合いはいきなり増して鉄を炒るときみたいな色になる。煙を外に吐き出すとまとまってゆっくり天井へと昇っていく。前をじっと見る。往来を行く人影がガラス超しに見える。まだ夕方で、人通りは影と同じ濃さをもっている。太陽の明かりの分だけ濃く伸び縮みしている。そしてぼくはそれを認識する。

 事務所のドアが重い音をならして開いた。入ってきた友人が少し疲れた顔でぼくを見た。

「なんだ、もう来てたの?何してんのよ、早く外の札、『営業中』にしてきて」

 ぼくはタバコの火を消すと生返事をして外にでた。夕日が真っ赤に街を染めていた。友人が電源を入れたのだろう。外のネオンライトが鈍い音をたてて光った。『瞬間タクシー』の文字が浮か上がる。頭はいいのに、友人はセンスがないことがよくある。特にこういう、名前を決めるときは、頼りない。

 ぼくは『休業中』になっている札をひっくり返して『営業中』にする。中に入る。友人は今までぼくが座っていたソファを占領して雑誌を読んでいる。僕は言う。

「ねえ、今日はお客さん来ると思う?」

「どうだろう。。。でもだいぶ常連さんも増えてきたし、いいおこずかい稼ぎになってるでしょ」

「分け前がちがうもんな」

友人はなんか文句あるの?といった目つきでぼくを睨んだ。ぼくは肩をすぼめておどけて見せた。

「でも働いてるのは俺なんだけどなぁ」

友人はぼくの抗議を無視して、雑誌を読みつづけている。

「せめて着替えてきたら?せっかく制服だって決めたんだし」

はいはい、と適当な返答をした後で雑誌を乱暴に置くと友人はもう一つある、台所兼更衣室兼控室の部屋に向かった。


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