魔法の鏡
バスローブの熟女は、鏡を床に叩き付けた。年々老いる容姿に、腹が立ったからだ。そして、「また、やったわ…」と、散らばった破片を見つめながら、自己嫌悪した。自然の摂理とはいえども、許せないからだ。
突然、「おやおや。また、割っちゃいましたねぇ〜」と、背後から男の声がした。
「誰っ!」と、熟女は、咄嗟に振り返った。次の瞬間、茶色い背広の男を視認した。その刹那、戦闘態勢を取るなり、「只ではやられないわよ!」と、警告した。一応、我流の護身術を心得ているからだ。
「いや〜。驚かせてすみません。私、こういう者です」と、男が、右手で、左胸のポケットから名刺を取り出すなり、両手を添えて差し出した。
熟女は、怪訝な顔で受け取り、見やった。その瞬間、「あなた、行商人でしたの?」と、つっけんどんに問うた。如何にも、胡散臭いからだ。そして、「私の付きまといかと思ったわ」と、言葉を続けた。
「ははは。よく誤解されます」と、男が、にこやかに受け流した。
「で、何を売り付けたいの?」と、熟女は、腕組みをした。押し売りなら、即刻、警察へ通報しようと思ったからだ。
「新しい鏡をご所望のように見受けられますが…」と、男が、口にした。
「そうね。私が美しく映る鏡がね」と、熟女は、意地悪く返答した。この世に、そんな都合の良い鏡など、在る筈が無いからだ。
「じゃあ、これは、どうですか?」と、男が、くたびれた茶色い旅行鞄を開けるなり、B4大の質素な鏡を取り出した。
「安物ね」と、熟女は、皮肉った。在り来たりの物だからだ。そして、「期待外れみたいだし、通報しましょうかね」と、告げた。
「ま、待って下さい! 見てからでも遅くはないですよ!」と、男が、指摘した。
「そうね。折角だし、見てからでも良いわね」と、熟女は、聞き入れた。そして、両手で持つなり、覗き込んだ。その刹那、息を呑んだ。
「どうですか?」と、男が、尋ねた。
「これ、頂こうかしら」と、熟女は、見居りなから、上機嫌に返答した。一番、綺麗な姿が映っているからだ。そして、「お幾ら?」と、問うた。是が非でも欲しいからだ。
「お客様の喜びが、何よりもの報酬です。なので、無料です」と、告げた。
「そ、そう。じゃあ、早く出て行って頂戴」と、熟女は、見向きもせずに追い払った。
男も、速やかに、旅行鞄を閉じて、外へ出た。そして、「今回のお客様は、若い精神年齢が映ったみたいですね」と、口元を綻ばせるのだった。