9. もるもるはかく語りき
階段で二階に上がると目の前が九谷環境調査の入口になっていた。
少年は何のためらいもなくその扉を開けると、「こんちはー」と声をかけて入っていく。
「あれ……すみません、今誰もいないみたいですね」
「ちょうどお昼だからタイミング悪かったですね……」
ここにたどり着くという目的のために必死になっていたので失念していたが、ちょうど十二時台なので普通の会社はお昼休み中だ。
……それにしても、施錠なしで完全に無人になっていたわけだが、防犯面は大丈夫なのだろうか。
「多分すぐ戻ってきます。お茶入れますね」
「あっ、お気遣いなく……」
「本当は俺が飲みたいんで付き合ってください」
ニコリと笑った彼は、迪歩が止める間もなく奥へと行ってしまった。
迪歩が「出直しますから」という言葉を飲み込んで所在なく立っていると、程なくして少年がグラスに冷えた麦茶を入れて戻ってきた。
「……ソファの方は荒らされてるので、こっちへどうぞ」
彼はちらりとソファとローテーブルの応接セットへと視線を向けたのだが、一瞬だけ眉をしかめ、すぐにミーティングテーブルらしき方にグラスを置いた。
その荒らされた応接セットは、ソファには毛布が、テーブルには書類や雑誌が山積みになっており、飲みかけのペットボトルやコンビニの袋が散らばっていた。毛布は誰かが抜け出したそのままのような形で放置されている。
確かに、荒らされているという表現がしっくりくる。
(藤岡氏の見た目的に、なんかこういうところにいそう)
浮かんできた失礼な考えを、軽く頭を振って振り払い、迪歩は勧められた席に座った。
「お茶、ありがとうございます」
グラスを受け取ってお礼を言うと少年は「いえ」と微笑み、そして少しためらいがちに口を開いた。
「……あの、モカのバイトって辞めちゃったんですか?」
迪歩は基本的に非社交的な性格なのと、もともと由依が復帰するまでの短期間だけの約束だったのというのもあり、常連相手でも軽い挨拶以外はほとんど会話すらしなかった。そして辞める挨拶などもせずにいなくなったので、おそらく辞めたことすら知らない人も多いはずだ。
むしろ一瞬だけいた店員をちゃんと覚えている人がいたことに驚いた。
「モカのバイトはもともと怪我した友達の代わりに短期間だけの約束でやってたんです。私、接客向いてないですし……」
「そんなことないと思いますけど……俺の周りでは評判良かったですよ」
「それは……ありがとうございます」
褒めてもらえるのはお世辞でもうれしい。だが、自分でもダメダメだった自覚があるので少し返答に困ってしまう。
言葉を探す代わりにグラスに口をつけた。
冷たい麦茶を喉に流し込むと、思っていたよりも喉が渇いていたことに気づく。随分と気持ちに余裕がなかったらしい。
ふう、と息をついて視線を前に戻すと、いつの間にかテーブルの中央に乗っかっていた小さな動物と目が合った。
「……」
丸い瞳をぱちくりと瞬かせたその生き物は、どこからどう見てもモルモットである。――だが、少なくともさっきまではテーブル上にはいなかったはずだ。それに普通、会社のテーブル上にモルモットはいないだろう。
ということは……先程エレベーター前で少年が祓ってくれたカエルたちの残党だろうか。
当のモルモットは草食動物特有の無表情でじっとこちらを見つめている。……やはり、どう見ても普通の生き物だ。
「お、もるもる出てきたのか」
少年は突然現れて迪歩を見つめていたモルモットに動揺することなく、その体をさっと抱き上げて頭を撫ではじめた。
もるもると呼ばれたモルモットは気持ちよさそうに目を細めて「キュウ……」と鳴く。
「……ここで飼ってる子なんですか?」
「この子は、えーと、ここのスタッフの一人が飼ってるペット……みたいなもんですね」
みたい、ということは違うのだろうか。
それに少年は『出てきた』と言っていたので、始めからテーブル上にいたわけではなくどこかからやって来たのだ。だが、モルモットは垂直面を登ったり大きくはねたりはできないはずである。……となると、この高さのあるミーティングテーブルの上に、どこから『出て』きたのだろう。
「……」
もるもるの正体がもの凄く気になるのだが、もるもるを撫でている少年も、撫でられているもるもるもどちらも非常に上機嫌で幸せそうにしているので聞きにくい。
これは邪魔をしてはいけないな……迪歩がそう決めて聞くのを諦めたとき、もるもるがパッと顔を上げた。
「ああ、帰ってきたみたいです」
少年が事務所の入口の方に視線を向ける。
それに少し遅れて、扉の向こう側から人の話し声と階段を登ってくる足音が聞こえてきた。
「もるもるただいまー!」
入口の扉が開くと同時に大きな声が響く。
入ってきたのはオフィスカジュアルな服装の女性だった。そして、迪歩たちを見つけるとそのまま動きを止めた。
そして一瞬フリーズした後、自分の後ろに立っている人物を興奮気味にベシベシ叩きはじめた。
「って……ちょっと藤岡くん! 翼くんが女の子連れ込んでる!!」
「真琴ちゃん入り口で止まらないでよー」
痛いってば……と文句を言いつつ入ってきたのは黒いパーカーを着た人物だった。
「あ」
迪歩は思わず声を上げた。
その人物は間違いなく昨日の藤岡だったのだ。
やはりフードを目深にかぶっているので人相は分からない、それでも、とりあえずこんな格好の人物が偶然何人もいるとは思えない。別人ではなかったことにホッとする。
「あれぇ昨日のお姉さん、思ったより来るのが早かったね。翼くんはひさしぶり~」
「ええー、なんだぁ……藤岡くんのお客さんかぁ」
間延びした藤岡の言葉に、真琴と呼ばれた女性は「翼くんの彼女かと思ったのにー」とひどく残念そうな顔をした。
翼、というのは少年の名前のようだ。
その彼は「真琴さん、お客さんが困ってるから」と真琴を軽くにらみつける。
「あらごめんなさい……翼くんって浮いた話が全然ないからついテンション上がっちゃって。私は加納真琴です。真琴ちゃんって呼んでね」
「……この人がもるもるの飼い主です」
「キュ!」
真琴の自己紹介に翼が付け足す。そしてもるもるも同意するように鳴いた。
モルモットは人間の言葉を理解して返事するほど知能が高くないはずなので偶然だろう。
「あの私は今井、迪歩と申します」
「よろしく! 迪歩ちゃんって呼んでいい? 『今井』って名字の人、ここの関係者に他にもいるんだ」
「ど、どうぞ、好きなように呼んでください」
「じゃあ僕も迪歩ちゃんって呼ばせてもらおう~。で、ここに来たってことは昨日のことだよね?」
グイグイ来る真琴の勢いにうろたえている迪歩の向かいの席に藤岡が腰掛け、半ば強引に話に割り込んできた。困っていたので助けてくれたのかもしれない。
「はい、えと……藤岡さんに伺いたいことがあってお邪魔しました」
「うん。お守り役に立った?」
「……えーと多分役に立ったんですけど……」
迪歩はおずおずとテーブルの上に名刺だったものを置く。
「こんな感じになっちゃったんです」
「おっとぉ……昨日の今日だっていうのにこれは強烈だね」
「うわなにこれ……この紙……もしや名刺?」
覗き込んだ真琴が声を上げた。ここまで小さくなってしまうとパッと見で元が名刺だとは分からないだろう。
藤岡が手を伸ばしてその名刺だったものをつまみ上げて「すごいなぁ」とつぶやいた。
「これ……昨日の子にまた会ったの?」
藤岡の言う『昨日の子』とは小乃葉のことだろう。迪歩は頭を振って否定する。
「彼女ではなくて……今朝三丁目のコンビニあたりでちょっと」
「ああー、あれか……最近ちょっと気になってはいたけど」
「三丁目のコンビニ?」
どうやら藤岡は今朝の霊のことを知っていたらしい。迪歩の耳にも届くくらいなのでかなり噂になっていたのだろう。
だが翼や真琴は知らなかったらしく、首をひねっている。
「翼くんとか真琴ちゃんはあそこ通らないだろうから知らないかもね。ちょっと嫌な気配があったんだ。でも基本、遭遇したり障りを受けたりするのは夜のタイプだと思ったけど……迪歩ちゃんの言う『朝』って二時とか三時とかの早朝じゃないよね?」
「普通に七時頃です」
「……だとしたら迪歩ちゃんはだいぶ強力に霊を引き寄せちゃうタイプだね」
ふゆにも「『お客さん』に好かれる」と言われたが、それが引き寄せるタイプということだろうか。
今までふゆの守護でその体質が抑えられていたということは十分考えられる。
だが、動物っぽい――例えば先程のカエルのような小さな『なにか』は前からよく見かけていたのに、人型のああいう幽霊っぽいものは今まで見たことすらなかったのはどういうことだろうか。
あのコンビニのあたりを夜通った回数も一度や二度どころではないが、あんな恐ろしいものはこれまで一度も見た覚えがない。
迪歩がうーん?と首をひねっていると、ちらり、と翼がこちらを見て口を開いた。
「……ここに来たときも色々付いてたけど」
「ああ、お守りの効果がほとんど切れてたからね。翼くんが祓ってくれたのかな?……しかし、今朝やられたんならここまでくるのも大変だったでしょ」
「あ、やっぱり祓ってくれてたんですね。ありがとうございます」
「いえ……大したことはしてないんで」
やはりエレベーター前のアレはそうだったのだ。翼にお礼を言うと、微妙に視線をそらされる。
(あれ、やっぱりそういう話は嫌なのかな……)
それにしても、藤岡はオフィスで普通に心霊現象の話をしているのだが、ここの会社の人達は基本的に『視える』方面の人達だと思っていいのだろうか。
真琴も翼からもるもるを受け取って撫でながら普通の顔で話を聞いている。
そして、もるもるは撫でられてうっとりととろけるような表情で「ぷくく……」と鳴いていた。