86. 会いたくなるから
『タッチパネル?』
不思議そうな声が電話の向こう側から聞こえる。
それはそうだろう。迪歩だってなんでいきなりそんなことを言ってしまったのか分からないのだから。
「あ、違うの……今電話をかけようかどうしようか迷ってたら、えんじゅに通話ボタン押されちゃって……」
『ああそういうこと。別にいつかけてきても大丈夫だよ。授業中で出られなければ折り返すし』
「えっと、それもあるけど違くて……声を聞いたら会いたくなっちゃうから、文字だけにしておこうかなって思っ……て」
自分の口から出た言葉を自分で聞いて、我に返った。
電話の向こうでは言葉に詰まるような気配があり、一拍無音になる。
(あれ? 今、私、勢いあまって会いたいって言っちゃってない?)
『……え、もしかしてドッキリかなにか?』
「……えっ?」
『いや、なんでもないです……そんなことを言うってことは、しばらくこっちに戻らないの? お祖父さんの具合相当悪い?』
「う……ううん、お祖父ちゃんはもう具合良くなったから大丈夫。そんなに長居せずに帰るつもりです」
『そっか、それなら良かった。昨日返事がなかったから、なにかあったのかなと思ってたんだ』
廸歩は祖父が倒れたと言って帰省しているので、返事ができないほど忙しい、イコール、祖父が危篤or死去と考えたのかもしれない。
実際の祖父は風邪をこじらせて寝付いただけ(といっても老齢なので油断はできないが)で、霊脈の淀みがなければもっと早く回復していたはずだ。
「えーと、昨日は……ちょっと色々あってMPがゼロになって寝てたので」
『……は?』
翼の声が若干低い。おっと、これは怒られるやつである。
「きっ、危険はなかったよ? 白露様もえんじゅもいたし……あ、白露様はふゆさんの旦那さんね」
『ふゆさんの旦那さんって龍神だよね……とりあえず大事に巻き込まれてたことは分かった……』
「く、詳しくは戻ったら話します……えーと、あ、そうだ……お祖父ちゃんに、今まで悪かったって謝られたの。だから和解、って言っていいのかは微妙だけど、一応私としてはとりあえずちょっと前進した感じ」
翼の声の調子からは未だに怒られの気配を感じるので話を逸らす。既にチカと和樹に怒られているので、今日のところは許してほしい。
そもそも、翼は迪歩が祖父と会うことを心配していたのでこの報告をするつもりだったのだ。
翼は話を逸らした迪歩にため息を吐き、『和解かぁ……』とつぶやいた。
『迪歩さん自身が前進だと思うならそれでいいんだけど……謝られて、それで許したの?』
「ううん……分かんないから考えて答えますって言った」
チカからは謝って済むことじゃないんだから許すなって言われたんだけどね、と続けると、翼は『うーん』と少し考え込んだ後口を開いた。
『チカさんの言うことも分かるけど、そもそも一方的にひどい扱いをしてきて、一方的に謝ってきた人に対して許すも許さないもないよ。それって、お祖父さんは自分が辛いからって謝罪して、その先を迪歩さんに丸投げしたってことじゃん』
「そうだね……お祖父ちゃんも、許してほしいわけじゃなくって自分の自己満足だって言ってた」
『許す』と言えば今まで押し付けられた苦しみのすべてを水に流すことになる。かと言って、迪歩の性格的に『許さない』と言えば、相手を許さなかったという事実が精神的な苦痛になる。
どちらを選んでも迪歩にとっての救いにはならないのだ。
『だからさ、別に迪歩さんが悩む必要はないと思うよ。後で許してもいいかなって思えたら許せばいいし、納得できないものがあるなら放置すればいい』
放置と言われて、ああなるほど、となる。
迪歩はなんとなく、いずれは必ずAかBかどちらかの答えを出さなければいけないのだと思っていたのだが、答えを出さないという選択肢もあるのだ。
「……翼くんはすごいね。無理に決めずに保留にしておいてよかった」
『なにその感想』
電話の向こうで翼が少し笑った気配がして、それだけでなんとなく嬉しくなる。
「でもちょっと考えたんだけど……私、『許さない』っていうほどお祖父ちゃんに怒ってないんだよね。……今の自分、前ほど嫌いじゃないの。前は私なんかいてもいなくてもいい人間だって思ってたんだけど」
自然と笑みが浮かぶ。
「だけど、翼くんが私のこと、何回も好きだって言ってくれたから。――私の好きな人が私のこと好きって言ってくれるなら、もしかして私ってそんなにいらない人間じゃないのかもって思えたの」
翼は数秒黙り込んだ後、大きくため息を吐いた。
『……離れてるときにそういう可愛いことを言うのは、ちょっとひどいと思う』
ちょっと拗ねたような、弱ったような声に廸歩は思わず声を出して笑った。翼はいつも大人っぽく落ち着いた表情ばかりしているので、今どんな顔をしているのか、ものすごく見たい。
「やっぱり会いたくなっちゃうから、文字にしておけばよかった……」
『かっ、わ……いい……なにそれ、なんでそんな急に甘えてくるの?』
そう言われて迪歩は首を傾げる。特に甘えている意識はないのだが、確かにこういうことはこれまで言ったことがないかもしれない。
「なんだろ……気になってた色々な問題が解決したから気が緩んでるのかも」
『それならそのまま、迪歩さんは普段からもっと甘えていいよ。……ただしできるだけ、俺の傍にいるときにお願いします』
「……前向きに検討します」
***
それから三日後。お盆期間で満席の飛行機にやっとキャンセルが出て札幌行きの便に乗ることができた。
それまでの間、廸歩がいない一年半の間に新しくできたショッピングモールに行ってチカに引きずりまわされたり、母方の実家に挨拶に行ってたまたま来ていた格闘技好きの叔父と手合わせをさせられたりとなかなか疲れる帰省だった。
空港までは再び父に車で送ってもらったのだが、家を出るときに祖父母が玄関で見送ってくれたため、車中で父がずっと『何かの天変地異の前触れじゃないか』と騒いでいた。
祖父への返事は、今際の際の枕元で『もう気にしなくていいよ』と言えばいいかなと思っている。
飛行機を降りると空気がひんやりとしていた。
同じ便の乗客も口々に涼しいと言っていて、北海道だなぁと感じる。
小走りで向かった空港の駅から快速電車に揺られて一時間弱。
「翼くん!」
札幌駅の改札口近くの柱に寄りかかって立っている翼を見つけて駆け寄る。廸歩に気づいた翼は「おかえり」とふんわりと笑ってくれた。
到着時間が夕方になるため、駅で落ち合って九環へ行こうという話になっていたのだ。飛行機に遅延が出るかもしれないから、と始めは断った廸歩だったが、翼がだったら待つからと言い張って結局折れた。飛行機も快速電車もどちらも遅延が起きやすいので実はドキドキしていたのだが、順調についてよかった。
「荷物持つよ」
「ん……と、お願いします」
自分で持てるから大丈夫、と言おうとして、もっと甘えろと言われたことを思い出して言い換える。
翼は満足そうにニッと笑うと、廸歩の持っていたトートバッグを受け取って「重! なに入ってんのこれ」と苦笑した。
「事務所へお土産。重いのは主に常盤さんのお酒です」
「ああなるほど……」
「翼くん……あの、手を繋いでいいですか?」
「っ……可愛い……」
翼はうわごとのようにそう言って顔をうつむけてしまったが、それでも手は握ってくれた。
歩きながら彼の耳が真っ赤になっているのを見ていると、視線に気づいた翼は「どうしたの?」と、ちょっと拗ねたような声を出した。
「翼くんって可愛いなぁと思って」
「……それは全然嬉しくない……第一廸歩さんの方が可愛い」
「翼くんのその拗ねた感じが子供っぽくて可愛い」
「……褒めてないよねそれ?」
「あれ? 褒めてるよ?」
さっきまで照れていた翼は一転して不服そうな表情に変わる。
子供っぽいという言い方は駄目だったか……と考えていると、急にグイッと腕を引っ張られた。
「わっ」
引き寄せられて体が密着する。顔が近い。
びっくりして後ろに下がろうとするが、背中に回された手がそれを阻む。
驚いて見上げる廸歩に、翼は自分の唇を重ねた。
翼は熱のこもった瞳で廸歩を見つめながらわずかに首を傾げた。
「……これでも子供っぽい?」
「…………ぽく、ないです」
「でしょう?」
翼は少し照れた顔でいたずらっぽく笑い、もう一度触れるだけのキスをしてから体を離した。
廸歩の顔は一気に朱がのぼり、自分の鼓動がドッドッと騒いでいるのが聞こえる。
――公共の場所で!!
と慌てて周りを確認すると、普段から人通りが少ない地下通路に人影は見当たらなかった。
真っ赤になって周りを見回す廸歩を見て翼は「周りに人がいたらさすがにやらないよ」と笑いながら再び廸歩の手をひいて歩き出した。
『九谷環境調査株式会社』とかかれたプレートの付いた扉を開け、中に入ると今日は珍しく皆が揃っていた。
真琴の机の上でもるもるが嬉しそうにジャンプをする。
「あ、廸歩ちゃんおかえり!」
「おかえり~」
「おー、おかえり。お土産はー?」
「おかえり廸歩ちゃん」
「おかえり、疲れただろ。お茶を入れるよ、龍太郎が」
「は? 俺? 今のは社長が入れる流れだろ……」
九谷に指名された与田がぶつぶつ言いながら立ち上がった。
見慣れたにぎやかな光景にほっとして、笑みがこぼれた。
――今はここが、私の帰る場所なんだ。
「ただいま。お土産持ってきました」
これにて廸歩のお話は完結となります。
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