80. どうしよう
気合いを入れて出てきたものの、ギシギシと軋む板張りの廊下を歩いているうちにどんどんと意気が削がれていってしまった。
祖父の部屋に続くドアの前に立ち、しばし葛藤すること数分。
「なんだ迪歩か。なにやってんだよお前そこで」
「……和樹。いや、ちょっとね。和樹はどうしたの? 熱出したって聞いたけど」
「部屋の前でずっと立ってる人間の気配がしたら気になるだろ」
斜め後ろの襖が開いて、低い位置から従兄弟の和樹がこちらを見上げていた。
普段は使用していない和室なのだが、今は和樹が使っていたらしい。
四つん這いの状態から柱に凭れかかるように座った和樹は、目は充血して潤み、頬は赤く上気していた。見るからに体調が悪そうである。本当に気になって布団から這い出してきたのだろう。
「ああー、ごめんね。だいぶ具合悪そうだけど大丈夫? 病院行った?」
迪歩は和樹の前にしゃがみ込み、その額に手のひらを当てる。だいぶ熱い。
ゴンッ
「いってぇ……」
「ええ……なにやってるの」
迪歩が熱を測るために手のひらを当てた途端、和樹が勢いよく上体をそらした。
柱に頭をぶつけた和樹は、だいぶ痛そうな音がしただけあって相当痛かったらしい。頭を抱えてうずくまってしまった。
ぶつけたあたりをサラリと撫でると、瘤ができているのが分かった。
「っさわんなって!」
「あ、ごめん……痛かった?」
「そうじゃなくて……!……お前昔っから距離感バグってて嫌なんだよ! 近い!」
そう言われてハッとする。そういえば翼の頭を撫でて逃げられたことがある。やはり自分の距離感は少しおかしいのかもしれない。
「ごめん……気を付けます……和樹は弟みたいな感覚だから、つい……」
「……弟……」
今は叔父一家が引っ越したため別々に住んでいるが、迪歩が小学校に上がる頃までは和樹もこの家に住んでいた。そのため、迪歩にとって二つ年下の彼は弟同然である。
ただし彼は迪歩が苦手らしく、仲良く過ごした記憶はほぼなくて、逃げられたり憎まれ口を言われたりした記憶のほうが多い。
「そうだ、具合が良くなるおまじないしよう」
「は?」
これも霊障なら先ほど祖母にやった邪気払いが効くかもしれない。
迪歩は和樹の返事を待たず、素早く印を組んだ後両手で和樹の手を包んだ。
「……」
少しだけ空気が変わったような気配がした。うまくいった気がする。――顔を上げると和樹は首まで真っ赤になっていた。
「え? 顔色やばいよ?……どうしよう救急車? 父さんに車出してもらって病院行ったほうが早いかな」
「……っだから近いんだって……! ああもう大丈夫だよ、寝てれば治る!!」
「えっ、でも……」
ピシャン!と襖を閉められてしまった。
大丈夫だろうか。後でだれかに言って様子を見にいってもらおうか……迪歩が行ったらまた怒らせてしまう未来しか見えない。
おろおろしていると、襖が少しだけ開いて再び和樹が顔を出した。
「お前、祖父ちゃんのとこ行くんだろ。俺ここ来てすぐ熱出したからまだ会ってないんだよ。風邪だったら感染るかもだし。……だから俺の分もついでによろしく言っといて」
「和樹の一人称が『僕』から『俺』に……」
「何の話してんだよ! いいからさっさと行け!!」
またピシャンと閉められた。
ここ数年、会ってもまともに会話をしていなかったので一人称の変化に割とびっくりしたのだが、多分ずっと前からなのだろう。でも怒りっぽいところは変わってないな。と、迪歩は一人で少し笑った。
(さてさて、いつまでも後回しにはできないな。……大丈夫、挨拶するだけだし、頼まれちゃったし)
深呼吸して祖父の部屋のドアをノックすると、小さい声だが返事があった。意を決しドアノブをひねる。
「失礼します……お祖父ちゃん、お久しぶりです」
「……迪歩か」
ベッドに横になっていた祖父は迪歩の姿を認め、体を起こそうとした。
その動きが危うく見えて、迪歩は思わず駆け寄りその体を支える。――その体は驚くほど軽く、頼りなかった。
チカが『枯れたジジィ』などと言っていたが、迪歩の記憶にあるよりも痩せたような気がする。
この家の中で毎日会っていたときはあんなにも恐ろしく威圧的に見えていた祖父は、しばらく離れてから改めて会ってみると、どう見ても普通の人間だった。
「さっき随分騒いでいたが、和樹の声か」
「私が余計なことを言ったから怒らせちゃって……でもお祖父ちゃんによろしくって言ってました」
「そうか。……夏風邪が長引いただけで大したことはないんだ。倒れたくらいで周りが騒いでわざわざ呼び戻したみたいで、……悪かったな」
「……いえ」
部屋の中には黒いもやだけではなく、ぼんやりした人影のようなものがいくつも視えた。この状況は別の場所でも見たことがある――死期の近い人の部屋だ。
死が近いから邪気が寄ってくるのか、邪気が寄ってくるから死が近付くのかは迪歩には分からないが、どちらにせよ良い状態とは言えない。
迪歩は印を組み、本日三度目となる邪気払いのおまじないをする。
部屋の中の人影などは槐に頼んで追い払ってもらおう。そう考えていると小さなつぶやきが聞こえた。
「お前は本当に不由に似てるなぁ……」
「……え」
祖父の口からふゆの名が出るのなど本当に何年ぶりだろうか。
彼は少しの間目を閉じ、そして再びまぶたを開けるとゆっくりと話し始めた。
「……小さい頃、俺が熱を出しても不由がそばに来ると不思議と体調が良くなったんだ。あれは何だったんだろうな……」
遠い目は、迪歩の姿の向こうに別の人間を見ているようだった。
「今井の家はな、昔から霊感のある人間が生まれると言われてた。それが本当かどうかは知らないが、うちは村の中で元々気味悪がられてたんだ。――そこに不由が神隠しに遭って、周りから冷たい目を向けられるようになった。……俺は学校で嫌がらせを受け、村の大人たちからは腫れ物のように扱われた。その全てが不由のせいだと思った……なのにあいつは傲慢で、周りの目なんか気にしてなかった」
祖父は独り言のように昔話を始めた。
迪歩は黙って立ち尽くしたままそれを聞いていた。
「本当はそうじゃなかったかもしれないけどな。……不由は被害者だ。なのに俺は、神隠しに遭ったことすら全部あいつが悪いんだと、周囲から自分に押し付けられた理不尽への不満を全部不由にぶつけた。でもあいつは一度も言い返したりしてこなかった。――だから自分の言うことは正しいんだと自分に言い聞かせて、罪悪感から逃げ続けた」
今まで遠いなにかを見ていた視線が迪歩に向く。
「迪歩、お前が生まれて……俺は怖かったんだ。幼い頃の不由のような姿と、見えないなにかを視ているようなその目が。……お前の目を見るたびに、自分が不由に対してやってきたことの全てを糾弾されているように感じてしまった」
祖父はベッドの上で迪歩と向き合うように座り直した。真っ直ぐに迪歩を見つめ、はっきりとした口調で続けた。
「お前には何の非もなかったというのに、お前と不由の姿とを重ねるあまり辛く当たってしまった。俺の個人的で理不尽な恨みや未熟さのせいで、お前の人生を大きく歪めてしまった。今更なにを言ったところで許されることではないと思っている。……だからこれは単なる俺の自己満足だ」
「これまで、お前を傷つけてきた全てのことを謝罪させてくれ。……本当に、申し訳なかった」
そう言って、祖父は深く頭を下げた。
迪歩はただ呆然とその姿を見ていた。
そして、祖父がいつまでもその体勢のまま頭を下げ続けていることに気付き、慌てて声をあげた。
「……あ……頭を、上げてください……」
迪歩が声をかけると祖父はゆっくりと頭を上げた。
「一方的に喋って悪かったな。……許してほしいわけではなくて、ただ、自分もいずれ死ぬのならその前に心残りを減らしておきたいと思ってな」
なにか、言わなければ。
そう思っても頭が真っ白でなにも言葉が浮かんでこない。
謝罪されたら許すのが普通だろう。でも許してほしいわけではないと言われた。
どうしよう。どうするのが正しい?
お祖父ちゃんに怒られないためにはどうしたらいい?
「……」
とっさに浮かんだ考えに、しん、と頭の奥が冷えてゆく。
きっとこれが、祖父によって植え付けられた迪歩の『歪み』なのだろう。
「……」
二人共黙り込んだまましばらく時間が過ぎた。
コンコン
ノックの音にハッとする「なんだ」と祖父が返事をすると、開いたドアから祖母が顔を出した。
「町内会長さんが来られたけど通していい?」
「……ああ、夏祭りの話だろ。来てもらってくれ」
「えと……じゃあ私は失礼します」
混乱した頭のまま、迪歩は軽く会釈をして祖母の脇をすり抜け部屋から出る。
どうしよう。許すって言うべき?
でも、こうするべきとかじゃなくて、自分がどうしたいか考えなきゃ。
どうしたい?
――どうしよう。




