8. 九谷環境調査㈱
授業が終わったら、すぐ行こう。
そう心に誓って大学へ行き、まんじりとしながら授業を受ける。
一限目を終えて、二限目の教室へ移動する。
「……」
「ねぇ、廸歩。なんか今日も顔色悪くない? 昨日ちゃんと寝た? 大丈夫?」
「……ヘイキですよ?」
隣の席に座った由依が心配そうに顔を覗き込んでくるが、迪歩はあいまいに笑って返す。
由依は全然納得していない顔をしていたが、それでも授業中なので引き下がった。
本当は、全然平気ではなかった。
今朝あの後、交差点付近にはおかしな気配はなくなっていた。そのため、とりあえずそのまま信号を渡って目的のコンビニに寄ったのだが――。
コンビニを出てから、朝一限目の教室に入るまでの間に怪しい影を見かけてルートを変えること四回。
二限目のこの教室までは由依を含む友人たちと移動してきたので、ルート変更をすることができず、小さななにかがいくつかついてきてしまった。
そして、授業が始まった今。
階段状になっている大講義室の後ろの方に座っている廸歩は、前の方の席に座っている数人の学生たちからじっと見つめられていた。
講義中なのに、その数人は露骨に後ろを向いている。その、全員が張り付けたようなニコニコの笑顔を浮かべている。
講義をしている教授も、ほかの生徒も、そんな学生がいるのになぜか全く気にしていない。
(そういえばこの講義室、『出る』って噂あったな……)
それらとなるべく目を合わせないように努力している間にも、移動中についてきてしまった小さいなにかが肩や頭の上によじ登ってくるので物理的? な意味で頭が重たくなってくる。
廸歩が教科書をめくると、その動きで肩の上に登っていたカエルのような姿をしたものが転がり落ち、ノートの上にびたんと倒れた。
反対側の肩に乗っていたネズミのようなものはそれが面白かったのかきゃっきゃと笑いだす。
カエルは悔しそうに地団太を踏み、またのそのそと迪歩の腕を伝って登り始める。
「……」
(う……動きにくい……!)
これは、精神的にも体力的にも夕方まで持たないかもしれない。
午後サボって行くべきだろうか。だが、午後の二つある講義のうち、片方は必修の専門科目なのでできるだけ出席したい。
そんなふうに悩んでいると、教壇に立つ教授が授業の終わりを告げた。
それと同時に、ずっとニコニコ廸歩を見つめていた学生たちが立ち上がったのが見えた。
(前は向いてないくせに、授業の終わりまではちゃんと席についてるんだね……!)
廸歩は机の上のものを慌ててカバンに突っ込み、早足で講義室から飛び出した。
「え? 廸歩どうしたの!?」
友人たちの戸惑った声が聞こえたが、今は構っていられない。
講義室を出て、扉から少し離れたところで足を止めて視線だけで振り返ってみる。
(追いかけて来て……ない)
おかしな学生たちの姿はなかった。彼らは部屋から出られないタイプなのかもしれない。
カエルやらネズミやらはまだ肩や背中にしがみついて歓声を上げているが、こちらは今のところそれほど悪さをするそぶりはないため、とりあえず無視することにする。
ひとまず危機が去ったことにほっと息をついているところに、友人たちが出てきた。
「どうしたの廸歩、急いで飛び出して」
「ごめん、ちょっと大講義室の中空気悪くて……」
えへへ、と笑ってごまかす。
その時、少し遅れて講義室出てきた一人が「ねぇこれ見て!」と、迪歩たちに向けて嬉しそうにスマホの画面をさっと掲げた。
「午後の演習休講だって! 今掲示板に張り出されたらしいよ」
「え、ほんと?」
スマホに表示された写真には、理学部の掲示板に貼られた休講通知が映っていた。それは、今まさに廸歩がサボるかどうか迷っていた必修科目のものだった。
もしかしてこれは天の配剤ではないだろうか。
「そうなんだ……じゃあやっぱり私、ちょっと調子悪いみたいだから午後の選択授業は休む。ごめん由依、後でノート写させて」
そうなったら一刻も早く向かいたい。
迪歩は慌てて飛び出してきたせいできちんと背負えていなかったリュックを背負い直し、由依に向かって手を合わせた。
「うんうんそうしなー。一人で帰れる? 送ろうか?」
「大丈夫、大丈夫。ぶらぶら歩いてくから」
じゃあね、と友人たちに手を振って別れ、講義棟を出たところでスマホを取り出し地図アプリを立ち上げる。
あらかじめ印をつけておいた九谷ビルへのルートを検索すると、大学から北方向に徒歩十二分と表示された。
大きな通りから一本中に入った細い通りに面しているらしい。
(よし、行こう)
その地図に従い、大学を出て広い通りを北に向かって細い側道へ入る。
普段の迪歩の行動範囲は大学とその西側にある自宅、それに南側にある駅の周辺だけなので、北側へ徒歩で来るのは初めてだった。
見慣れない景色に、これから訪ねるのはなんとも得体のしれない相手……ということで心細さがすごい。
しかも『お客さん』に警戒しながら、である。
今朝のようにルート変更を余儀なくされたときに迷わないようにしないと……と意気込んでいたのだが、不思議とこの側道にはおかしなものの気配はなく、肩透かしを食らった気分だった。
そしてしばらく進んだところで、かすかにパンの焼けるいい匂いが辺りにただよい始めた。
「あった、ベーカリーnine」
ちょっとおしゃれな個人経営のパン屋さん、といった趣の店からは甘さを含んだ香ばしい香りがただよってくる。
大きな窓からちらりと店内を覗いてみると、棚にはこんがりきつね色に焼き上がったパンがきれいに並んでいて、レジのそばで店員らしき五十代くらいの女性がお客さんと談笑している様子が見えた。
そのパン屋は非常に魅力的だが、目的はそこではない。
後ろ髪を引かれつつそのままパン屋さんの窓の前を通り過ぎ、迪歩は『九谷ビル』と書かれたビル入口のガラス戸を押し開けた。
外にも漂っていた香ばしい香りが強くなってお腹が空いてくる。そういえばお昼ごはんを食べていなかった。
食べていないと気づくと急にひもじい気持ちになってくる。
(……絶対帰りにパンを買う。夕飯はパン)
ガラス戸から入った先は小さなホールになっていて、右手にパン屋の入口があり、左手は階段室、正面はエレベーターになっていた。
エレベーターの横には『2F 九谷環境調査㈱』と書かれたプレートが貼ってある。目的の場所はここで間違いないようだ。
エレベーター前に立って、△ボタンを
……押す決心が、なかなかつかない。
ここに来て、本当にあの時のフードの人物はこの会社の藤岡氏と同一人物なのか? という疑問が浮かんでくる。
(だってやっぱりおかしいよね? なんで環境調査会社の人が魔方陣を描いたりするの?)
しかも、『訪ねておいで』と渡された唯一の証拠である名刺は、今や文字もまともに読めない黒い紙片となってしまっている。
今日半日の間でかなり焼失が進んでしまった。魔方陣が欠けた後もある程度守ってくれていたのかもしれない。
――こんな黒焦げになった名刺の欠片を持って訪ねていって、もしフードの人と藤岡氏が別人だったら。……この会社の人達には、迪歩が相当やばい人に見えるのではないだろうか。
エレベーターのボタンとにらめっこしながらためらっていると、後ろの方でガタンと音を立ててドアが開いた。
ピャッと肩が跳ねる。
誰か来た。どうしよう!
いや、でも、九谷環境調査の人であればここで藤岡が目的の人物かどうか確認できるかもしれない。
それに、このまま背を向け続けていたら完全に不審人物だ。
一瞬の間にぐるぐると考え、勇気を出して振り返ってみると、そこに立っていたのは一人の男性……というか少年だった。
おそらく迪歩と同年代で、雰囲気的に高校生か大学生だろう。
非常に整った顔でアイドルグループのメンバーだと言われても納得の美形だ。ちょっと目つきがキツめだが、それはそれでかっこいい。
……というか、どことなく見覚えがあるような気もする。大学の人だろうか。
「あれ、モカの……」
迪歩が記憶をたどっていると、少年が驚いたような顔でそう呟いた。
(あ、思い出した。喫茶店モカの常連高校生グループの一人だ)
二日に一回ほどのペースで来店する常連の『上田くん』と、日によって来たり来なかったりする数名の友人たちによるグループで、ここにいる少年はその日替わりメンバーの一人だった。
迪歩がバイトしていたときに何度か来ているので見覚えがあったのだ。
それにプラスして、実はアイドル好きの由依が彼のことを「身内が履歴書送って書類審査受かるタイプ」と評しており、なるほど……と思ったので印象に残っていた。
「確か、上田くんのお友達ですよね」
「!……はい。えっと、九環になにか御用ですか?」
「キュウカン……?」
「九谷環境、の九と環で略して九環なんです」
「ああ、なるほど。……えーと、私、こちらの藤岡さんという方に名刺を頂いていて。ご相談したいことがあって伺いました」
まあその名刺はもう見る影もないが。
「祐清さんのお客さん……そっか」
「え?」
「いえ……どうぞ、二階なんで。ああその前に」
ちょっと失礼します、と少年が迪歩の左肩の上辺りに手を伸ばしてきた。
距離が近くてヒャッ!? となる迪歩には構わず、彼はそのまま左側に空を切るように腕を動かした。
と、同時に体が少し軽くなる。
「……なにか、ついていましたか?」
視界の端に、廸歩の肩や頭から飛び降りたカエルたちがきゃあきゃあ言いながら姿を消すのが見えた。
――多分、彼も藤岡と同じく祓える人なのだ。
「小さいゴミが。……っと、失礼しました」
迪歩が思わずじっと少年を見つめていると。その視線に気づいた少年が目をそらし大きく後ろに下がって廸歩から離れた。
迪歩が不躾に見すぎてしまったようだ。そういう能力があることはあまり人に知られたくないのだろう。
廸歩がしゅんと反省している間に、少年は階段室の方へ向かっていく。
「そのエレベーター、たまに止まるんで階段からどうぞ」
「とま……るんですか」
「なんか建物と相性が悪いみたいですね。壊れてはいないらしいんですけど」
もしかして資金難で修理しないのだろうか……と頭の中によぎったが、さすがに口をつぐんだ。