77. 呼び声
幻影の月夜は消えていた。
廸歩が危険な状態であると判断した槐が、廸歩と月夜とを繋ぐもののすべてを吹き飛ばしたからだ。
その幻影を作り出した蒼はまだ催眠状態で横たわっている。現在は彼女を目覚めさせる前に状況整理をしているところである。
「明らかな虐待を受けてはいましたけど、行方不明そのものは事故ですね。……あの状況で生存は、望みが薄いと思います」
先ほど視たものをかいつまんで説明しながら、口の中が泥水で満たされる感覚がよみがえってきた廸歩は顔をしかめる。しばらく夢でうなされるかもしれない。
せめてもの救いは、月夜が直接親に殺害されたとか、尊厳を踏みにじられた末の死とかではなかった……というくらいか。
「どうせ死んでるってことは分かってはたけどね。もう行方が分かんなくなってからひと月近く経ってるんだし」
座卓に頬杖をついた大塚はこともなげにそう言う。
そうかもしれないが、生きている証拠も死んでいる証拠もなかった以上、シュレーディンガーの猫のように、観測しなければ死は確定ではなかった。可能性が低くても生きているという希望を完全に捨てられなかったのだ。
とはいえ、蒼も月夜が生きているとは思ってはいないようだった。だから降霊術を試したのだろう。
「月夜さんはずっと蒼さんを呼んでいるみたいです。だから蒼さんも幻影という形で無意識にそれに応じてたんだと思います。向こうの親のところに乗り込んでいったのも、降霊術も、多分そのせいじゃないでしょうか……呼ぶ力が強すぎて、私も自力で離れられなかったくらいですし」
腕の中に抱え込んだ槐の頭を撫でる。槐がいなければ、命を落とすまではいかなくても昏睡状態くらいにはなっていたかもしれない。
ちなみに、廸歩は月夜を自分の中に招き入れていたので完全に重なった一人称視点で月夜の記憶を体験したが、蒼は自分と月夜の間に自分で作った幻影を挟んでいるため、スクリーンに映し出された映像のような三人称視点として視たのではないか……というのが藤岡と梨奈の見解である。
落ち着いてから一番にそれを確認して、廸歩は胸をなでおろした。
いくら蒼が真実を知りたがっているとしても、溺死の追体験まではさせたくない。
「月夜さんはずっと蒼さんに助けを求めてるってことかしら?」
「いえ……助けて欲しいというより、単純に会いたかったんだと思います。月夜さんにとって蒼さんは、辛い生活の中の救いのような存在、だったみたいですから」
重なった記憶がまだ鮮やかに残っていて胸が苦しくなる。
あの時強い風が吹かなければ、あの時ポケットからスマホが落ちなければ、なんとか夜を越してまた蒼に会えたのかもしれない。
いつか虐待からも救われる日が来たかもしれない。
廸歩の見解を聞いた梨奈は少しだけ眉間にしわを寄せた。
「そう……。大塚くん、蒼さんを起こしてくれる?」
「はーい」
梨奈の言葉に応じて大塚は横たわっていた蒼の上体を起こし、パチンと指を鳴らす。首筋に噛みついていた蛇が消えるとすぐに蒼のまぶたが震え、そしてゆっくりと開かれた。
「蒼さん、大丈夫?」
「は……ぃ……っ」
大塚が声をかけると蒼は返事をしようとして――そのまま泣き崩れた。
「月夜……つきよ……っ……うああぁぁ」
蒼が落ち着くのを待って、蒼の見た光景と廸歩の視た月夜の記憶を照らし合わせて補完していった。
予想通り、蒼は映画を観るように過去の月夜の姿を見ていた。家を追い出され、風雨の中を彷徨い、川に呑まれるまでの一連の姿を。
目の前にいる友人を助けることができないというのは、相当辛かっただろう。
「蒼さんが幻影を作ってしまうのは月夜さんの呼びかけに無意識に応えているから、というのがこちらの見解です。――ですので、やはり一度蒼さんの能力は封じたほうがいいと私は考えています」
赤い目を潤ませ、時々鼻をすすっている蒼は梨奈の言葉に少し首を傾げた。
「それは……私がまだ月夜の……遺体を、探したがっているからですか?」
「それもありますが、むしろ問題は月夜さんのほうです。彼女は現時点ではただ蒼さんを呼んでいるだけですが、この先もそれが変わらないという保証はありません。肉体という器のない魂は周りの影響を受けて変質しやすいものですから。……いつか、蒼さんに害をなす存在になるかもしれません」
「害っていうのは、悪霊になるっていうこと?」
「そうですね。一つは見境をなくして人に襲い掛かるような悪霊化。そしてもう一つ……まず知っておいてほしいのが、今回、廸歩ちゃんは同調した月夜さんの魂の記憶から自力では離れることができませんでした。川に落ちて溺死する記憶からです」
ハッと蒼の視線が廸歩のほうを向いた。
廸歩もまだあまり思い出したくなくてその辺りのことはあまり詳しく話していなかったのだ。だが廸歩が月夜の視点で記憶を追体験していることは説明してあるため、ここで梨奈が言わんとしたことは伝わったようだ。
「現時点で蒼さんの作り出す幻影と、月夜さんの魂の間にある繋がりは非常に弱いものです。ですがそれは繰り返していくうちにどんどん強固になっていくでしょう。いずれ蒼さんが今回の廸歩ちゃんのように月夜さんの魂と同調して、その記憶に囚われてしまうという可能性は非常に高いです。そうなったとき、蒼さんを守るすべがありません……それは月夜さんも本意ではないでしょう」
「……分かりました。正直なところ、自分にそんな能力があること自体ピンとこないので、封じるってこと自体は構わないんです――」
それよりも、と、蒼は視線を下に落とした。
「……月夜を、見つけてあげたいです……」
「……ええ。こちらでも打てる手は打ってみます。ただ、警察もすぐには動いてくれないと思いますが……」
月夜の場合、両親が家出として行方不明者届を出しているので現時点で警察は積極的な捜査をしていない。ましてや、川の捜索となると労力が大きいので、他に何か事情がなければ実施されないだろう。
転落地点は分かっているので目撃証言をでっちあげることもできるが、すでに事故から一か月近く経っているのに今更目撃したなどというのは不自然すぎる。
梨奈の『打てる手』がどこまで及ぶかは廸歩には計り知れないが、それでも色々掛け合って調整して――となるのだろう。むしろ偶然発見されるほうが早いかもしれない。
「そうですよね……」
「……蛇足かもしれませんが、ご自分で探すというのはあまり考えないでください。もし探すとしても絶対に一人では行かないでくださいね。川は事故が多い場所ですから」
「……はい」
返事までに少し間があったので、おそらく自分でも探そうと思っていたのだろう。うつむいたまま黙り込んでしまった少女の姿に、梨奈は小さく息を吐いた。
それが呆れや怒りからくるため息だと思ったのだろうか。蒼は慄くようにぴくりと小さく肩を震わせた。
しかし――。
梨奈は黙って膝立ちになり両手をスッと蒼の頭上に伸ばした。蒼は不安そうにそれを見上げる。……ついでに周りの人間の頭にも? マークが浮かぶ。
その両手でぐわしと蒼の頭を掴み、梨奈はそのまま蒼の髪の毛がぐしゃぐしゃになるほど乱暴に撫で回した。
「あなたはまだ中学生でしょう? もっと怒っていいし泣いていいのよ。だって、子供に暴力振るう親なんて最低じゃない。悪天候の日に家から追い出すなんてありえないでしょ。それにいざというとき子供が公の機関を頼れない社会だってクソなのよ。子供を守るのは社会全体の役割だし大人の義務なの。あなたは子供なんだから、月夜さんを守れなかった大人や社会にもっと怒っていいの。物分かりよく我慢することなんてないのよ」
「あっ……うあ……はぁいぃ……」
髪の毛をかき回されるたびにぐらんぐらんと頭が揺れるので、蒼はまともな返事ができていない。
「ただ、怒るのは今はこの部屋の中だけだけど。いつか月夜さんがちゃんと見つかったときに、思う存分罵詈雑言ぶつけてやればいいのよ伊藤家のクソ夫婦に」
なおも撫でようとする梨奈の手を、翼が掴んで止めた。
「常盤さん落ち着いて。蒼さんが目回しちゃうから。それに最後、だいぶ常盤さんの私情入ってるじゃん」
「はっ……ごめんなさい、つい……私、虐待とかほんっと許せないもんで……」
「だ、大丈夫です」
めちゃくちゃになった髪を手櫛で整えながら顔を上げた蒼の瞳は、先程までの行き場のない悲しみの色が消え、決意を込めた強い光が宿っていた。
「……すごく悔しいけど、今はまだ我慢します。でも月夜が見つかったら、その時は月夜の親を思いっきりぶん殴ってやります」
「えーと、殴るのは少し問題があるので罵倒くらいで止めておこうね?」
強く言い切った蒼に藤岡が控えめな笑顔で言葉を返した。蒼は困った顔で「そっか暴力は……大人の男には敵わないもんな……」と呟き、少し考え込む。
「……うんと、じゃあできる限り相手を貶める酷い言葉を考えておきます……」
「その意気よ」
「そういうことじゃないけど……まあいいか……あと、梨奈は後で今井さんから説教受けなさい。」
「……はい」
ため息交じりの藤岡の言葉に梨奈が背筋を伸ばした。その辺りの指導は今井の役目らしい。
「……俺の可愛い妹分が駄目な大人に汚染されていくところを目撃してしまった」
その光景を気遣わし気に――しかし本心は楽しんでいるのだろう――眺めていた大塚がぼそり、と呟いたのが耳に届き、廸歩は思わずため息を吐いた。




