70. 電話越し
「あ、廸歩さんちょうどよかった。お風呂の用意できてます。部屋に浴衣置いてありますので」
「ありがとうございます」
疲れたので横になるという蒼の部屋を後にして、廊下を歩いているところで笠原に声をかけられた。
蒼は具合が悪いと聞いていたが、本人が言うには体調は悪くないのに、いつもよりも妙に疲れやすいのだそうだ。
それも魔術を使った影響なのだろうか――と考えながら客間の前に着いたところで、後ろから誰かに抱きつかれた。
「あれぇみちほちゃんおふろー? 一緒に入るー?」
「とっ……常盤さん」
危ない。考え事をしていたせいでとっさに相手のみぞおちに肘を入れそうになってしまった。
梨奈は完全に出来上がっているらしく、「えへへ~」と笑いながらギリギリとしがみついてくる。
「常盤さん、痛いです」
どうやって抜け出そうかと困っていると、居間の方から藤岡が慌てて出てきた。
「ごめん廸歩ちゃん、目を離した隙に逃げられた。……梨奈やめなさい。酒を抜いてからじゃないと風呂は入れないよ。ほら廸歩ちゃんを離して」
「やだぁ、ゆうせいってば妬いてるのー? じゃあゆうせいと一緒でもいいよー」
と、廸歩から離れて今度は藤岡に抱きつく。
「あーハイハイ、分かった分かった。……廸歩ちゃんお風呂行っていいよぉ。この人は酔いが醒めるまで僕と今井さんで止めとくから」
「あ……ありがとうございます。じゃあ行ってきます」
「はーいじゃあ梨奈は向こうでお水飲みましょうねぇ」
「お水飲むー」
まるでぐずる子供を宥める保育士のような口調で藤岡は梨奈を居間の方へ連行していった。
しかし、酒の席が始まってからまだ一時間もたっていないというのにあそこまで酔えるのは逆にすごい気がする。先程の今井達の話だとお酒が弱いというので、あまり量を飲んでいない状態でアレなのだろう。
……酒に弱いのに酒好きというのは本当に罪深い。
お風呂上りに用意してもらった浴衣を身に着け、スマホの画面を確認するとSNSに新着メッセージが来ていた。着信の時間は一時間ほど前――ちょうど蒼と話していたころだろう。
送り主は翼で、『泊りになったって聞いたけど大丈夫?』と。
台所で休憩していた笠原に風呂から上がったと伝え、その足で縁側から庭に出る。
日の落ちた庭は波の音だけが静かに聞こえた。
今日はそこまで暑くない。
潮の匂いの混ざった風は少しひんやりとしていて、湯上りの浴衣姿だと火照りが引いてちょうどいい。
『今画面見ました。通話できますか?』とメッセージを送ると、すぐに向こうからコールが返ってきた。
『通話珍しいね、何かあった?』
「大丈夫ってメッセージ入れても信じないだろうなと思って」
『確かに。廸歩さんは駄目でも大丈夫っていうからね』
少し笑った翼の声は電話越しに聞くといつもより少し低く聞こえる。
耳元で聞こえるのは囁かれているようで、少しだけ心臓が騒ぐ。
「でも危ないことは今のとこないし、お孫さんともちゃんと話しできたし、それにえんじゅもついててくれるし……本当に大丈夫なんだよ」
『えんじゅって……そういえば呼べば来るって言ってたっけ』
「うん。今日初めて呼んだら『今まで全然呼んでくれなかった』って拗ねてて大変だったけど。今は屋敷内の気配見張ってくれてて、変化があったら教えてくれることになってるの」
廸歩の守護獣となった狐の槐は、迷い家でずっと廸歩から呼ばれるのを今か今かと待っていたらしい。
なのに一か月間全くの放置。
呼び出しには応じてくれたものの『みちほが槐の名前を憶えていたとは思わなかった』とそっぽを向いてしまい、ご機嫌を取るのにしばらく時間がかかった。
廸歩としては、あまりつまらない用事で呼び出すのは悪いと思って呼ばなかったのだが、そういう気遣いはいらないと怒られた。
今回槐を呼び出したのは小倉邸に散らばった黒いもやもやを集めるためだ。
霊の寄り付きやすい『場』となってしまった倉庫には藤岡が結界を張ったため、それが機能している限りはおそらくこれ以上霊がよってくることはないだろう。
だが、すでに屋敷中をうろついているもやもやは個別に祓っていく必要がある。
そこで藤岡が提案したのが、槐を呼び出してもやもやを一か所に集め、一気に祓ってしまう方法だ。
もやもやは槐の気配を嫌って逃げるので、それを利用して牧羊犬がやるように誘導しようというものだった。
『へえ、結構難しそうな気がするけど、うまくいったんだ』
「半分くらいは。残り半分くらいはうまくいかなくて焦れたえんじゅが妖術で焼いちゃった」
始めから予想はしていたが、やはりそこまでうまくは誘導できなかった。そのため『もう槐がやる!』と言って妖術で焼いてしまったのだ。
集めて祓おうが、妖術で焼こうが結果的には一緒ではあるのだが、妖術は使った後に若干のケガレが発生するらしい。そのため改めてその場所の清めが必要になってしまった。それでもいちいち祓うよりはだいぶ手間が省けたので結果オーライだ。
「まあ、だから心配ないよ。大塚君も藤岡さんが見ててくれるし」
『大塚……あいつまで泊まってるのすごい嫌なんだけど……』
「あ! でも、大塚くんがいるおかげで酔っぱらった常盤さんに絡まれなくてありがたいって今井さんが言ってたよ」
普段だと主に絡まれるのは今井で、次点が藤岡なのだそうだが、今回はほぼ全て大塚に向かったのだ。
それを聞いた翼が『ああ……あれね……』と、若干憐れみを含んだ調子で呟く。おそらく翼も絡まれたことがあるのだろう。
「私も抱きつかれてびっくりした。すぐ藤岡さんが来てくれたけど」
『あー……常盤さんって、特に本人が隠してないから言うけど、あの人男でも女でもどっちでもいける人だから。酔ってるときは気を付けて』
「……え!?」
『特に廸歩さんみたいに大人しい美人が好みだから。人のものには手を出さないって決めてるらしいから、しらふの時は全然問題ないんだけど』
「……そ……それで、私が翼くんのものって……」
『そう』
真琴や翼がわざわざ梨奈に『廸歩は翼のもの』宣言をしたのが謎だったのだが、そういう理由があっての牽制だったらしい。
「そっか……でも常盤さんって、びしっとしてかっこいいし色っぽいから、迫られたらクラッとしそう」
『えっ!?』
「……ただの一般論ですよ」
『……もう廸歩さん心配すぎるから早く帰ってきてよ。勉強に集中できないじゃん』
拗ねたような声で言う翼に思わず笑う。
そのあとしばらく他愛のない話をして、通話を切るころには少し体が冷えていた。
時刻は二十二時を回ったところだ。
幽霊が出るのは深夜から早朝なので、少しだけ眠るのもありかもしれない。
ひとまず一度居間の方に顔を出して、藤岡がいれば声をかけておこう。
――と、屋敷の方に踏み出した瞬間、視界の端に動くものが見えた気がして足を止める。
一呼吸遅れて廸歩の足元の影から一匹の狐が現れた。
「みちほ、気配が動いた」
「えんじゅ」
現れた槐は蔵がある方向を睨みつけている。
その視線の先に目を向けると、やはりロングパーカーの少女、月夜がふらふらと屋敷の裏に向かって歩いていくところだった。
「追うか?」
「……えんじゅだけ先行してくれる? 私は藤岡さんに声かけてくる」
「わかった」
槐が姿を現しているときは、廸歩にはなんとなく彼のいる位置が分かる。ここは別行動して藤岡か(正気に返っているなら)梨奈を呼んでくるべきだろう。
返事をした槐は音もなく駆けていった。それを見届け、廸歩も屋敷の中へ駆けこんだ。




