6. 猫と喫茶店
藤岡が名刺を残して去った後、再びその場に小乃葉の霊が現れることはなかった。
どうやら小乃葉は藤岡と入れ替わるようなタイミングで姿を消したようだが、もらった障りがあまりにも強烈過ぎて、迪歩にはいつ消えたのかははっきりと分からなかった。
ただ、藤岡の声が聞こえたあたりから周りの空気が変わったような気がするので、もしかしたら彼が追い払ったのかもしれない。
迪歩は疲れた体を引きずるように、いつも待機場所として利用している喫茶店『モカ』までたどり着いた。
モカは商店街の隅っこにある喫茶店で、迪歩の友人である高田由依のバイト先である。
昨年の夏に由依が怪我をして働けない間の穴埋め要員を頼まれ、迪歩も短期間だけこの店のアルバイトをしていたことがあり、その縁でもともとよく利用していた店だった。
運良く瑠璃のバイト先がモカに近かったため、迪歩はいつもここで瑠璃のバイト終わりまでの時間を潰させてもらっていた。
……ちなみに、由依の怪我というのは、夏休みにキャンプ場のアスレチックで張り切りすぎて足を踏み外したことによる骨折だった。楽しくてテンションが上りすぎたらしい。
サービスで出してもらった温かいコーヒーを飲み終わっても、なんとなく先程の障りのことを思い出してしまって気分が落ち着かない。
手持ち無沙汰に布巾でテーブルを拭きながら、それならばいっそ、襲われたときの状況をきちんと思い出して状況を整理してみよう……と思ったのだが、思い出すのは『悲しい』というひりつくような強い感情だけだった。
「……ん?」
テーブルを拭いていた布巾に何かが引っかかったような感触を感じて、迪歩はハッと我に返る。視線を手元に向けると、一匹の猫が布巾のタグにじゃれついて遊んでいた。
さり気なく指先でその頭をなでてから、布巾を持ち上げる。
それでも熱心に布巾のタグを狙って飛びかかろうとしているその猫は、店の壁に飾ってある古い写真に写っている猫にそっくりだった。……ただし、その体はほんのりと透き通っている。
迪歩が初めてこの店を訪れたときから、この透き通った猫はずっとこの店の中をウロウロと気ままに歩き回って、たまにお客さんにちょっかいを出して遊んでいた。
ごく稀に感のいい人が不思議そうな顔をすることもあるが、その姿をはっきりと視認できているのは今のところ廸歩だけのようだ。
『モカ』という店名はオーナーが昔飼っていた愛猫の名前が由来だと聞いている。
オーナーが飼っていた実際の猫の『モカ』は喫茶店モカの開業から数年後に老衰で死去しているそうなので、いつも自由に店内を歩き回っている透き通ったこの猫は『モカ』の幽霊、なのだろう。
「今井さん今日ちょっと顔色悪いけど大丈夫?」
「え、そうですか?」
「テーブル拭くのなんていいから座ってなさいな。そうそう、お客さんがお土産でくれたお菓子があるから食べて」
「ああー、すみません」
オーナーは老年の女性だが、とてもキビキビと動き回る働き者だ。
ただでさえふゆになついていた迪歩はおばあちゃん的な人にとても弱い。あっという間に布巾を取り上げられ、椅子に座らせられる。更にクッキーとコーヒーを目の前に並べられてしまった。
遊んでいた布巾を取り上げられてしまった猫の『モカ』は、ぴょんとテーブルから飛び降り、カウンターの上へ移動していつものお気に入りの位置で丸くなった。
「まだお友達へのつきまといは続いてるの?」
「家の前まで来るのはなくなったらしいです。このまま諦めてくれればいいんですけどね」
お客さんが途切れたところでオーナーもコーヒーカップを片手に椅子へと座った。
「一方通行の惚れた腫れたはお互い可哀想よねえ……今井さんも他人事じゃないのよ? ここで働いてくれてた間にも、結構あなた目当ての客がいたんだから」
「へ? まさか」
「もう、若い男の子とかサラリーマンとかが目に見えて増えたんだから。今井さんいなくなっちゃったらそういう子たちがガクンと減って、いまじゃもうじじいばっかりよ」
「じじいって……そんなことないですよ」
口を尖らせるオーナーに、迪歩は苦笑いで応じる。
モカはレトロな雰囲気でおしゃれなため、若い女性客も結構多い。それに近くにビジネスホテルがあるので、ついさっきも出張中のような雰囲気の若いサラリーマン2人組が仕事の打ち合わせをしていた。
たまに観光客も足を伸ばしてくることもあるし、客層は決してじじい……もとい、老齢の男性ばかりではない。
「オーナー、それだと私目当ての客はいないみたいじゃないですか!」
厨房での洗い物を終えた由依がむくれながらやって来て、素早く迪歩の前にあったクッキーをつまんで口に放り込んだ。
そのまま「まあ確かに迪歩目当てっぽいのは結構いたけどね」と、むぐむぐ口を動かしながら続ける。
そうは言っても、迪歩自身は正直心当たりがない。目当てというよりは――。
「私目当てっていうのは……こう、遠巻きに見られる……見世物の珍獣? みたいな目で見られてたような」
「ブハッ……珍獣ってあんた自分のこと……いやでも、ある意味それも正解?」
「由依ちゃん笑いすぎ。それにお行儀悪いから座って食べなさい……今井さんは今井さんで、もっと自分に自信を持ちなさい」
盛大に吹き出して肩を震わせて笑う由依の頭を、オーナーがぽこんと叩く……ばかりか、ついでに迪歩も怒られてしまった。
(自分に自信と言いましてもね……)
実家にいる間、顔を合わせるたびに祖父に顔をしかめられていたおかげで、迪歩の中の自分の容姿に関する自信など、とうの昔になくして行方不明になっている。
母親似で、なおかつ迪歩と対局の愛想の良さを誇る陽キャの妹、迪花は近所でも美人だと評判なので、姉の迪歩もそこまでひどい容姿ではない……はず、だが。
「んー、でも確かに迪歩ってば顔色悪いよ? 青柳さんのバイトはまだ時間かかるの?」
「えっと今日は八時半おわりだから……あ、そろそろ行かなきゃ」
由依の言葉で時計を見ると、二十時を回ったところだった。
「じゃあ今日はちょうどお客さんも捌けたし、モカは早仕舞いしましょ。結衣ちゃん、今井さんについていってあげなさいな」
「あいあいさー」
「え? いえいえ大丈夫ですよ」
「今井さん、年寄りのおせっかいは受け取るものよ。ここはすすきのよ? 具合悪そうな女の子を一人で歩かせられないわ」
「きゃー! オーナーかっこいいー! ついでに給料上げてー!」
「お給料はあがりません」
「ぶーぶー!」
結局オーナーに押し切られ、由依と一緒に外国語教室へ向かって瑠璃と合流し、三人でわいわいと食事をしてから家路についた。
その間も、小乃葉の気配を感じることは一度もなかった。