58. 海への誘い
「ね、チホちゃん一緒に海行かない?」
「は? 行きませんけど」
「冷たすぎてウケるー」
夏休み前日。午前の講義が終わった直後。
迪歩の目の前の席には、この講義を履修していないはずの大塚光輝がにこにこしながら座っていた。
今いる講義室は全学部で共通の大講義室などではなく、学部毎の講義を受ける普通教室だ。普通であれば他学部の学生はあまり入ってこない。
そこへ見慣れぬ学生が堂々と乗り込んできて、美人なんだけどリアクション薄すぎてちょっと話しかけづらいよね、とクラスメイトからも定評がある迪歩を海に誘うという事態に、教室内の面々は少しざわついていた。
更に普段淡々と喋る迪歩が、不愉快を顕にした低い声で拒絶したことで完全に注目の的となってしまっていた。
「二度と顔を見せないでって言いましたよね」
「ご機嫌が治ったら遊ぼうねっていったじゃん」
「治ってません」
「で、海なんだけどさ」
「普通に続けるのやめてもらえませんか」
講義が終わった学生たちは廸歩たちのほうを気にしつつ教室から出ていく。友人の由依が「出ていったほうがいい?」を口の動きだけで伝えてきたので「待って」と廸歩もノートなどをカバンに仕舞い立ち上がった。
「そちら向きの話だと思うんだよねー。藤岡って人と直接話するの怖いからチホちゃんに相談しようかと思ったんだけど」
「……」
「お、初めてこっち見た」
藤岡、という名前に反応してつい動きを止めて大塚のほうを向いてしまった。大塚は憎らしいほど以前と変わらない朗らかな笑顔を浮かべていた。
今なら翼が大塚のことを『得体のしれない人間』と言ったのがよく理解できる。
「話があるなら場所と時間を改めましょう。それでよければ聞きます」
「まあいいよー。誰か同席させたいならそれでもいいし。じゃあ連絡先教えて」
そういってスマホを出した大塚に、廸歩は黙ってカバンから出したメモ帳を一枚破り、メールアドレスを書き付けて渡した。
「フリーメールとか……マジ冷たくてウケる」
「ウケが良くてよかったです。じゃあ失礼します」
はいはーい、と頬杖をついたままひらひらと手を振る大塚を教室に残し、入り口で待っていた由依と合流した。
「お昼、いつものとこでいい?」
「うん」
いつもこの時間は、次の講義が行われる教室近くの休憩スペースまで行ってお弁当を広げるのが恒例となっている。
次の講義は専門の必修科目なので自然と同じクラスの人間がそこに集まる。そしてこのクラスは女子率が低いのでほぼ全員が集合することが多い。
「今井さん、さっきの人って元カレ?」
「まさか」
集まった内の一人から興味津々という顔で聞かれ、まあそういう風に見られるかもね……と迪歩は肩をすくめた。
「えー、会話の内容が完全に揉めて別れた元恋人同士だったじゃん。チホちゃんって呼んでたし」
「あの人優しそうな感じだったよね。てか『チホちゃん』って響きかわいいね。私もそう呼んでいい?」
「じゃあ私もチホって呼ぶー」
「どうぞお好きに」
初ともいえる廸歩の色恋(っぽい)話に女子たちは色めき立ち、そしてそのままお互いの愛称の話に移行していった。
会話の矛先が自分から逸れたことにほっとして、迪歩は冷凍食品のハンバーグを口に放り込む。
メニューはケチャップを添えたハンバーグとほうれん草のソテー。
赤と緑のものを摂れと言われているので一応色はクリアしている。
食事に関しては、たまに一緒に食事をする翼から何度も注意されているので少しだけ気を遣うようになった。
それに少し前から定期的に事務所メンバーで肉を食べにいく日を設けられてしまったので、食生活はなかなかに充実している。
定期的に行くようになったきっかけは、事務所で翼に「豆腐ばかりではなく肉や野菜を食べなさい」と注意されたときに、迪歩が言い返した、
「大豆は植物だから豆腐はサラダだし、しかも畑の肉だから実質ステーキ」
という言葉を聞いていた与田が、
「大豆は豆だから肉でも野菜でもなく穀物だろぉが!」
と言って、強制的に焼肉に連れていかれた――与田は意外と世話焼きである――ことだった。最近はそれに加えて家庭菜園をやっている九谷から野菜を分けてもらえるという好待遇である。
「で、海には行くの?」
「ごほっ」
昨日貰ったつやつやのトマトをどう食べようかと思いを馳せ、完全に油断していたところに突然矛先がこちらに戻ってきてしまい、むせる。
「元カレと海とか謎シチュエーション~。復縁フラグじゃん?」
「でも~、なんか誰か同席させてもいいとか言ってたよね。……もしかしてDVとかストーカーだった?」
その場が一気に『しまった!』という空気になる。
春先のストーカーの件をある程度知っている由依が『おっと』という顔をしていることに廸歩は心の中で苦笑する。確かにストーカーの件に関係はあるのだが。
「違う違う。友達の揉め事に巻き込まれたときに知り合った人で、ちょっとその時嫌な目に遭ったからあまり関わりたくないだけ……海は、内容聞かないと分かんないかな。遊びの誘いではなさそうだったし」
「そうなの? まあ、チホはどっちかっていうと山に行きたい人だしね」
「あー、昆虫採集か。今井さんは今年も行くの?」
夏は昆虫採集のオンシーズンなので研究室単位や有志による昆虫採集ツアーがぽつぽつと行われる。廸歩が希望している研究室は毎年夏休み中にツアーを実施しており、希望すれば同行させてもらえるのだ。
迪歩は初参加した去年に引き続き、もちろん今年も行く気満々である。
「行く。今年は許可取ってカーテン法のライトトラップやるんだって」
「へぇ……カーテン法って実際やってるとこ見たことないから見てみたいな。あれって人手いるんでしょ? 虫はよく分かんないけど私も行こうかなー」
「! 行こう。なかなかチャンスないし」
思わず前のめりに相手の手を取った廸歩に周りが苦笑する。
「恋バナより虫の話のほうが目がキラキラしてるし……」
「チホちゃんに彼氏だなんて、男子どもがむせび泣いちゃうでしょ」
「あれ、今井さんって彼氏いないの? この間男の人と一緒に歩いてるの見たから彼氏なんだと思ってた。さっきの人じゃなくて、めちゃイケメンの」
「「えっ」」
バッと、周囲の視線がいまだに昆虫採集の話をしている廸歩に集まる。由依が代表してその肩をたたいた。
「廸歩ちゃん、君、彼氏できたの?」
「えっ……? あ、うん……」
「聞いてないんだけど! 節足動物ではなく!?」
「聞かれなかったし……分類的には脊索動物ですね」
「全然恋バナ乗ってこないし浮いた話もないしてっきり足が六本以下の生き物に興味がないのかと思ってた……」
「ちょっとひどい言われようじゃないですか? 四本足の動物にも興味ありますし」
「文句言うのそこ!?」
うわーん私だって超イケメンハイスペック彼氏が欲しいよぉーとしがみつく由依の頭をポンポンと撫でていると、向かいに座っていた一人がハイッと手を上げた。
「私もライトトラップに参加したらイケメンの彼氏できますか!」
「えーと、走光性のイケメンが存在するならチャンスはあるんじゃないですかね」
「うんうん、立派な節足動物の彼氏見つけてきなよ」
「できれば脊索動物でお願いします!」
「カエルだったら虫食べに来るんじゃない? 両生類って脊索動物だよね」
「可能な限りホモサピエンスでお願いします……」
「ライトトラップにかかるホモサピエンスは賢いじゃないだろ」
「ううう」
この際人間なら……いやいっそ霊長類ならどこまで許容できるか……などと口々に好きなことを言い合っている間に午後の講義の時間が近づいて来てしまった。
そろそろ片付けて教室に、と思ったところでスマホにメールの通知が来る。
『小樽の知人宅で怪異が起きているため祓い屋を探しているとのこと。詳しい話は会ったときに話します。あ、誰か同席させてもいいって言ったけど藤岡さんは怖いからナシで。』
知人宅で怪異。
海行かない? などと言っていたのに、肝心の海はどこへ行ったのか。
これだけ読むと本当に祓い屋への依頼があるようにも見えるが、大塚には前科があるので正直信用できない。
誰か同席させていいというのは多分翼のことをさしているのだろうが……。
翼は大塚のことを激しく嫌っている。
彼自身が会うのはもちろん、廸歩が大塚に会うのも嫌がるだろう。
(とりあえず藤岡さんに相談してから返事かな……)




