50. 甘く香る花の舞う
男の影の中からなにかが出てこようとしている。芙遊たちの話を信じるならこれが『えんじゅ』という狐だろう。
鳥肌が立つくらいに、どろどろとした嫌な気配が辺りに立ち込めている。
「詩織さん、できるだけ離れてくれますか」
「は、はい」
影から出てきたものは柴犬くらいのサイズの四足の獣だ。しかし、べっとりと黒い影がまとわりついているせいでなんとも歪な形に見えた。
後ろで詩織が「犬……狐……?」と言っているので、この黒い影は彼女には視えていないのかもしれない。
(さて、いい感じとは……)
いい感じに頑張れと言われたものの、正直なところ、物理攻撃が効かない相手だったら迪歩にはお手上げである。
そしてどうやら、見た感じの印象では物理無効系な敵の雰囲気だ。というか、触るともれなく障りを受けそうだ。
藤岡がいてくれれば別だが、初歩の初歩の結界術すらまともに使えない迪歩一人で一体なにができるというのだろう。
唯一の救いは、最初に襲われるのが詩織ではなく、体質的にああいうものに好かれる自分のほうだろうということくらいだ。
コインの護符もあるし、少しは保つだろう。迪歩が引き止めている間に詩織がなんとか逃げ切れればいいのだが。
狐がわずかに身を沈めるのが見えた。
(攻撃してくる――!)
迪歩の喉に噛み付こうと飛びかかってきた狐の攻撃を、さっき奪った金属棒で防ぐ。
ガギッと金属棒に噛み付いた牙は鋭く尖っていて、噛まれたら痛いなどというレベルではないだろう。
(おじさん、木の棒じゃなくて金属棒を持ってきてくれてありがとう……)
金属棒にかじりついてぶら下がる形になった狐は背中を丸め、迪歩の胸元に向け勢いよく両脚を蹴り出した。そしてその反動で棒を咥えたままくるりと宙を舞って着地する。
「ゲホッ……!」
胸元を強く蹴られたせいで一瞬息がつまり、迪歩は咳き込む。
体勢が崩れて膝をついてしまった。だが、障りは受けていない――その代わりに、首にかけたロケットペンダントの中で護符のコインが折れる「バキッ」という音が二回聞こえたので、三枚あったコインは残り一枚。多分次は防ぎきれないだろう。
「ケホッ……詩織さん、逃げて」
「迪歩さん!」
ガランと咥えていた棒を捨てた狐が、また地面を蹴った。
詩織が悲鳴のような声を上げる。
こうなるともう、防ぎようがない。
……普通の動物なら鼻を叩けば怯むなどと聞くが、叩くということは接触する必要がある。うまく相手が怯んだとしても、障りを受けた後の自分がどの程度動けるだろうか。
(腕を噛ませて、動きを止めて鼻を叩く……)
そのつもりで腕を体の前に掲げた。
噛み付かれる寸前、それに続く衝撃を受け止めようと構えた瞬間。
バキッとコインが折れる鈍い音と共に、場違いなくらいに華やかな甘い香りが迪歩を包み込んだ。
――パサ。
衝撃は来なかった。
代わりに、静まり返った夜道に、花びらの落ちる軽い音が響く。
ポカン、とする迪歩の周りには真っ白な大きな花弁が散っていた。
まだ微かに残っている甘い香り。
これは、マグノリアの香り……タイサンボクの花の香りだ。
狐は迪歩に噛み付く寸前で視えない壁に弾き飛ばされてしまった。まとわりついていた黒い影はもう殆ど残っておらず、倒れているのは柴犬サイズのふつうの狐だった。
『ないよりはまし程度だが、これが君を守るだろう』
『いざとなったら白露が守ってくれるわ』
あの夢の中の庭で出会った青年が、ふゆの言っていた白露だったのだろう。
ふわぁ……と脱力してぺたんと地面に座り込んで、もうちょっとちゃんと説明して欲しかった……と、迪歩は思わず天を仰いだ。
***
体のあちこちがズキズキするが、安全確認をしなければならない。
狐も中年男性も気を失っているらしく、動かないこと――あと、生きていること――を確認していると後ろからガシッとしがみつかれた。
「あ、詩織さん、多分もう大丈夫……」
「迪歩さん、迪歩さん……うわぁぁん」
詩織は迪歩にしがみついたまま、ぽろぽろと涙をこぼしはじめた。
その様子に迪歩はヒエッと固まる。この道20年近くコミュ障をこじらせている迪歩は、泣いている女の子の慰め方など知らないのだ。
安全確保に必死になっていたが、普通に考えて、中学生の女の子が夜中に金属棒を持った知らないおっさんに襲われ、一人で逃げ回っていたのだ。こんなのはトラウマになるに決まっている。
(心のケア……ケアってどうやるの!?)
「……あー、えっと……怖かったですよね。でもこのおじさんはしばらく動けないし、私がそばにいるから大丈夫ですよ」
この男性は意識を取り戻してもまともに動けないはずだ。
本当は気絶させるだけのつもりだったが、何度も起き上がってくるので何度も応戦することになり、最終的におそらく何本か肋骨を折ってしまっている。
ゾンビみたいに起き上がってきたなんて信じてもらえるのだろうか。過剰防衛と言われてしまえばぐうの音も出ない。
(あれ、これ私やばくない? いやでも最後のはカウンターだし……ねぇ?)
法的なあれこれに思いを馳せ、ちょっと背筋がひんやりしたが、それよりも未来ある中学生の心を守るほうが大事だ。
迪歩は泣いている詩織の背中をあやすようにトントンと叩く。が、詩織はイヤイヤするように頭を振った。
「ちが……そうじゃなくて、迪歩さんが死んじゃうかとっ……思って……」
怖かったんです、と、詩織は途切れ途切れに続けた。
――そういえばこの間もこんな事があったな、と思い出す。平田小乃葉の生霊と話をして、呪いを浄化した時。あのときは同じ椿でも兄のほうだったが。
「……それは、心配させてしまってごめんなさい……」
兄妹両方に心配かけてしまったんだな……と反省しつつ、ぎゅう、としがみついてくる詩織の髪をゆっくり撫でていると、嗚咽が落ち着いてきた。
「迪歩さん! 詩織ちゃん!」
ホッとこっそり息を吐いたところに、聞き慣れた声が響いた。
迪歩が目を向けると、翼と藤岡がこちらに向かって駆けてくるところだった。おそらく、術者である狐が気を失った辺りで空間がもとに戻ったのだろう。
「二人共怪我は!?」
「私はないけど――」
詩織は廸歩から少し体を離し、翼に答えながら廸歩を見た。
「廸歩さんが……」
「私も大丈夫ですよ」
「うそ! 迪歩さん胸のとこ血が出てる! 足だって怪我してるでしょ!」
「あー、えーと、大したことないですよ?」
胸元を蹴られた時に狐の爪が当たって引っかき傷になっている。相手が野生動物だし、後で一応病院に行ったほうがいいだろうが傷自体は小さい。足は赤くなっているものの、ひどくて打ち身程度だろう。
総じて、まあ痛いけれど、動けないほどではない。
それに折れても千切れてもいない。
「迪歩さん……」
このくらいなんともない、のに。
ガシッと翼に腕を掴まれた。
眉根を寄せじっと見つめてくる彼のまとっている空気はどう見ても、激怒、だ。
迪歩がヒエッと思わず離れようと身じろぎすると、腕を掴む力が強くなった。動かそうとしてもびくともしないし、ちょっと痛いくらいだ。
(なんでそんなに怒ってるんだろう……私が適当に大丈夫って言ったから……?)
翼がなにを考えているのか、自分がどうしたらいいのか分からなくて困惑する。
なんで翼は怒って、そして辛そうな顔をしているのだろう。
「はいはい、大したことなくてもとりあえず車で病院連れてくから。ひとまず状況を簡単に説明してもらってもいい? 迪歩ちゃんがそんなあられもない格好で夜の街にいることも含めて」
そこに藤岡が割って入る。緊急時だったからだろう、前髪をピンで留めているので若干オシャレ男子っぽく見える。……そして、言葉の最後にニコッと笑顔を廸歩に向けた。
「あられもないって、なんでわざわざいかがわしい言い方するんですか……」
「だって、足剥き出しで服も破れてるし、状況次第ではそこに転がってるおじさんを社会的に抹消しないといけないから」
藤岡は口元こそにっこり笑っているが、目も声もまったく笑ってない。そして発言が不穏過ぎる。
「あ、本当だ……破れてる……」
よく見たらワンピースの肩部分から胸元へ向かって斜めに十センチメートルくらい生地が裂けている。
狐の爪が当たった部分が切れているのは分かっていたが、狐が飛び退ったときにその爪に引っ掛かって大きく裂けたのだろう。
「……あっ、これはおじさん無実です。狐の爪でやられただけです!」
ハッとしてあわてて付け足す。
なるほど、経過を知らなければ迪歩が中年男性に襲われたようにも見えるのだ。
実際の所、彼は狐に取り憑かれて操られた挙げ句に迪歩に蹴られ投げられ肋骨を折られた被害者である。
「……本当に?」
翼は視線を詩織へ向けた。
「大丈夫! おじさんは迪歩さんに触ってないから!」
と詩織が頷くと、翼は息を吐き、やっと迪歩の腕を掴む力を少し緩めた。
藤岡も表情を緩める。
わあ、私の言葉、信用されてない。




