49. 迷走、逃走
詩織はいつもの見慣れた道を早足で歩く。
いつも売り切ればかりの自動販売機がある十字路を右に。そのあと、丁字路に突き当たったら左。
その先、三軒目が自宅。
の、はずなのに。
いつの間にかスタート地点に戻っている。
何度行っても、他の道を選んでも同じだった。
スタート地点――すなわち、byakko-sanの『おつげ』があった場所に戻ってきてしまうのだ。
(私、家にいたはずなのにどうして……)
そろそろ寝ようと思って自室に戻ったところまでは覚えている。なのに、ふと気付いたら何故か外に出ていて、『おつげ』の写真の場所に立っていた。
面白おかしく広まった噂では、お告げの場所で事故にあったとか、突然おかしくなって自殺した人がいるとか、神隠しにあったとか、攫われて殺されたとか――とにかくいろいろ言われていた。
本当にそんな事件があればニュースになるはずだけど、テレビでそんなニュースなんて見た覚えはない。きっと、単なる作り話だろう。
それでもなんとなく怖かったし、翼からも近づかないように言われていたのでわざわざいつも遠回りして避けていた。
自分からここへ来ることなんて絶対にないはずだ。
だというのに、今のこの状況は何なんだろうか。
この場所から離れようとしても離れられない。それに、しばらく行ったり来たりしているというのに誰とも行き合わない。
いくら夜だとはいえ、ここまで誰もいないなんてことはあるのだろうか。
――神隠しにあったとか。
背筋が粟立つ。どう考えても異常な事態だし、超常現象としか考えられない。
いや、この出来事がまるごと全部夢なのかもしれない。そう、きっとそうだ。どうやったら夢から覚めるのだろう。
「痛……」
何度目かのスタート地点で、詩織はついにへたり込んでしまった。
歩き続けたので足が痛い。それに、ここから出られないという絶望感が、詩織の膝から立ち上がる力を奪ってしまう。
「もうやだ……立てないし……」
……、……、
道路に座り込んだまましばらくぼんやりしていると、遠くの方からかすかになにかの音が聞こえた気がして、詩織は顔を上げた。
足音のように聞こえる。誰かが来たのだ……ここから出られるかもしれない。
かすかな期待を胸に耳を澄ます。
ざ、、ざり、、ざ、
間違いなく足音だ。重たくて、わずかに引きずるような癖のある歩き方の……。
ざ、、ざり、、ざ、、ざり……と、音は詩織のいる方へ近づいてくる。
ねえ、こんなところにやってくる人は、本当に、普通の人?
詩織の頭の中の冷静な部分が警鐘を鳴らす。
嫌な汗が滲んできて、心臓が早鐘を打つ。
震えて力の入らない膝を叩いてなんとか立ち上がり、足音とは反対側へ、ヨロヨロと歩き出した。
(助けかもしれない。だけど、一度物陰に隠れて様子を見て確認しないと……とりあえず離れて、隠れる場所を探さないと)
膝が震えて、体の芯が凍りついたように冷え切って思うように動けない。それでもとにかくがむしゃらに足を動かして進む。
道から外れて人の家の庭などに隠れようとしたのだが、道路からはずれようとすると何故か棒のように足が固まり、動かなくなってしまう。
とにかくどこか、どこか……。
「あっ」
落ちていた空き缶に躓いて転んでしまった。こんなところに空き缶を捨てるなんてなんてマナーの悪い人間だろう。
もし、ここで……もしも、詩織が命を落とすようなことがあれば、ポイ捨てしたやつを絶対に末代まで祟ってやる。
ついに足音が止まった。
でも、それは逃げ切れたわけではなくて、真後ろにいるから、だ。
見たくない。でも、背中を向けたままなのも怖い。
ありったけの勇気を振り絞り、詩織は体を捻って後退りをしながら、せめてもの抵抗で相手を睨みつける。
―― 中年のおじさん。距離があっても分かるくらい酒臭い。
その目は詩織を見ておらず、うつろなまま宙を見つめていた。
男の手には、どこで拾ってきたのか金属の棒。解体工事をしているところでたまに見かける、鉄筋? と呼ぶのだろうか。一メートルくらいの長さの棒が握られていた。
男がゆっくりとそれを振り上げるのを、ああ、あれを振り下ろされたら痛いだろうな、と、詩織はただ見つめることしかできなかった。
ドゴッッ
――と、重い音を立てて男が横に吹っ飛んでいったのはその直後。
一体なにが起こったのか分からず、詩織はパチパチとまばたきをした。
さっきまで男が立っていた場所に、代わりに立っているのは見覚えのある女性。
彼女は目を丸くする詩織の姿を認めると手を差し伸べ、立ち上がらせてくれる。
「詩織さん、怪我はない?」
「……み、ちほ……さん?」
「はい、そうです。怖かったでしょう。もう大丈夫です。……とりあえずあの人を伸しちゃいますね」
迪歩は相変わらず表情が乏しくて喋り方も淡々としているので、こちらまでつられて頭の中が落ち着いてくる。
でも、とりあえず伸しちゃう、というのは聞き間違いだろうか。彼女の妹のチカは空手全国二位というのは聞いたが、姉の方は特になにも言っていなかったはずだ。
(あ、でも今さっき酔っ払いを吹っ飛ばしたのこの人だった)
迪歩は立ち上がってきた男の胴に容赦なく回し蹴りを食らわせ、相手がくの字に身を折り曲げたところで側頭部に掌底を当てる。
男は数歩たたらを踏んでよろけ……すぐに体勢を戻した。
「あれっ」
それを見た迪歩は素っ頓狂な声を上げた。
「そこは人間として気絶しておくところでは?」
と、困ったように眉根を寄せた。
多分ボクシングの試合で見るように、脳を揺らして脳震盪を起こそうとしたのだろう。ボクサーだって気絶するというのに、その辺のおじさんが平気というのはさすがおかしい。
「物理が効かないわけじゃないんだよな……おじさん自体は生身っぽいからあんまりやりすぎたら死んじゃうかも……」
過剰防衛って言われたら困る……などとブツブツ独り言を言いながら、迪歩は男から少し距離を取る。
そこへ、男が金属棒を今度は横薙ぎに振り回した。
「!」
迪歩が危ない! と、詩織は悲鳴をあげそうになり……すぐさま飲み込む。
なぜなら悲鳴をあげる前に、棒を振り回していたはずの男が地面に大の字に倒れてしまっていたからだ。
なにが起こったのか分からないのだが、迪歩はたやすく男の手から棒を奪い取り、そして奪い取られた男の方はぐるんと飛び込み前転のように体を一回転させて倒れたのだ。
「うーん、ひっくり返すのは簡単なのにちゃんと気絶してくれないなあ」
コンッと金属棒を地面に突き、小さく首をかしげる迪歩の姿は非常に可愛らしく――手に握った金属棒と地面に倒れた男という恐ろしい光景とはあまりにもアンバランスで現実味がなかった。
「あ、そうだ」
ゆらり、と再び立ち上がった男の前で、迪歩はゴソゴソとワンピースのマフポケットからスマホを取りだした。
よく見たら彼女はどう見ても部屋着のような服装だし、足はなんと裸足だ。そしてショートパンツから伸びた足はところどころ赤くなっていた。
迪歩の態度には余裕があり、だいぶ一方的な戦況に見えるが――やはり、彼女自身にもダメージがあるらしい。
その迪歩がスマホの画面を男に向ける。
と、次の瞬間、男はあっけなく白目をむいて倒れてしまった。
「え、あの……」
「お守り、です。こんなに効くなら始めから使っておけばよかったですね……」
一体なにを見せたのだろう……と思ったら、迪歩のスマホに表示されていたのは昨日SNSで回ってきたお守り画像だった。
それなら詩織も持っているし、むしろ待受に設定している。今の今まで完全に頭から抜け落ちていた。
「えっと……これで、助かったんですよね……?」
酔ってるみたいだから仰向けだと窒息するかもしれないので……と、男を横向きに寝かせる迪歩に恐る恐る近づき、確認する。
詩織は迪歩がいつものように淡々と「そうですね」、と返事をするのを期待していたのに、戻ってきたのは別の言葉だった。
「……いえ、もうちょっとですね」
迪歩の視線の先、男の体から落ちる影の中から『なにか』が出てこようとしていた。




