43. 妹と妹(詩織視点)
「あ! 絵の具切れてるんだった!」
明日の部活で使う絵の具が切れていたことに気付いたのは十八時過ぎだった。
美術部で透明水彩を使っているのは詩織だけだ。中学の授業で通常使うのはアクリル絵の具なので、他の人に借りることもできない。
ちょっと特殊な絵の具なのでどこにでも売っているわけではなく、少し大きな文具店でなければ置いていない。
この時間ならまだ店は開いているが、車を出してもらおうにも父は小説の締め切り間近で部屋から出てこないし、そして母はまだ仕事から帰ってこない。
……となれば、地下鉄で行ける札幌駅周辺しかない。
「ちょっと札駅の画材屋さん行ってくる!」
「え、今から行くと帰り真っ暗だよ。危ないから行くなら俺も一緒に行く」
詩織が急いで出かける準備をしていると、模試が終わったと言ってソファでぐったりしていた翼が起き上がってきた。
「えっ、大丈夫だよ。地下鉄までなんてそんなに遠くないし」
「だめ。……特に今は」
そう言うなり翼も鞄を引っ張り出して準備を始めた。
特に今、というのはどういう意味なのか。詩織が首を傾げている間に彼は準備を終え、「行かないの?」と声をかけられた。
「あ、行く。行きます!」
***
目的の絵の具を購入し、夕飯にお弁当でも買って帰ろうかと話をしながら地下鉄のりばへ向かっていた途中で、ふと、翼が足を止めた。
「……迪歩さん?」
どこかを見つめ、驚いたような顔で呟いた。
その翼のただならぬ様子に、おや? と詩織も足を止めて視線の先を追う。
――そこには、一人の女性が立っていた。
翼の声に反応して顔を上げた彼女はロリータ系コーデに身を包んでいた。
柔らかそうな長い黒髪に、小さな顔で白い肌。
非常にきれいな人なのだが、ほぼ無表情だ。それが人形のような印象を醸し出していて、まるで絵やポスターの中から抜け出てきた人のように見えた。
表情は分かりにくいのだが――なんとなくの雰囲気からして、彼女はどうやら翼に声をかけられたことに驚いているようだった。
(翼の高校の同級生? それとも彼女……)
と、いうには二人の間に漂う雰囲気が固い。
どういう関係の人だろう……と詩織が首を傾げていると、店の奥から少年がやってきて、親しげな様子で女性の肩にショールを掛けた。
これまたずいぶんな美少年で、グレーの髪に緑がかった瞳というずいぶん派手な色彩の持ち主である。人形のような女性と並ぶと、本当に絵やポスターのように見える。
「あれ、チホの知り合い?」
「……うん、バイト先の人……」
三人の交わす会話の内容から察するに、どうやら女性は翼のバイト仲間のようだ。そして翼と少年はお互い初対面。
女性は硬い表情をしているし、翼はひどく動揺しているように見える。美少年が一人だけやけに楽しそうにしているが、どうあがいても和やかに会話、という雰囲気には見えなかった。
「お兄さんたちこの後暇? お茶でもしません?」
(……聞き間違いではないよね? 美少年がうちの兄をナンパ?)
その言葉に、今までほぼ無表情だった女性が初めて顔をゆがめ、少し焦ったような声を出した。
「……なんでいきなりナンパしてんの!?」
「いいからチホはお会計してタグ切ってもらってきなさい」
美少年が焦る女性の背中をぐいぐい押して無理やり店員のほうへ押しやる。そして店員に引き渡された女性はそのまま店員にレジへ引っ張っていかれてしまった。
その姿を見送った美少年は「よし、計画通り」と満足気に頷くと、くるりと翼のほうへ体を向けてにっこり微笑みながらちょこんと首を傾げた。その仕草はどことなく少女のようで可愛らしかった。
「こんな時間なのでお茶というより夕食ですね。さすがにお家の都合とかありますか? もしお時間があれば、姉がいつもお世話になってるみたいなのでご馳走したいんですけど……あ、もちろんそっちのお嬢さんも一緒に」
「……姉?」
ぽかんと呟いた翼を見て、美少年はふふふっ、と、おかしくてたまらないといった様子で笑い出した。
「ふふ、私、迪歩の妹の今井迪花と申します。あ、廸歩と廸花って音が似てて紛らわしいんで『チカ』って呼んでください」
以後お見知り置きをー、とチカが続ける。
詩織と翼は思わず顔を見合わせ、そして同時に「……妹……!?」と声を上げた。
「いい反応ありがとうございまーす。あ、ちなみにこの格好はトランスジェンダーとかじゃなくて単に好きでやってるファッションです」
「はあ……」
「ところでお兄さん?」
チカはツツツ……と、まだ戸惑っている翼のそばに寄ると、ぼそぼそと何事か耳打ちをした。
すると一体何を言われたのか、次の瞬間翼は弾かれたようにチカの顔を見返した。耳を押さえた彼の顔は真っ赤になっている。
えっ、何その反応。耳でも噛まれたの?
「は!? な……んでっ!」
「んー、勘です」
「勘って……」
噛まれたのではなく普通に何か言われたのか。いけない。BL脳が暴れてしまった。
そんなやり取りを眺めていると、会計を終えておそらく服のタグを切ってもらったのであろう女性が早足気味に戻ってきた。
改めて近くで見てみても、やはり人形のようにきれいな人だ。ただし、その目はちょっと涙目になっていた。
「チカ! 勝手に私の服持ってかないでよ!」
「あー、おかえり。だってそうしないと着替えちゃうじゃん。地味服に」
「地味でもいいでしょ……」
「だめ。僕の目の黒いうちはあんな地味な格好で街に出るのは許せない」
腰に手を当てて肩を怒らせたチカを、女性はじっとりと睨みつける。
「……目、緑じゃん」
「オリーブグリーンだよ」
「なにグリーンでもいいよ、もう。もう……翼くん、ごめんね。これ、こんなんだけど私の妹で……」
「え、あ、うん、さっき本人から聞いた……」
傍若無人な妹と、それに振り回される姉とのやり取りが繰り広げられ、そこに巻き込まれる我が兄。
困ったことに三人とも目を惹く容姿の人間であるため、この状態はとても目立っている。少なくとも店頭からは離れたほうがいいだろう。
翼は普段だったらこういう場面で、やんわり間に入って場を収める冷静なタイプなのだが、先ほどチカから何を言われたのか、完全に動揺してしまっていてあてにならなさそうだ。
「あの、お話するなら広いところに移りませんか? お店の前だと迷惑になっちゃいますし」
「あ、ごめんなさい、そうですね。……どこでもいいから目立たない所に行きたい……」
詩織が声をかけると女性がホッとしたように頷いた。本当に目立ちたくないらしく、その声はひどく切実な響きだった。
「だからごはん屋さん行こうよ。半個室のとこもあるし」
「チカ……なんで急にそんなに一緒に行きたがるの?」
「そうしたほうがいい気がするから」
怪訝そうに眉根を寄せて首を傾げた女性に、チカがはっきりとそう答える。その一瞬の表情は今までと違ってふざけた軽い感じではなく、真剣そのものだった。
正直なところ、理由になっていないと思うのだが――真剣な様子に押されたのか、女性は困ったように黙り込んだ。
今日は椿家恒例の『皆で夕食会』もないし、外食しても問題はない。
こちらは特に断る理由もないから別に構わないのだけど……と、詩織が顔を上げると、ちょうど翼と目う。「私はどちらでも」と声を出さず口の動きだけで告げると、翼は軽く頷いた。
「俺らは構わないし、迪歩さんが嫌じゃなければ一緒に行くよ」
「え、嫌じゃないけど……でも二人でどこか行くところだったんでしょ?」
ちらり、と申し訳無さそうな視線が詩織に投げかけられた。
「いえ、兄が私の買い物に付き合ってくれてただけで、もう用事は済んだしこれから帰るところだったんです。夕食どうしようかって言ってたとこだし、全然大丈夫です」
「あに?」
「あ、申し遅れました、私翼さんの妹の詩織と申します」
「あ、私、今井迪歩と申します。すみません名乗りもしないで」
お互いぺこっと軽く頭を下げる。そして顔を上げた迪歩は小さく「いもうとさん……」と呟いて、少し嬉しそうに目元を和らげた。
「……!」
(かわいい! この人かわいいんですけど!!)
始めから詩織を気にしてるな……とは思っていたが、やっぱりこれはアレに違いない。翼の反応もアレな感じだし、これはニヤニヤ見守る系のヤツなのでは?
少しニヤニヤが漏れていたのかもしれない。ふとチカと目があった瞬間、彼女はニッと共犯者じみた微笑みを浮かべていた。




