42. 少年と妹
帰宅した部屋の玄関前に、見たことのない少年が座っていた。
階段室を出て遠目に見たときは、隣の部屋を尋ねてきたお客さんだろうか、と思ったのだが、少年は間違いなく迪歩の部屋の玄関ドアに背をもたれさせてスマホをいじっていた。
「……あの……」
やばい人じゃないといいけど……と思いながら迪歩が声をかけると、少年はハッと顔を上げてイヤホンを外した。
アッシュグレーの髪に緑っぽい瞳。……といったら、迪歩の知り合いには一人しかいない。
「ああなんだ、チカか……」
「えへっ、来ちゃった」
「いや、『来ちゃった』じゃないよ。事前に連絡しろっていつも言ってるでしょ。しかも今日明日学校は?」
「連絡忘れてたー。今日明日は自主休講です。明日の昼ライブ仲間と遊ぶの。で、夜はライブ」
「……はあ」
迪歩が大きくため息を吐きながら玄関の鍵を開けると、チカは迪歩を追い越して先に入っていった。
「うえー、部屋の中蒸し暑い」
「窓、締め切ってるからね」
チカは扇風機~と鼻歌を歌いながら扇風機のスイッチを入れ、その前に陣取る。
チカ――今井迪花は迪歩の妹だ。
迪歩の地元である新潟の高校に通っているのだが、姉が大学進学して札幌で一人暮らしを始めたのを良いことに、迪歩の部屋を宿代わりにして札幌のライブ遠征を繰り返している問題児である。
困ったことに彼女は、ウイッグやカラコンで髪色も目の色も自由自在に変えてしまうので、姉である迪歩にも彼女が自分の妹であると識別できないことがある。
せめて事前に来ることがわかっていれば良いのだが、予告なしで突然来ることが多いので先ほどのようなことが起こったりするのだ。
「今日は男の子なの?」
「うん。明日はお嬢様になる予定」
「そうですか……玄関の前に男の人が座ってるの怖いから、次から女の子でお願い」
「前向きに検討させていただきます」
チカは適当な相槌を打ちながら、姉妹で共有しているクローゼットに新しく買ってきたらしい服を収めていく。
迪歩はファッションに興味がないので、チカが自分の趣味と流行を取り入れて姉の分まで管理しているのだ。
こんな『自由』を絵に描いたような格好をしているチカだが、実は地元では真面目な優等生を演じている。
ウイッグもカラコンも札幌にいる時限定のアイテムなのである。
そのため、迪歩の部屋にはチカのメイク道具や、追っかけているバンドのグッズやら何やらが大量に置かれている。更に別の一角には迪歩自身の趣味で昆虫や動物の本や模型が並べてあるため、何度か遊びに来ている結衣からは一言だけ「カオス」という感想をもらったことがある。
「うーん、チホこれから時間あるでしょ? ご飯ついでに服買いに行こうよ。今年の流行色、絶対チホに似合うもん。お嬢様ファッション買い足したいし」
「外食前提かぁ」
「チホのご飯ってわびしいんだもん。美味しいもの食べたい」
「その言い方すごい失礼じゃない?」
「 じゃあ何にする予定だったの」
「……冷奴とじゃがいもを蒸したやつ」
「なにその戦時中メニュー」
「おいしいし……じゃがいもにマヨネーズもかけるから豪華だし……」
チカはムッと口をとがらせた迪歩の両肩に手をかけ、玄関のほうへと押し始めた。
「はいはい。可愛い妹が美味しいものおごってあげましょうねー。父さんから軍資金ふんだくってきたからさ」
「……まあいいけど。札幌駅でいいの?」
「うん!」
***
ご機嫌のチカと一緒に札幌駅の地下街へ向かう。
目的地は、お嬢様ファッションを見たい! というチカの希望でロリータ風のファッションの店だ。
「あっ、もしかして」
そして、店の前まで来た迪歩はハッと気付いた。
本日のチカはメンズの大きめパーカーに細身のパンツという男の子ファッションに身を包んでいる。
短髪のウイッグをきっちりと被り、元々迪歩より少し高めの身長を、かかとの高い靴で更に高く見せている。
――彼女はその日の服装に合わせて、ある程度自分の振舞いも変える癖、というかポリシーのようなものを持っている。お嬢様ファッションならお嬢様っぽく、男の子ファッションなら男の子っぽく。
「お嬢様ファッションって……もしかして私が試着……?」
「御名答~」
つまり、今日のチカは男の子なので、自分自身でお嬢様ファッションの試着をしないつもりなのだ。
今井姉妹は顔立ちこそだいぶ違うが体型はほとんど一緒である。それをいいことに、チカはしばしば迪歩をマネキン代わりにすることがある。
そして困ったことに、普段地元でいい子を演じている反動なのか、こういうときのチカは基本的に言い出したことは譲らないのだ。
「これとこれとこれ試着でー」
「はぁ……」
すべてを諦めた顔で、チカが選んだ服を受け取っていく。
そんな迪歩とチカは傍目に中のいいカップルに見えるらしく、店員がニコニコと話しかけてきた。
「彼氏さんが服選んでくれるなんていいですねー」
「そうですね……」
彼氏でも、男でもないんです。
だが、説明が面倒なので迪歩は店員の言葉を曖昧に頷いて流した。
ずしりと重みを感じる服を抱え、重い足取りで試着室を借りて着替える。
ウエストの少し上まで焦茶のリボンでレースアップするミモレ丈のスカートはレモンエローで、下にアイボリーのレースのペチコートを重ねてふくらませる。胸元にフリルの付いた七分丈ブラウスは白で、襟元に黒いリボン。チカいわく、ややロリータ系の甘めお嬢様ファッションだ。
(早く終わらせてご飯を食べに行きたいなあ)
そんな迪歩の願いを打ち砕くように、試着室を出た迪歩を見たチカは難しい顔をして唸った。横に並ぶ店員も同じような顔をしている。
「うーん、なんかショールとかケープとか……羽織るもの合わせたいな」
「そうですね……もうひと押し欲しいところですね」
二人は真剣な様子で意見を交わし、そして羽織りものを選びに行ってしまった。
やがて他の店員も混じって活発な意見交換が行われ始め、迪歩は試着したままぽつんと取り残されてしまった。
――だが、残念ながらこういったことはよくあるので慣れている。
チカはこうなったらなかなか戻ってこないのだ。本日何度目かのため息を落として、迪歩は店内をぶらぶら見て回リ始めた。
この店は奥のほうはゴテゴテのロリファッションが並んでいるのだが、店頭付近には比較的カジュアルで可愛い服を並べている。
迪歩は見た目の可愛さやかっこよさよりも、身動きのしやすさ重視で服を選ぶ人間なので、自然と足が店頭のほうへ向く。
「……迪歩さん?」
特に買う気もないのでぼんやりと服を眺めているところに、聞き覚えのある声が聞こえた。
(こ……この声は……)
気疲れから油断しきっていた迪歩はヒエッとなる。
そして恐る恐る声のしたほうへ首を巡らせ、予想通りの人物を見つけてしまう。
「……翼くん、どうも……」
なんとか声を絞り出したものの、若干上ずっていたかもしれない。そんな迪歩を、翼はびっくりしたような顔で見ていた。
なぜ、よりによってややロリータ系の甘めお嬢様ファッション(チカ談)のときに会ってしまうのだろうか。
そして、声が上ずってしまった理由は他にもある。
翼の隣に、女の子がいるのだ。
可愛らしい感じの女の子で、どう見てもたまたまそばにいる他人ではなくて、距離感の近さが親しさを物語っている。
(えっと……彼女?……そう、そうだよね。翼くんに彼女がいないわけないよね)
「チホこれ羽織ってー」
迪歩がぐるぐる考えて固まっているところにチカがやって来て、問答無用で新緑色のショールを肩にかけた。そして一歩ひいて、完成したコーディネートを確かめる。
「完璧!」
「完璧ですね!」
パチンと店員とハイタッチ。
随分仲良くなったようだ。――そしてそこでやっと翼たちが視界に入ったらしく、チカは迪歩と翼(と女の子)を交互に見て首を傾げた。
「あれ、チホの知り合い?」
「……うん、バイト先の人……」
「へぇ……丁度いいからチホこれこのまま着ていこう。似合う似合う」
「……は? 丁度いいってなに!?」
「ね、お兄さんも似合うと思うよね?」
「え? はあ……そうっすね」
いきなり話を振られた翼はチカの強引さに戸惑いの色が隠せない様子だった。隣の女の子も目を丸くして見ている。
「お兄さんたちこの後暇? お茶でもしません?」
チカがへラリと続けたその言葉で、さすがにフリーズしていた迪歩の意識も引き戻される。
「なんでいきなりナンパしてんの!?」
「いいからチホはお会計してタグ切ってもらってきなさい」
一体なにを考えているのか、ニッコリと微笑んだチカから電子決済のカードを押し付けられた。そして流れるような動作で強引に背中を押され、店員に引き渡されてしまう。
「はーい、彼女さんはこちらへどうぞー」
チカと息の合った動きを見せる店員に引っ張られてレジ前まで連行された迪歩に、何故か目を輝かせた他の店員も寄ってくる。
「もしかして修羅場ですか……!?」
「え!? 違います、一緒に来たのはい……兄弟で、あちらの方はバイトの同僚です」
「あ、彼氏じゃなくて弟さんなんですか。そう言われればどことなく似てるかも~」
「なんだぁ……」と、店員のみなさんが修羅場ではなかったことに対して若干残念そうにしているのは気のせいだろうか。
しかし、迪歩はそんなことよりも、チカが翼になにか余計なことを言わないかが気になってそれどころではなかった。それに、翼と一緒にいる女の子のことも気になる。
「じゃあタグ切っちゃいますねー」
「あの、私の着てきた服って……」
「あ、さっき弟さんが持っていかれましたよ」
「あいつ……」
着替えてしまおうと思ったのに先手を打たれていた。
チカはおしゃれをするのが好きなのだが、自分が着飾るのと同じくらい他人を着飾らせるのも好きなのだ。
丁度いいから着ていこう、などと思いついたような顔をしていたが、始めからそのつもりだったのだろう。そういえば先ほどチカは、「今年の流行色が迪歩に似合う」と言っていた。
頭の中がパニックで頭痛がしてきた。迪歩はタグを切る店員の手元を見つめながら、泣きそうな気持ちでもう一度ため息を吐いた。




