39. 椿詩織の家庭事情
椿詩織、十三歳。中学二年生。
母の浮気癖のせいで詩織が小学校にあがる前に両親が離婚。親権は父親が取り、そこから父子二人暮らし。
小説家の父はマメな人で、締め切り直前でなければ基本的に家事全般をやってくれていたし、母がいないことで特に苦労はなかった。逆に母がいない分、揉め事が起きなくて暮らしやすかったくらいだ。
詩織にとって母親とは、ヒステリックに父親を責めて泣くだけの女だった。
幼い頃からそんな家庭状況だったので、小学五年生の時に父が再婚すると聞いたときはだいぶ衝撃を受けた。
だって、円満な夫婦や幸せな家族など体験したことがなかった。
だからまたあんな日々が始まるのかもしれない、と恐怖した。
だけど、新しい幸せを見つけようとしている父に『再婚なんてしないで』と言えるほど素直な子供にはなれなかった。
せめて暴力を振るう人でなければいいな、という悟りきった気持ちで顔合わせに挑んだのだが――そこに現れたのは、ぼんやりほんわりした父とは、頑張ってもお似合いとは言い難いキリッとした美女と、その息子の美少年だった。
「詩織ちゃん、私娘が欲しかったの。仲良くしてくれると嬉しいわ」
そう言った新しい母は前線でバリバリ働く看護師で、美しく、かつ包容力あふれる笑顔を浮かべていた。
「詩織ちゃん、よろしく」
高校一年だという新しい兄は、果たしてこれは同級生の男子と同じ生き物なのだろうかといくらい優しく穏やかな美少年だった。
「どうしよう、普通にいい人たちだった。もしかしたら幸せの反動で近いうちに死ぬかもしれない。楓、そうなったら私の代わりに同人誌などを一式燃やしてください」
「詩織……大丈夫だよ、素直に幸せになりなさい。……もしBL本燃やす前に見られちゃったらゴメンね!」
「それは仕方ないけど、そうなったら死んでも死にきれない……」
「じゃあ生き返ってきなよ」
「生き恥をさらせと!?」
小五にしてすでに若干の腐女子属性をこじらせていた詩織には、完璧で普通な母と兄は眩しすぎた。
それは腐女子仲間の楓も同様で、しばらくして椿家に遊びに来た際、たまたま家にいた翼と挨拶した後に真顔で発した一言は。
「あ、詩織。これは近日中に死ぬやつだわ」
「だよねぇぇ……」
「でもアレだよね……詩織パパが受けでお兄さんが……」
「やめて!? 人の身内でカップリングするのやめて!?」
だが、翼はどう考えてもモテそうなのに女性の気配がない。
よく出かけて不在にしているので遊んでるのかな、と思っていたらバイトに行っているという。しかもバイト先は環境調査会社というお堅そうなところ。
それに加え、普通だったら嫌がりそうな詩織の父の『家族は一緒に晩御飯を食べるもの』という謎のこだわりにも嫌な顔ひとつせず付き合ってくれている。
「そんな理想的な人いる? きっとなにか裏があるはず」
「詩織は本の読みすぎで、現実とお話の区別がつかなくなってきてる可能性があると思う」
「だって、お母さんも翼さんも、完璧すぎて逆に怖いんだよぉ。あの実母の代わりにあんな完璧な人達が我が家に来るわけがないもん~」
「ちょっと哀れになってきた……ここで、いきなりイケメンと同居!? ドキドキ新生活! 方面に考えが行かないところが詩織らしいよね」
「いや私は夢女子じゃなくて推しの部屋の壁になりたい派なんで」
「知ってる~」
そんな風に詩織がいくら疑えど、新しい母と兄は特に裏を見せることなく、家族は平穏で幸せな日々を過ごした。
そんな日々の中、ほんの少しの気の緩みが……詩織に悲劇を招いてしまったのだ。
金曜の夜。
翼はバイトで遠方に行くため外泊。父は締め切り前で書斎に缶詰。母は夜勤。
そんな完璧な布陣で、更に大好きな作家さんの新刊発売が重なった。……というわけで詩織は一人で夕飯を食べながら新刊を読むというささやかな楽しみを満喫したのだった。そして、入浴後にだらだらテレビを視聴。うっかりそのまま居間のソファで寝落ちしてしまった。
「……」
目が覚めた詩織には毛布がかけられ、ダイニングテーブルには夜勤明けの母が座っていた。――その手に新刊のBL本を持って。
「……」
終わった。
相手の裏がどうこうとかいう前に自分の裏をさらけ出してしまった。
「あっ、ゴメンね勝手に読んじゃって……あのね、詩織ちゃん」
「……はい」
し に た い。
目が合わせられない。
「この作者さん好きなの?」
「……はい」
「……実は私もなの」
「……は、い?」
言われたことがすぐに理解できなくて、思わずマジマジと母の顔を見返す。彼女は恥ずかしそうにふふふ、と笑って、
「もしかして、お仲間?」
「えっ……ええ……腐女子仲間ってこと……です、か……」
「そう」
「……ええええぇ……」
「うふふ。あ、ちなみに翼はそういうの気にしない子だからもしバレても大丈夫よ。そういう風に育てたから」
「そういう風ってどういう風に!?」
「人の趣味や楽しみにとやかく言わないように。そして✕の前後の順番によっては戦いが起きる可能性があることを説いたわ」
「なに説いてるんですか!?」
実は母は昔からどっぷり沼にハマった腐女子で、『完璧で普通』などというのは詩織の単なる押し付けの思い込みだった。
「まさか夢だった娘ができた上にBLトークまでできるなんて最高。あ、リバって許容できるほう?」
とニコニコする母はとてもかわいらしかった。話の内容は別として。
好きな話の傾向が似ていること、そしてそれを知った翼が本当に気にしない人だったことに衝撃を受けたりしつつ、椿家は変則的ながら裏表なしの幸せな家族になれたのだ。
「でも結局お兄さんって彼氏も彼女もいないの?」
「彼氏を先に持ってこないでよ」
「ああでも今年大学受験だっけ。それどころじゃないかぁ」
「そうだね。なんかバイト先に元塾講師の人がいるらしくて、勉強見てもらってるみたいだし」
「……それは、かれs」
「ウチらと同じくらいの年の娘さんがいるおじさんだって」
「なんだー。……ってあれ、あそこにいるのは話題のお兄さんじゃない?」
日曜日、少し足を伸ばしたクレープ屋さんの窓際の席に座って話しているところで、楓が外を指差した。
その指の示す先、道を挟んだ反対側の歩道に一組の男女が並んで歩いている。
「あ、本当だ。……なんか女の人と一緒だね」
「ノマカプだったかー」
「カプ言うのやめなさい。彼女かもね……」
女性のほうは角度的によく見えないけれど、雰囲気が恋人同士っぽい。
かっこよくて、頭が良くて、家族にも気を遣って、しかも受験生。
……そんな人が息をつける場所はあるのかな、と思っていた。
自分がいつも我慢して、嫌なことも飲み込んできた子供だったせいで、翼もそういう人間だということが詩織には分かってしまったから。
だからいつか、プツン、と切れてしまうのではないかと思っていた。そうしたら、せっかく始まったこの幸せな家族も壊れてしまうんじゃないかと。
女性の横にいる翼はいつもの少し張り詰めた雰囲気が和らいで、ほんの少しだけ幼く見えた。
「詩織、にやにやしてる」
「え、だって嬉しくて」
「あー、推しの部屋の壁になりたい派だもんね」
「そういうこと」
そうしてクスクス笑い合う二人のスマホが同時に鳴った。
「クラスのグループだ」
「なにこれ、bya……びゃっこ、さん?」
おつげの写真は、詩織の家付近の風景だった。




