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30. 転落

 目が覚めたら全身の感覚がなかった。

 もしかしたら本当は目覚めていないのかもしれないが、とりあえず視界には雑木林が広がっている。

 少し拓けているし、ゴロゴロとした、でも角の取れた大粒の石がたくさん落ちているので沢が近いのかもしれない。

 周りを把握しようと意識を巡らせていると、少しずつ鈍い痛みが襲ってくる。


(……そうだ、山の斜面を落ちたんだ)


 普段使わない道を引っ張り回されたせいで正確な位置は分からないが、こんなふうに拓けた大きな沢があるとしたら集落とは反対側の山裾ではないだろうか。

 鈍痛に顔をしかめていると、微かに水の流れる音が聞こえ始める。

 聴覚が戻ってきたらしいが、同時にここが予想通り集落から離れており、人のあまり分け入らない場所であることを悟って絶望的な気持ちになる。

 痛みは波のようにズキン、ズキン、と襲ってくるが手足の感覚は未だにはっきりとしない。――代わりに、体の芯がひどく冷え切っているのだけがわかる。


(死ぬのかもしれないな)


 痛みはあれど、予想していたよりもずっと穏やかだ。

 空襲の焼夷弾で焼かれた人々は呼吸もできず、熱さにもがいて亡くなったと聞くので、それよりはずっと楽だ。

 どうせこのまま生きながらえても、どこかの農家に嫁いで子供を産み、野菜や稲を育てるだけの人生だ。

 どうあがいたって中学の上になんて進学させてもらえるわけもない。


 不由(ふゆ)は目を閉じて、せめて最期の痛みを和らげようと呼吸を深くする。


「いやいや、諦めが良すぎるだろう。もうちょっと生きようとしなさい」


(……なんだ、うるさいな)


「この子は戦国時代の武士かなにかだろうか。……それとも、戦争があったばかりだし、人間というのは、こういうものなのかな」

「どうでしょうね。尚行(なおゆき)とは随分性格が違うみたいですが」


 誰かが近くにいて会話をしているようだが、近づいてくる足音などは聞こえなかった。不由が目覚める前から側にいたのだろうか。

 ということは、助かるのかもしれない。


 ああでももう、熱が、体から逃げていく。


「まあいい、あまり時間はなさそうだ――さあ不由、君に生きる道をあげよう」





 目を開けると木目の天井が見えた。

 手足の感覚を確認すると、先程とは違いきちんと体を動かすことができた。


「あ」


 頭の横で高い声が聞こえた。続けてパタパタという軽い音と襖を開くような音が聞こえる。

 誰かがこの部屋から出ていったらしい。

 ここはどこだろうか。

 目に映る低い天井には見覚えがなく、また壁には書棚が造り付けてあって古い装丁の本がずらりと並んでいる。

 本を読むより仕事をしろ、が口癖の両親はこんなに本を丁寧に並べるようなことはしないだろうし、どうやら不由の自宅ではなさそうだ。


「目が覚めたか」


 ガラリと襖が動き、誰かが入ってきた。

 聞いたことのない男の声に、横になっていた不由は慌てて上体を起こす。すると、体にかけられていた薄手の肌がけの上にハラハラと黒っぽい粉末が舞い落ちた。


「……っ!」

「? どうした?」


 体を起こすなり目をむいた不由の顔を不思議そうに男が覗き込んできた。

 男……男だよな?

 書生のような格好をしたその人物は、美女と言われても納得してしまうような美しい顔をしていた。年の頃は二十を過ぎた頃だろうか。


 ――だが今はそんなことよりも重要なことがある。


「布団が! 汚れるでしょう!?」

「……布団?」


 上体を起こして視界に入ってきた自分の姿は惨憺たる有様だった。

 上着は何箇所も大きく破れて下着が覗いている。その下着もあちこち裂けており、そして全体的に焦げ茶色のシミが広がっているのだ。

 手も、肌がけから覗く足も、同様に焦げ茶色に染まっており、乾いたそれが粉末状になって動くたびにハラハラと舞い落ちていった。


「血! でしょうこれ!……こんな、上等な布団が……! 洗うの大変じゃない!」

「……は?」

「血は乾いたら落ちにくいんだからね!?」

「……それは、申し訳ない……?」


 起き上がるなり怒りだした不由に男は困ったように眉を落として首を傾げる。するとその男の後ろから小さな狸が顔を出し、甲高い子供のような声で喋りだした。


主様(ぬしさま)、やっぱりこの娘はやめましょう。顔つきが凶暴すぎます。きっと犬や猿のように噛み付いてきますよ」

「あ゛ぁ゛!?」

「ヒッ……」


 思わず低い声でにらみつけると、声の主はササッと男の影に隠れてしまう。

 そうして睨みつけてから気付いたが、今喋っていたのはどう見ても人間ではなく狸だった。


「……って、狸? 喋ったってことは物の怪? っていうかここどこ?」


 男の影からは狸の尻尾の先がはみ出していて、ふるふる震えていた。男は手を後ろに回す。狸を撫でてやっているようだ。


「確かに尚行とは違ってなんとも忙しない娘だ……ここは迷い家(まよいが)だよ」

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