27. 二律背反の、
「……痛……」
掴まれた手首が痛んで、さすりながらため息を一つ落とす。
(ええとなんだっけ、そう、電器屋に行こうと思ってたんだ。本屋は……いいや)
本気で怒ったのなど、一体何年ぶりだろうか。
だいぶ精神的なエネルギーを使ってしまったらしく、ひどく疲れてしまった。
早く電器屋によって帰ろう。そう決めた廸歩が速足で歩いているところに、どこかで聞いたことのある声が聞こえた。
「悪い、俺ちょっと寄るとこあったわ」
「おー、じゃあな」
皆でどこかへ行くところなのだろうか、ワイワイと話しながら駅のほうへ向かっていた男の子のグループの中から、一人が離れてこちらへ向かってくる。
彼はすっと迪歩の隣に並ぶと、少し困ったような顔をしたが、すぐに意を決したように声をかけてきた。
「迪歩さん、大丈夫?」
大丈夫か、とわざわざ聞くということは、大丈夫ではなさそうに見えるらしい。
――そういえば彼は、人の感情が分かるのだ。
「……つばさく……」
声を出すと同時に、廸歩の瞳からボロッと涙がこぼれ落ちた。
翼は息を呑んで、眉根を寄せる。
(……ああ、困らせちゃった。そうだよね、急に泣かれたら困るよね。私も泣くつもりはなかったんだけど)
まるで栓が壊れてしまったかのように、次から次へとほろほろこぼれてくる涙が止められない。
「ご……ごめ……」
「あっちに座れるとこあるから、ちょっと休もう」
翼が指さした高架下の居酒屋が並ぶ通りは人通りが増えるにはまだ早い時間で、人の姿はそう多くない。
まだ営業時間前の店の外に置かれたベンチに座った時には、何とか涙は止まっていた。
「落ち着いた?」
「うん……ごめんね」
隣に座った翼の優しい声に、今度は人前で泣いてしまったことが恥ずかしくて顔があげられなかった。
周りから見たら、翼が迪歩を泣かせたように見えただろう。もう、申し訳ないなんて言葉では足りない。
「……自分でも泣くなんて思わなくて……ご迷惑おかけしました」
「迪歩さんの手首、ちょっと赤くなってるけど……何があったか聞いても大丈夫?」
「え、……あ、ほんとだ」
そう言われて迪歩が自分の腕を見ると、大塚に掴まれた左の手首が赤くなっていた。道理で痛むわけである。
「言いたくなければ無理しなくても――」
気を遣って続けた翼に頭を振り、廸歩は大塚と話をしたことを伝えた。
彼が自身の祖父の呪術研究を真似してやっていたこと、ターゲットはなんとなくで選んだこと、迪歩がそれを邪魔したことに対して文句を言われたこと――そして、そのときに腕をつかまれたこと。
乱暴する、とか、慰めて、とか言われたことはさすがに省いた。
「あの男に、腕掴まれて脅されたんだ」
うん? 翼の声が低い。これはとても怒っているぞ?
「あ、でも冗談だって言ってたし、そんな大した話じゃないよ。大丈夫」
「大した話だよ。大丈夫じゃなかったからさっき迪歩さんはあんなにおびえてたんでしょ」
「おびえてた……?」
「迪歩さんは自分のことに無関心すぎるよ……結果的に何もなかったとしても、男に無理やり腕を掴まれたら怖くて当然だよ」
怖い?
一瞬、言われたことがよく理解できずに首を傾げる。
廸歩は自分で自分の身をある程度守れるし、あのときは怒りで頭に血が上っていたけれど――言われてみれば確かに、力ずくで乱暴されかねない場面ではあった。
「……ああ、そっか……私、怖かったのかぁ」
「……迪歩さんの大丈夫は全く信用できないな」
翼があきれたようにため息を吐いた。
「うっ……すみません」
「ああいや、迪歩さんが謝る話じゃなくて、こっちが勝手に心配してるだけだから……迪歩さんが無事だったんならいいんだ」
そう言って翼は柔らかく笑う。
その笑顔を見た瞬間、ああ、やっぱりこの人が好きだなぁ……と自覚して、迪歩はまた少し泣きそうになった。
自分が人から好かれるわけがないんだから、誰かを好きになっても無駄。
そう、ずっと自分に言い聞かせて見ないふりをしていた。
――それに。
迪歩が翼に惹かれるのは、もしかしたら自分と同じように『視える』人だから。
迪歩の異常さを知っても優しくしてくれるから。
それだけなのかもしれない。
これは恋? それとも単なるシンパシー?
ふわふわとした気持ちと、冷水を浴びせられたような冷え切った気持ちがまぜこぜになって、自分の気持ちが分からない。
――そこに突然、さっきの大塚の言葉が脳内で再生される。
「この間チホちゃんと一緒にいたイケメン君。チホちゃんに気があるっぽいけど……」
ないないないない!
(ありえない。大塚くんの勘違い。翼くんが私のことを好きになるなんて……!)
そんな迪歩の様子を心配してくれたらしく、翼が「どこかへ行くところなら一緒に行こうか?」と言ってくれたが、自分の中の勘違いが暴走しそうなので丁重に断った。
もったいないことをした、というのと、これで良かった、という二律背反の感情に苛まれつつ、廸歩はふらふらと一人で電器屋へ行ったのだが、目的の電球を忘れて電池だけ買って帰ってきてしまった。
そして、こんなときに限って狙ったように浴室の電球が切れて、頭を洗っている途中で真っ暗になってしまった。
(おのれ、あれもこれも、大塚くんのせいだ)
本人のあずかり知らぬところで、迪歩の中の大塚の株は右肩下がりで大暴落していったのだった。




