21. よかった
離れの景色がぐらりと歪み、迪歩は思わず目を閉じた。
そして次に目を開けると、もといた文園堂の小上がりの部屋に戻っていた。
無事戻れたことに少しホッとする。
やや気だるく重たさを感じる体はまるで眠りから覚めた直後のようで、もしかしたら離れにいた間、迪歩の体は眠った状態だったのかもしれない。
迪歩は何かに寄りかかっていた体を起こし、座り直そうとして――自分の手が誰かの手とつながれたままだったことに気付いた。
(ってことは寄りかかってた『何か』って――)
「……迪歩さん……? 目が覚めた? 大丈夫!?」
よくよく見てみれば、寄りかかっていたどころか、迪歩の体は翼の腕の中に抱えられており――そして当然だが、翼の声は超至近距離から聞こえた。
「ぎゃっ……!! つ、つばさくん……ごめんなさい大丈夫です……!」
「よかった……」
迪歩は、大丈夫ですから! と抜け出そうとしたのだが、そのままぎゅっと腕の中で抱きしめられてしまう。
――ちょっと待って! 男の人に抱きしめられるのなんて人生初なんですけど!!
頭の中が完全にパニックなんだけど何とか冷静になろうそうだこんな時は素数を数えて落ち着くんだっけ?
えっと、三、五、七……あれ、二も?……待って、そういえば私数学苦手だった!
と、数学が苦手なことを思い出したおかげで若干冷静になれた迪歩は、自分を抱きしめる翼の手が少し震えていることに気付いた。
手をつないでいた相手が突然気絶して、それからどれくらいの時間が経っているのかは分からないが、なんにせよ目を覚まさなかったらそれは恐怖だろう。
どうやらものすごく心配をさせてしまったらしい。
ごめんなさい、という気持ちを込めて、迪歩はそっと手を伸ばして翼の頭をなでた。
「っ!!!……すみません!」
その途端、翼はガバッと迪歩を抱きしめていた手を離し、そのままじりじりと後ずさりして距離を取った。
深く考えることなく思わず手を伸ばしてしまったが、男の人の頭をなでるのはさすがにアウトだったのかもしれない。翼は耳まで真っ赤になっているので、きっと子供のようになでられて恥ずかしかったのだろう。
申し訳ない気持ちと、翼との距離が離れてしまったのを残念に思う気持ちがないまぜになったまま、迪歩はなでる対象を失った片手を下ろした。
(……なんか、すごく残念なような……?)
「迪歩ちゃんごめんね、僕の見込みが甘かったせいで迪歩ちゃんを危険な目に合わせてしまった」
「!?……あ、いえ、全然元気ですから」
ぼんやりしていたところに、横からかけられた声にヒエッとなった迪歩はあわてて声の主の方を向く。そして、ぽかんと口を開けて相手を見つめた。
「さっきまで君の中に呪いが入り込んだ状態だったんだ。……今は気配が消えてるんだけど、念の為きちんと確認させてくれるかな」
話しかけてきたのは、パーカーのフードを下ろして、そして前髪もかきあげているので一瞬『誰これ……』となったが、間違いなく藤岡だった。
見た目の印象だけでなく、しゃべり方もいつものように間延びしていない。
(え、この人、ちゃんとしゃべれるんだ)
迪歩が戸惑っている間に、先ほど暗示を確認したときと同じように再び目を覗きこまれる。藤岡の前髪がさえぎらない分、前回よりもきっちりと目が合うので、前回よりも数倍居心地が悪い。
「呪いはきれいに消えてる……それと……少しだけだけど、壊れたはずの守護と同じ気配がするね」
「守護の気配……?……離れに行ったからかな?」
「離れ?」
「えっと……夢、かもしれません」
「ふむ、夢であってもかまわないから、何があったのか聞かせてもらっていいかな?」
***
そのまま話を始めようとした迪歩と藤岡は「倒れた人間に無理をさせるな」という翼と園田の主張により、強制的にお茶で一服することになった。
暖かいお茶の入った湯呑を両手で包んで持つと、指先からじわりとぬくもりが広がって、体に入っていた力が抜ける。思わず、ほぅ、と息を吐いた。
無理をしているつもりはなかったのだが、思っていたよりも疲れていたらしい。
「呪いと向き合うと、MPをがっつり消費するんですよ。自分で思うよりも精神的に堪えるみたいで」
「MP……そうですね」
そういうものと頻繁に向き合っているのだろう翼の言葉に頷く。確かにHPではなくて、MPを消費したという表現がぴったりだ。
ちなみに、藤岡はまた前髪を下ろしてフードもかぶってしまった。
ちゃんと目が見えている状態の藤岡は普通に男前だったので、隠してしまうのはもったいない気がするのだが、彼の場合そうしていないと色々と視えすぎて疲れるのだそうだ。おそらくその『視えすぎる状態』もMP消費が激しいのだろう。
「その『離れ』って、今はもうないの?」
「はい。ふゆさん……大叔母が亡くなった翌年に取り壊されました。軒先に風鈴がかけられていましたけど、あれは今、別の場所にしまわれているはずですし」
迪歩が一通り説明を終えると、藤岡はふうむと考え込む。
「もしかしたら、迪歩ちゃん自身が『お客さん』と向き合うのに一番ふさわしい場所として、自分の記憶の中にあったその場所を再現したのかもしれないね」
「ふさわしい場所、ですか」
「子供のころ、迪歩ちゃんは『お客さん』関係で困ったときに、その場所へ助けを求めに行ってたんだよね?」
「はい……単純に遊びに行ったときに、大叔母がそういうものと対話しているところも何度か見たことがありますし……言われてみると確かに、あの場所は私にとって『お客さん』を迎える場所なんだと思います」
藤岡によれば、迪歩は自分の中に入り込んできた呪い(+霊)を浄化した――らしい。その浄化の場として無意識に作り出したのが『ふゆさんの離れ』ではないか、というのが彼の推測だった。
現在は呪いも霊も気配がなくなっているので、呪いは浄化されて消滅、霊は小乃葉自身の元へ戻ったのではないか、と藤岡は話した。
浄化にかかった時間――つまり迪歩が呪いを呼び寄せた後に、意識を失っていた時間はだいたい十分間くらいだったそうだ。
呼び寄せた呪いだけを分離するための術式を組んでいる途中で、突然呪いの気配が消え、迪歩が目を覚ましたのだという。
「大変ご心配をおかけしました……」
「いやいや、さっきも言ったけど僕の見込みが甘すぎたんだよ。迪歩ちゃんの、霊を引き寄せる力の強さをちゃんと把握したうえで動くべきだったんだ。だから謝るのは僕の方。申し訳ない」
とはいえ、ものすごく心配してくれていた皆とは違い、迪歩自身はそれほど危機感を抱いていたわけでもなく、ただ小乃葉と話をしていただけなのだ。しかも呪いに襲われたと思っていたのだって、単なる自滅だったわけで……。
そのあたりの、自滅と思われる事情も一応説明しておいた。
「1回目に遭遇したときはまだ守護があったのに、それでも惹きつけられてきたっていうのは……標的と縁が深いというのを考慮しても、霊から見ると迪歩ちゃんは相当魅力的なんだねぇ」
「……うれしくないです」
「そうだねぇ、こちらの護符の効果も超えちゃってるくらいだからなぁ。早急に護法を覚えないと危険だね」
「はい……」
とりあえずこの件を解決したら瑠璃の安全確保ができるし安心――だと思っていたのだが、どうやら現時点で一番危険にさらされているのは迪歩自身らしい。
実質呪いは瑠璃には到達していないので、呪いの主な被害者は迪歩と小乃葉の二人である。
「……そういえば、呪いは感情の塊だって言ってましたよね? それが消えたら、発信源の平田さんはどうなるんですか? 呪いの源になってた憎しみとかの感情がポッカリと消えたりするんですか?」
まして、今まで小乃葉は自分で抑え込んでいたのだ。それが消えたら気分爽快、となるのかと思って聞いてみると、藤岡は「そうだなあ」といつもの間延びした口調でのんびりと話し始めた。
「呪いは成立してしまえばもう発信源とは切り離された悪意の塊だから、その呪いが浄化されて消えても発信源の感情にほぼ影響はないんだよねえ。ただ今回の場合、平田さんは自分の意志で呪いを抑え込んでたってことだし、その呪いごと迪歩ちゃんに浄化されたわけだから、だいぶ毒っ気は抜かれてるんじゃないかなぁ」
無意識に抑えていた呪いが消えただけでも彼女の精神的な負担は相当減っているはずだよ、と藤岡は続ける。
「……ただ、平田さんにかけられてる暗示がどうなってるのかは確認しないだね。元々そこまで強くなかったであろう負の感情を煽りまくって大きく膨らませてたわけだし、急に呪いが消えたことで逆に平田さんの心のバランスが崩れちゃう可能性だってある」
「……早めに本人に会って確認した方がいいですね」
「そうだね。暗示の状態確認のために翼君も一緒に行ってもらえるかな? 迪歩ちゃんにかかってたやつで、暗示の気配は分かるよね?」
「多分。前回は呪いの気配が強かったけど、それがなければ分かると思う」
「うん、よろしく。……僕が行ってもいいんだけど、平田さんの警戒レベルが跳ね上がりそうだからねぇ」
「「「ああ…」」」
あははーと笑う藤岡の言葉に、彼以外の三人の声が重なる。
自分の見た目が胡散臭すぎる自覚があるなら、もう少しどうにかすればいいのに……と思うのだが、何かしら彼がこの形にたどり着いた事情があるのだろう。
「じゃあ平田さんに連絡とって、会ってもらえるよう調整します。ちょっと大塚君の動向が気になるので土日のどちらかにしたいですけど、翼くんはいつが都合いいとかってありますか?」
「土日ならいつでも大丈夫ですよ」
「じゃあ平田さんに聞いて、連絡します……ってそういえば翼くんの連絡先知リませんでした。……SNSとかやってます?」
「あ、やってます。ちょっと待ってくださいね」
連絡先を交換して表示された翼のアイコンはもるもるのアップだった。本当に大好きらしい。――そして、もるもるアイコンの隣に表示された名前は『古原』だった。
「名前……古原、ですか?」
「ああ、そういえばそうなってるんだった……えーと、それは前の名字です。今の名字は椿といいます」
元々古原だったのだが親の再婚で苗字が変わり、今は椿翼なのだそうだ。
椿に変わったのが高校入学後だったため、学校では名字変更はせずにそのまま古原で通している、とのこと。
うっかり複雑なご家庭の問題に踏み込んでしまった……と思っていると、「実の父はずっと昔に亡くなってるし、今の家族関係も良好で、複雑な事情とかはないですよ」と翼がちょっと笑った。考えてることがばっちり読まれてしまったらしい。
「ただ、椿って呼ばれ慣れてないのと、『つばきつばさ』って響きがちょっと嫌なのであんまり名乗りたくないんですよね……」
九環の事務所で真琴が『翼は名字で呼ばれるのが嫌い』だといっていたのはそういう理由らしい。
「翼くんね~、ご両親の再婚で年の近い妹さんができたんだよ。漫画によくあるいきなり同居ラブのやつだよね」
「漫画によくあるいきなり同居ラブのやつ……!」
藤岡の言い出した単語に迪歩は思わず反応する。漫画ではよく見るが、現実ではあまり聞かないあの展開だ。
「そういうのはないので!……それに親の再婚当時、俺は高校生で妹は小学生ですし。ありえないです」
翼は藤岡を睨みつけ、強い調子で否定した。
でもそこから長い時間をかけて愛を育んでいくパターンもあるよね……と迪歩は思ったが、翼が非常に嫌そうな顔をしていた――そしてその様子に少なからずホッとした自分がいたことに戸惑ったので、それ以上は触れないでおくことにした。
ひとますこの日はそれで解散となり、迪歩は「倒れた人間を一人で歩かせるわけにいかん」という園田に車で送ってもらって帰宅した。
マンション前で車を降りて迪歩がお礼を言うと、園田は、
「いいから、早く帰って休め」
と機嫌悪そうに顔をしかめて、追い払うようにシッシと手を振った。
藤岡からの事前情報によれば、園田のそういった態度は照れ隠し、らしい。
走り去る車を見送りながら、迪歩は少し笑ってしまった。




