20. 懐かしい庭で
小乃葉の感情が怒濤のように流れ込んできて、廸歩は軽いめまいを感じる。
くらくらする頭を振り、瞬きをする――が、何度瞬きしてみても視界が一面真っ黒でなにも見えない。一瞬、目が見えなくなったのかと焦ったが、顔の近くで手を動かしてみるとかろうじて見えるので視力は失っていないようだ。どうやらひどく真っ暗な場所にいるらしい。
停電?……にしても、まだ日が落ちるような時間ではないはずだ。たとえ停電であっても、窓のあるあの部屋でここまで塗りつぶしたように暗くなるわけがない。
それに藤岡や園田はおろか、すぐそばにいて手をつないでいたはずの翼の姿もみえない。
しかし、微かに手のひらにぬくもりを感じる。
見えないけれど手は繋がっている。
(……そういえば、すごく小さい頃にもこういう真っ暗な場所に閉じ込められたことがあるような)
――うっすらとしか覚えていないし、夢だったのかもしれないが。
あのときはどうやって抜け出したんだっけ。こういうときに助けてくれるのはいつもふゆだったから、そのときも多分ふゆがなんとかしてくれたはずだ。
(こんなとき、ふゆさんはどうするんだって言ってたっけ)
彼女の言葉を思い出そうと記憶をたどっていると、まるで廸歩が思い起こした記憶に呼応するように少しずつ周囲が明るさを取り戻し始めた。
――そして、完全に光が戻ったとき廸歩の目の前に広がっていた景色は、先ほどまでいたはずの文園堂の一室ではなく、とても懐かしい庭だった。
「え……ここって……」
今は取り壊されてしまったはずのふゆの離れの庭だ。
小さな廸歩がいつも通っていたそのままの景色を、今の廸歩の目の高さで眺めるのはひどく不思議な感覚だった。
(ふゆさんがいたり……は、しないか)
淡い期待を胸に見回してみて、少しだけがっかりする。
もうふゆはこの世にいないのだから、当然と言えば当然だ。しかし壊されたはずの離れがあるのだから、いなくなったふゆがいてもおかしくはない気がしてしまったのだ。
小さく嘆息したところで――ふと人の気配を感じた廸歩は庭の隅に視線を向けた。
「平田さん……」
小乃葉の姿はピンぼけの写真のようにひどくぼんやりとしていて、その体を締め上げるように真っ黒な蛇が巻き付いている。
うつむいて立ち尽くす小乃葉のその姿は、ひどく悲しそうに見えた。
(でも、平田さんから見たら私と瑠璃の関係はあんなふうに見えるんだな)
さっき流れ込んできた小乃葉の記憶を思い出して、廸歩は少しだけくすぐったい気持ちになる。
こんなにも得体の知れない状況だというのに、迪歩の心は何故かとても静かに凪いでいて穏やかだった。――この庭に、ふゆの面影を感じるからだろうか。
『――廸歩ちゃん』
『お客さんを乱暴に追い出したりしちゃ駄目。だってお客さんも迷子だからね』
ふと、ふゆの言葉が脳裏によみがえる。
『迷子なの?』
『そうよ。その人のお話をよおく聞いて、その人が帰るべきお家が分かったら、もしかしてこちらではありませんか? って教えてあげるの』
『分かんなかったら?』
『分からなかったら、申し訳ありませんがあなたのおうちはここではありませんので、ここでちょっと休んだら他を当たってください、ってお願いするの。怒って暴れるようなお客さんだったらお仕置きしないといけないけど、そうじゃないなら優しくしてあげなきゃ駄目よ』
『――帰る場所が分からないのも、帰れないのも、すごく悲しいことだから』
ふゆはいつも、廸歩にくっついてきたお客さんの話を聞いてあげていた。
廸歩を悩ませたお客さんは、そうしてふゆと話をしたあとは皆静かに庭から去っていくのだった。
ふゆの言葉を借りれば、この庭に来る者は迷子なのだ。
そして、自分の力だけでは帰ることが出来なくなってしまった者たち、なのだ。
つまり、ここで廸歩の果たすべき役割は、この呪いの元となっている小乃葉の抱えるわだかまりを解いて、彼女の帰りたい場所に帰れるよう手伝うことではないだろうか。
廸歩はためらいつつ、小乃葉に向かって声をかけた。
「平田さん、話をしませんか?」
その呼びかけに、今まで顔を伏せていた小乃葉が顔を上げる。真っ暗な闇色の瞳が廸歩をとらえて揺れた。
分かってはいたが、小乃葉は話をする気がないようでじっと黙り込んでいる。しかし、その輪郭が戸惑うように少し揺れていた。
(そりゃまあ、漠然と話をしようと言われても困るよね。私だったら困るし)
小乃葉にとってのわだかまりの原因は、結局なんなんだろうか。それが分かれば会話の糸口になるかもしれない。
先ほど受信して勝手に聞いてしまった彼女の胸中から鑑みるに、翼の言っていたように彼女自身は呪詛を実行したことを自覚していないようだ。きっと大塚が暗示によって自覚できないようにしているのだろう。
――ということはつまり、彼女の中で一番重大な罪は『呪ったこと』ではない。
瑠璃に、『嘘を吐いたこと』なのだ。
自分の想い人を奪い、なおかつ二股をかけていた――おそらくこれは大塚の嘘だと廸歩は思っているが――そんな瑠璃が許せない気持ちと、嫉妬心から嘘を吐いて友人を追い詰めてしまった自分自身が許せない、という二つの気持ちがせめぎあっている状態だ。
小乃葉がそこまで瑠璃が許せないのも、嘘を吐いてまで相手を追い詰めてやろうとしたのも、どちらも暗示によって想いをゆがめられてしまったせいである。
どちらも小乃葉は悪くないのに、その結果を背負わされて苦しんでいるのだ。
「ああ、そっか……その蛇が平田さんに巻き付いて離れないのは、その子が瑠璃に向かわないように平田さん自身が抑えてるからなんだね」
小乃葉の輪郭が一瞬大きく揺らいだ。
『違う……違う! 私は瑠璃が許せなかった! 傷つけてやりたいって思った!!』
小乃葉の声が庭に響いた。その声には必死さが滲んでいる……そう思わなければいけないという決まりごとがあるかのように。
「でも実際に、呪いは瑠璃に届いてないでしょう?」
そう。冷静に考えてみると、瑠璃は呪いの被害を受けていないのだ。
ストーカーとクラス内孤立という被害は受けているが、それはどちらもあくまで『人心を惑わす』という呪いの副産物であって、呪いそのものの効果ではない。
呪いの直接的な被害でいうと、迪歩が守護を壊された件くらいなのである。
……なのだが、ここで改めて小乃葉と対峙してみて気付いたことがある。
『呪い』は『蛇』の姿をしている。
そして、ここにいる小乃葉は『呪いの蛇』が巻き付いている『生霊』である。
最初に藤岡から『あれは呪いだ』と言われたので、てっきり廸歩は『小乃葉の生霊』=『小乃葉の姿をした呪い』だと思っていたが……藤岡は、『蛇』のことを指して呪いだと言っていたのだろう。
小乃葉の生霊は、別に呪いでもなんでもないのだ。
つまり。
迪歩は自身が痛い目にあったせいで、てっきり襲われたのだと思っていたのだが――実際の所は、単純に霊体を引き寄せる体質の廸歩が近くをふらふらしていたから、霊体である小乃葉の生霊(呪いの蛇付き)が引き寄せられてしまい、接触して、廸歩が勝手に障りを受けちゃった! という……。
(……なんというか……私が勝手に自滅していた可能性が高いね!?)
うん、まあ……今はそれは置いておこう。
必要なのは小乃葉と話し合うことであって、自分が自爆していた事実を振り返ることではないのだから。
「ね、平田さん。……あのね、誰だって誰かを傷つけてやりたいって思うことくらいあるよ。平田さんだって本当は、誰かを傷つける気はなかったんでしょう?……今のこの状況は、他人に無理やりそうするように誘導された結果なんだよ。それって、平田さんが悪いわけじゃないって私は思う」
『でも、でも、違う、私は……!』
「本当は分かってるんだよね、瑠璃を傷つけたいのが自分の意思じゃないってこと。平田さんは、瑠璃と友達でいたいから、今、そんなに苦しんでるんでしょう?」
『私の……わたしのいし……なんて』
「じゃあ二択にしよう。瑠璃が嫌いか、嫌いじゃないか、の二択」
迪歩の言葉に小乃葉の瞳が揺れる。
『……嫌い』
『……じゃない……かもしれない……』
少しの時間のあと、小乃葉は途切れ途切れに呟いた。
「じゃあ、瑠璃とちゃんと話をしてみない? 吐いた嘘をなかったことにはできないけど、謝って、お互いが納得できるような着地点を探すことはことはできるでしょ?」
『……』
「不安なら私もつきあうから」
小乃葉の瞳からホロホロと涙が落ちる。
『……瑠璃……ごめんなさい……ごめんなさい……でも……でも、私は、憎まないといけないの……っ』
苦しそうに頭を抱えた小乃葉を、さらに苦しめようとするように蛇がざわりと動いた。きっと暗示の影響がまだ続いているせいで、自分の感情ときちんと向き合うことができないのだろう。
まず暗示を解かなければきっと小乃葉は苦しむだけだ。――だが、迪歩は藤岡のように暗示を解いたり壊したりする方法を知らないので、これはお手上げである。
どうしたものか、と空を振り仰ぐと、離れの軒天からぶら下がった魚模様の風鈴が目に入った。
懐かしい。ふゆのお気に入りだった物だ。
――誰かの音に惑わされず……
ふと、記憶の底に埋もれていたふゆの柔らかな声がよみがえってくる。
――耳は通り道になっていて、悪いものが入ってくることがあるの。
そう、ふゆが言っていた。「だから通り道を塞いで、自分の魂の形をちゃんと確かめるんだよ」と。
廸歩はまだ苦しげに頭を抱えてすすり泣いている小乃葉に歩み寄った。小乃葉は近づいてきた迪歩にビクッと体を震わせたが、それでも逃げたりはしなかった。
体温を感じないその手をとり、そのまま、彼女自身の手のひらで彼女の耳を塞ぐように覆う。
「誰かの音に惑わされず、あなたの命の音を聞きなさい」
もう悪いものが入れないように耳を塞いで、自分の鼓動の音を聞いて。
そして、自分がちゃんと生きていることを確かめる。
霊体である今、鼓動の音なんてしないだろうけど……自分の意志で通り道を塞ぐことに意味はあるはずだ。
大丈夫……ふゆさんがくれた言葉が守ってくれる。
小乃葉はゆっくりまぶたを閉じると、大粒の涙を一つこぼし――そして、すっと庭から姿を消してしまった。
彼女に巻き付いていた呪いの蛇も、苦しめるべき相手を見失って、黒い靄となり空気に溶けて消えていった。




