18. 呪いの矛先
小乃葉は瑠璃に憎しみや嫉妬を抱いてたかもしれない。
でもそれは、相手を呪うほどのものではなかったのではないだろうか。
そこにつけ込んだのは大塚だ。
……だが、彼は自身は呪詛には直接手を出していない。
「きっかけや動機となったのが暗示のせいでも、実際に手を下したのは平田さんだから……呪い返しをしたら呪いは平田さんに返っちゃうんですよね?」
「そうなるね」
「呪い返しって、さっき私の暗示を解いたのとは違うんですか?」
迪歩はさっき静電気のようなものをくらった手のひらをひらひらと振ってみせた。
「さっきのは解いたんじゃなくて無理やり壊したんだ。だからダメージは双方に発生したんだよね。でも、呪い返しは言葉通り、呪った犯人にだけダメージが行く。呪いも無理やり壊すことはできるけど、無理やりな分、影響を受けただけのクラスメイトを含む複数の人にダメージが行っちゃう可能性がある。――しかも『悪意をもって害をなす呪い』だからさっきよりも大きなダメージが発生することになるね」
「……なるほど」
藤岡が言うには、さっきの暗示で大塚が受けたダメージは軽く殴られる程度だという。それより大きなダメージというと――やはり、無事で済むとは言い難いだろう。
「……あの……それしかないのかもしれないですけど、平田さんがそんな罰を受けるようなことをしたとは、私は思えません……」
小乃葉に罰を与えるのは違う気がする。嫉妬なんて誰だってするし、それを利用されただけなのだ。
(多分瑠璃も、事情を知ったら同じように考えるんじゃないかな……)
解決を頼んでおいて、専門家のやり方に反対するのは心苦しいのだが、それでも他の方法を探ってほしい。
おろおろする迪歩に、藤岡が「わかっている」とばかりにうんうんと頷いた。
「そこで、迪歩ちゃんに活躍してもらいまーす」
「へ?私?」
突然名前が出てきてぽかんとする廸歩に、藤岡がニコっと笑う。
「迪歩ちゃんに『呪い』を呼び寄せてもらって、できるだけ力を削いでから平田さんへ返そうと思ってるんだ」
「呼び……寄せるって、どうやって? どこに?」
小乃葉の霊とは今までに二度会っているが、どんな条件で現れるのかなど分からない。まさか、ご本人(生身の方)にお願いして出てきてもらうわけにもいくまい。
「呪いってね、突き詰めていったら結局の所感情の塊なんだよ。だから翼くんに視える――っていうのは聞いてる?」
「……はい、聞きました」
「うん。でね、翼くんによれば迪歩ちゃんもその呪いの残滓を纏っているそうだ。多分霊と接触した影響だろうね」
そう言われて、廸歩は思わず自分の周囲を見てしまう。当然なにも見えなかった。
「迪歩ちゃんには、迪歩ちゃんの周りにある残滓を頼りに、呪いの本体を呼び寄せて欲しいんだ。護符があるから迪歩ちゃん自身に影響は出ないはず」
「はあ……」
「呼び寄せたら僕が浄化を試す。それで呪いが完全に浄化できたらラッキー。浄化しきれなかったら残りを呪い返しで返す。……浄化の効果で呪いの力はだいぶ削げるはずだから、平田さんも命の危険があるような状態にはならないはずだよ」
迪歩は眉根を寄せる。
自分には見えない残滓を頼りに、呪いを呼んで、浄化してもらう?
見えないのに?
呼ぶってどうやって?
「……聞いてもよく分からないことは分かりました。……で、具体的に私はなにをすれば良いんですか?」
廸歩の返事を聞いて藤岡がニヤッと笑った。
「分かんなくてもやってくれるのかー。迪歩ちゃんってめちゃくちゃ肝が据わってるよねぇ」
「できるだけうまく収まるやり方があるなら、それに賭けたいだけです。……要は、私の体質を利用して平田さんへ返る呪いを弱めるってことですよね」
「話が早くていいね。――じゃあまず、翼くんの目を借りて呪いを集めよう」
目を借りる、とは?
やっぱり分からない。業界用語的なものだろうか。
すると、少し離れた場所にいた翼が首を傾げている廸歩の隣に移動してきた。
「俺が触れてると、触れた相手も多少感情の気配が見えるようになるみたいなんです。もちろんその人自身の見鬼の……霊的なものが見える能力の強さとか、向き不向きはあるみたいですけど、呪いみたいな強いものならなんとか行けると思います」
「へええ……」
「というわけで、手をつないでもらっていいですか?」
そう言って翼はニッコリと手を差し出した。
(手?……あ、接触って、そうか、触れてないといけないのか)
「お……お願いします……」
恐る恐る手を伸ばして、翼の手を握る。
少しひんやりとした手は大きくて少し硬い。じんわりと体温が伝わってきて、迪歩の脳内の温度が一気に上がる。
(ほ……本当に大丈夫これ? 私の手、汗でベトベトしてない?)
「自分の周りに、巻き付くように空気の淀みがあることを意識してください。暗くて、空気の流れが止まった場所です」
ゆっくりと言い聞かせるような翼の声に、沸騰した脳内が我に返る。
(そうだ、呪い。呪いを呼ぶの!)
手をつないだだけなのに、冷静さが吹っ飛んでしまうくらい異性に対して免疫のない自分が恨めしい。
だいぶ苦労しつつもなんとか呼吸を落ち着けて、翼の言う『空気の淀み』を探すために目を凝らす。
気持ちが落ち着いていくにつれ、だんだんと自分の周りに空気の流れがあるのが見えてくる。そして、その中に、自分を中心とした螺旋状に空気が滞留した場所があるのが分かった。
「見えましたか?」
翼の声に頷く。
淀みはだんだんはっきりと、輪郭のある暗い影として見えてくる。
――これが呪い。
「じゃあ次は、その淀みを自分のそばに引き寄せるイメージをしてみてください。引っ張るとか、呼ぶとか、頭の中で想像しやすい方法でいいので」
引っ張る、呼ぶ。
今、廸歩の目に見えている呪いは、生き物のようにゆっくりと拍動していた。まるで、大きな蛇のように。
(それで翼くんは蛇っぽいって言ったんだ)
廸歩はほとんど無意識に、空いているほうの手でその蛇の体を撫でようと手を伸ばしたが、その手はなにかに触れることなくそのまま空を切ってしまう。
――おいで。
それでも心の中で呼びかける。
なんだか手のひらが熱い気がする。
再び蛇の体に手を伸ばすと、今度は触れた感覚が伝わってきた。
とても冷たくて、ひどく悲しくなる。
心の芯から冷えてしまうような冷たい蛇の体が、廸歩の手の熱で驚いたように身動ぎした。
――おいで。そこはとても寒いでしょう。
蛇の体がかすかに震える。
怒っている? それとも泣いているのか……いや、両方か。
――おいで。
ぞろり、と大きな体が動き出した。
それが分かったのだろう、つないだ翼の手に、緊張したように力がこもる。
迪歩は蛇から目を離さずに、大丈夫、という気持ちを込めてつないだ手の親指で彼の手の甲を撫でた。その動きに驚いたらしく、手を握る力がわずかに緩んだ。
しばらくそのまま蛇の動きを見守っていると、やがてピタリと動きが止まった。
「……」
今までとは違う気配を感じて顔を上げると、目の前に大きな蛇が鎌首をもたげて廸歩を睨みつけていた。
――大丈夫。話をしようよ。
睨む蛇の……その向こうには小乃葉が立っていた。
***
「迪歩さん!」
ガクン、と隣に座っていた廸歩の体から力が抜けた。
彼女の体が崩れ落ちていくのを、翼は咄嗟に抱きとめる。
呪いは今、完全に蛇の姿をとって彼女に巻き付いていた。呼び寄せることには成功したようだが……。
廸歩の目は固く閉じられているが、呼吸はしている。つないだままになっていた手をぎゅっと握ると、それに反応して彼女の指が翼の手の甲を撫でた。
その感触にドキッとして思わず手を緩めてしまう。
(意識がないわけじゃない……それとも反射的な動き? これはどういう状態だ?)
「翼くん、手を離さないようにね」
「あ、うん」
祐清の言葉に翼は慌てて緩んだ手を握り直す。
祐清は廸歩の前にかがみこみ、だらんと投げ出された迪歩の手をとって、手首に指を当てた。
「脈が弱まったりはしてないね。呼吸も正常だし……呪いに同調しすぎて意識を持っていかれたのかもしれないな」
「呪いに同調って、なんかヤバそうな響きなんだけど……」
祐清が前髪をかき上げて茶色い目でじっと廸歩を見つめる。
彼の色素の薄いその目は、色々見えすぎるので普段は長い前髪でわざと見えにくくしているらしい。
今、祐清にはどう見えているのかは分からないが、ぐったりと力の抜けた廸歩の体はひどく頼りなく感じた。
いつもなら、ほとんどこちらに興味を持たずに無視している園田も、さすがに気になるらしくこちらを見ているのが視界の端に映る。
「……うん、やっぱり同調してる……『迪歩ちゃん』っていう容れ物の中に呪いが入りこんじゃってる感じだ。混じり合ってないのが救いだな。……僕が想定してたよりも、彼女は恐ろしく霊体との親和性が高くて、護符の効果よりも器に呼び込む力のほうが強かったみたいだ……失敗したな」
基本いつも楽天的な祐清が、ぎゅっと眉根を寄せている。状況がかなり悪いのだ。
――呪いが入り込んでいる、とはどう言うことだろうか。
翼には単純に、蛇の姿をした呪いが迪歩に巻き付いているだけに視えるのだが。
もっと深く集中したら祐清のように詳しく視えるだろうか。
翼は自分の腕の中にすっぽりと収まった廸歩に、意識の焦点を合わせるように集中してみる。
(そういえばこうやって集中してると、目が金色に見えるって言ってたな)
そう言ってじっと見つめてきた彼女の視線を思い出して胸が詰まる。
……彼女になにかあったら、と思うと不安と恐怖でなかなか集中できない。
「……祐清、どうするつもりだ?」
「混じり合ってないってことは呪い返しで返せるかもしれない。でも、迪歩ちゃんの魂にまで影響が出る可能性も捨てきれないから……ひとまず浄化を試してみる。ただ、呪いが完全に迪歩ちゃんの中に入り込んじゃってるから、ちょっと手順を変える必要がある」
なにかの準備を始めた祐清と園田が話をしている。
祐清の始めの計画では、呪いを結界で隔離して浄化するはずだったのだが、こうなってしまうと呪いだけを的確に隔離できないため、アプローチを変える必要があるらしい。
翼はもう1度、呼吸を整えて集中してみる。
今度はうまく焦点が合わせられた。
だんだんはっきりと、呪いの暗い気配とは別の気配が見えてくる。
深い悲しみと怒りが混じったような気配。
そしてそれとは別にもう一つ、ものすごく静かで優しい気配がある。
それは、モカで見つめていたときと変わらない――翼がずっと前から知っている廸歩のものだ。
今みる限りでは、彼女自身が怯えたり苦しんだりはしていないようだ。それを確認して翼は安堵の息を吐く。
――きっと大丈夫。なにせ神様の花嫁が身内にいるくらい桁外れな人なんだから。




