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フロレンスの絞首台

作者: 民間人。

はじめに


 もし仮に、私達が生きるうえで重要なものがあるとすれば、それは食事である。食事を得る為には労働をしなければならず、労働であるためには対価が無ければならない。

 この世にもし、幸福な社会があるとするならば、人間は献身を忌避する事だろう。

 何故か?それは実に簡単な問題だろう。幸福を支えるのが献身だからである。即ち、幸福を下支えするべき人は、常に幸福の為に献身しなければならず、献身とは、何らの対価をも齎さないからである。

 仮に、その為に幸福に生きる事が出来た人がいたとしたら、その一握の確信が、盆から溢れた水滴のような人たちの献身を正当化するに違いない。しかしそれは、彼らが献身を忌避しない理由にもなり得ない。

 対価を、対価を。嗚呼、対価を求める私は、悪魔であろうか?契約は神の領域でもあり、悪魔の領域でもあるというのか?

「本日未明、東京都足立区で、男性の変死体が発見されました。付近には遺書と椅子があり、警察では事件性は薄いとみています」


「うっわ、こっわぁー……」


そう呟きながら、彼女は煎餅を頬張った。それは、息子が出張の土産物として持ち帰ったものであり、味は特段美味しいというわけでもないが、塩気も適度にあり、普段から朝食を抜くことの多い彼女にとってちょうど良い腹の足しになっていた。


「なんで自殺なんかするもんかね。俺らの時はもっと大変だったのにな」


彼女の夫は新聞を机上に広げながら目玉焼きを乗せたパンを齧る。「私の料理も適当だし?」と彼女が歯を剥き出して笑うと、夫も「俺も薄給だったし?」と黄色い歯を見せて笑った。


彼女は煎餅を飾る片手間でチャンネルを弄る。これまでは、定年を迎えた夫が居座るようになった朝は彼女にとって憂鬱な時間だったが、更年期を過ぎた彼女は夫へ対するストレスの多くを飲み込んでしまえるほどに回復していた。何より、最近はこの夫婦が頭を悩ませてきた幾つかの問題についても、解決したのである。


「そう言えばあいつも三年目だなぁ……」


 夫は天井を見上げて呟く。感慨深げな微笑は、定年直前によく見られた剣幕が見る影もないほどに穏やかなものだった。


「早いものねぇ……。就活大変だったみたいだけど……」


 テレビでは、直ぐに放火事件の話題に映る。テロップの他には、昨今ではすっかり馴染みになってしまった、パンデミックに関する速報も流れた。

 彼女達はすっかり外出をしなくなったが、仕事が板についてきた彼女達の息子についてはこの限りではない。彼女は既に、直近の変死体の事など、頭の隅にも置いていなかった。


「これじゃ旅行にも行けないわね」


「ハワイ行きたいよなぁ」


「宇奈月温泉行きたい」


「現場は何にもないぞぉ」


 夫は呆れたように笑う。彼女は煎茶を飲み干すと、夫の食器を洗うために立ち上がった。時刻は間もなく七時を迎える。夜勤明けの息子が帰宅する時間だった。


 パンを乗せただけのプレートには、微かに脂が浮いており、パンくずを水で流した後で、洗剤を泡立てて磨く。朝食は質素にするという生活が馴染んでいる彼女にとって、パンに目玉焼きの脂が付くこと自体が、かつては相手の存在を意識させる要因だった。今では、丁度このように無意識のうちに洗い流される。コップを水で濯ぎ、裏返して皿立てに置くと、彼女は踵を返して掃除を始めなければならなかった。


「お、お帰り」


 夫が物音に気付き新聞から視線を上げる。そこには、目の下にくまを作った息子が立っていた。仕事用の鞄を持ち、短く切った髪の毛からは、やにの臭いが微かにする。


「……ただいま」


 彼はそう言って荷物をかけなおす。後ろ手で何かを隠すように持つ仕草に、夫は眉を顰めた。

 ニュースは「若者のリアル」という連続特集を放送し始める。アナウンサーが神妙な面持ちで、今回のテーマを述べた。


「仕事が原因の自殺なんて、嫌ならやめればいいのに」


 彼女は何気なく呟いた。掃除機のコードが伸ばされて、プラグに接続された。


「……そうだね」


 息子は、手元の長いものを背中で隠し、視線を逸らした。

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