二幕~旅の仲間~一話「転落」
出足から躓いた。というか、落ちた。
山道に湧水が流れてぬかるんでいたから、歩いていたら滑るな、と思った。そこにちょうど、馬の耳に虫でも入ったらしい。急に頭を振り立てた馬が滑った。横倒しになりかけたのを持ち直す。
馬には良かったんだけど、俺は遠心力で飛ばされた。瞬間的な力だ、どうしようもない。声も出なかった。
「ルー!」イアリロが手を伸ばすのが見えた。
まっすぐ落ちれば大ケガをしたかもしれない。ありがたい事に崖の途中で何度か木枝にバウンドした。方向を変えながら落ちて行き、最後は川に着水。おかげでかすり傷程度だと思う。
暫く流されて川が曲がった所で、何とか川岸に張り出した木に掴まり、よじ登った。
ただ冷たいし寒い……手が悴んで言うことを効かない。
何となくイアリロが慌ててる気配が伝わって来るから、いずれ会えるとは思うんだけど。
俺には魔法は使えるのかな。何ができるんだろう。念話と、もし火魔法が使えるなら火起こし! すぐに教えて貰おう。
目の前のでかいやつを、やり過ごせれば。
やっと川岸に上りきった時、すぐ側でガサガサと音がした。
出てきたのは……ヒグマだ!
二メートルを軽く越える。お相撲さんの様な体型だから、体重も三百キロほどはあるんじゃないか。日本の動物園で見たのより二周りは大きい。
冬眠前の食べなきゃいけない時期だよな。
でもこちらでも確か、積極的に人間を食べはしない筈だ。濡れて震える子どもを、餌と思う程飢えているか。今年はどんぐりなんかが少ないとは聞かなかったが。
目を合わせないように。でも後ろは見せられない。ただ向き合ってじっとしていた。
「ミエリッキ!」川上の方から、ビプネンが大声で呼ぶのが聞こえた。ヒグマはその声にゆっくり頭を巡らせ、川下へと歩み去った。
ホッとしたら、膝から力が抜けた。ペタンと座り込んだ俺にビプネンが駆け寄って来た。
「ご無事か?」震えた声。真っ青な顔で俺の全身を見回している。
「大丈夫。寒いだけ」俺も震えてる。答えて笑いかけると、あっという間に濡れた衣服を剥ぎ取られた。
真っ裸でビプネンの上着に包み込まれ、抱きしめられたところで、意識が遠くなった。
目が覚めて、声を出そうとしたら、咳き込んだ。ビプネンに皮袋から水を飲ませてもらい、ホッと一息つく。
見通しのいい川岸だ。焚き火が明るく見えるから、夕暮れが近づいているんだな。
「タピオの気配は辿れそうですか?」訊かれて、目を閉じる。
気持ちを落ち着かせると、確かに山側の川上からこちらへ向かって来ているのを感じた。結構距離はありそうだけど。
凄く心配してる。大丈夫だから、と思って泣きそうになった。
「うん、こちらへ向かってるけど、もう少し時間がかかりそう」
これだけ差が開くんだから、ビプネンはかなりの無茶をして追ってくれたんだろうな。怪我はなさそうだけど。
心配そうに見たからか、首を振って笑ってくれる。
「わっしは大丈夫ですよ。ちょっと薪を集めてきます」
草を積んだ上に上着を敷いて寝かせてくれてたんだ。本当に、お手間をお掛けします。
動物達の気配はするけど、火には寄ってこない。
ビプネンが自分と俺の荷物を持って来てくれたから、着替えもできて、糧食もある。夕闇が迫る中、焚き火を見つめながら、ビプネンと初めて、ゆっくり話した。
どうしてあんなに、神官になったのを喜んでくれたのか、と尋ねると、長くなります、と前置きして語ってくれた。口承する時のように、姿勢と口調を正す。
「『カレワラ』をご存知ですか?」ビプネンに訊かれた。首を振った俺に、フィン人の代表的な物語、いわば神話だと教えてくれた。
「その中で、主人公のワイナミョイネンが乙女に恋をして、彼女の出した条件を叶える為に船を作るところがあります。彼は、船を作り操る術を知っていた巨人・ビプネンの所に向かう。鉄でできた防具を使って彼の体に浸入し、そこで鍛冶場を作り船を作る。そして巨人を脅して、太古の呪文と歌と伝説と知恵を教わってから、巨人の体を出るのです」なるほど。何とか分かった、と頷く。
「まさしくその様な事が起きたのです。わっしの故郷は、漁と狩りをしてのんびりと暮らす小さな村です。わっしは村の鍛冶師でもありました」うん、分かる。小さな村では各々が複数の役割を持つよな。
「ある時、小柄な男が二人訪れ、わっしの妹に恋をしました。両親とわっしは一方の男を勧めましたが、妹は若い男前の方が良かったようです。わっしらには言いませんでしたが」男前はきっと『女たらしのろくでなし』だったんだろうな、と決めつける。
「わっしらが勧めた男は妹に、どうしたら自分を選んでくれるかと尋ね、妹は彼にわっしに教わって船を作り、二人でたくさんの魚を獲って来てくれ、と答えたそうです。男はわっしに弟子入りしました。男前もよく遊びに来ていました」頷きながら聞く。ビプネンは、未来の義弟だと思って教えたんだろう。
「やっと完成した船に乗り、二人で漁に出ると、舵が壊されているのに気付きました。出港前日に確認した所です。故意だとしか考えられませんでした。男は、妹が自分に帰って来てほしくなかったのだと思って、わっしに妹の話をしました。そして、わっしが呆然としている間に、海に身を投げました」うわぁ……絶望したんだな。
「でも、妹がそうしたなら、理由は男よりも、わっしにあったんです。男は妹が断れば立ち去ったでしょう。妹はわっしに出て行って、帰って来てほしくなかった、としか考えられません。妹は男前と結婚して、二人で家を継ぎたかったのです」俺には何も言えなかった。
「妹はわっしに恨みがありました。わっしには不名誉な過去があります。村長の息子と熊祭りの狩りに行った時に、彼を守れなかったのです。わっしは彼を止められず、彼は熊に食い殺されました。妹は彼と結婚する予定でした。妹は復讐を果たし、惚れた男と財産を得ることが出来る」ビプネンは水を飲んだ。
「わっしは船が流され壊れるのに任せて、ただ死ぬのを待っていたのです。でも、空から難破した船を見つけたタピオが、当たり前の様にわっしに問いました。『お前は誰だ、何をしたいのだ』と。わっしも思いました。『わっしは誰だ、何をしたいのか』と」イアリロの言葉で一念発起したのか。
「わっしはビプネンとなって、何をしたいのか見つけようと思いました。あなたは『望むものが得られますように』と言ってくれました。わっしが望んだのは『大切なものを見つけて、今度こそ守れますように』ということでした」俺をじっと見つめる。
「あなたが馬に振り落とされ、崖から落ちていくのを見た時。あなたが熊に対峙しているのを見た時。以前、村長の息子を守れなかった時より、もっとずっと怖かった。わっしは失う事を知っている。わっしはあなたを失いたくない、決して。もう、あなたを何より大切に思っているのです」ビプネンの視線が、痛いくらいだ。
「俺は貴方に何もあげていないし、これからも、何もしてあげられないかもしれない。どうしてそんなに大切に思ってくれるのか、分からないんです」正直に答えた。
「あなたはわっしに、あなたを守るという、生きる目的をくれた。もっと強くなる手段をくれた。あなたと共に生き、あなたが去る時には一緒に逝く事ができるという希望をくれた。わっしに、あなたを守らせて頂きたい。お願いだ」跪き、手を握られた。
懸命に考える。これを受けて、問題がないかを。
多分、大丈夫だろう。
「ありがとう。俺から頼まなきゃいけないくらいだ。俺を、守ってほしい。でも、出来る限り、自分自身も守ってほしいんだ」光は出ないな、良かった。
と、思ったとたん、ビプネンが光った。その輪郭が揺らいで、熊の姿に変わる。
え? 何で? 俺、今回は何もしてないよな?
冒険に出た途端……ですが。転落前のルーとイアリロの会話を番外編で載せました。よければご覧ください。
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