見抜かれた迷い
ゾウ公園の斜向かいにある、曇り空に白壁が眩しい洋風の家が、美玲が通う個人経営の書道教室の場所だ。
美玲は花柄をした陶器の傘立てに傘を入れ、銀色の取っ手がついた白の扉を引くと、ドアチャイムが軽やかな音を立てた。
「こんにちは、永倉美玲です」
「はい、どうぞ上がって」
腹筋に力を入れて大きな声で名乗ると二階から先生の声がした。美玲は深呼吸をして長靴を脱ぎ、階段を登った。
何年も通っているとはいえ、書道教室に来るときはいつも緊張する。
キシキシと音を立てながら美玲は階段を上っていく。この家の二階の洋間が教室になっていて、そこではもう他の生徒が練習をはじめていた。
「先生こんにちは」
「美玲さん、こんにちは。雨大丈夫だった?」
「はい。だいぶ止んできたみたいなので」
生徒の一人の字を朱墨で直していた先生が顔を上げた。色白でふくよかな体型をした年配の女性だ。茶髪のショートカットがとてもよく似合う。先生は首に下げた眼鏡をかけると、美玲に着席を促した。
美玲は自分の席に着くと、手提げから書道道具を取り出して並べた。雑巾の上に硯、筆置き、墨を置く。雑巾の隣には緑色のフェルト地の下敷きをしいた。そして水差しから水を硯に入れ、墨をすり始めた。
無心ですっていくと、海の部分に溜まった水はどんどん黒くなっていく。
もういいかなと墨を置き、半紙を下敷きにおいて文鎮でとめ、筆を浸した。これから線の練習だ。
縦線と横線を五本ずつ書いて先生に見せてから字を書く作業にうつるのだ。
半紙に筆を置き、線を引く。そしてまたとめる。少し線が滲んでるのは墨をつけすぎたからだろう。
線を引きながら、半紙にうつる墨の黒さに光柱の間の暗さを思い出す。
もし妖精の国に戻ったら、また四天と戦うことになるだろう。見た目も怖いが、何よりあの圧倒的な、四天の起こした風の強さを思い出して震えが起きた。
線に震えがうつらないように、筆を握る指先に力を込める。慎重にゆっくり引いていき、今は余計なことを考えないようにしないと思うのだが震えは止まらない。
なんとかゆっくり残りの四本を引いて先生に見せると朱墨でとめが甘いと直された。
「どうしたの?美玲さん。あなた、何か悩みでもあるの?」
「え?どうしてですか?」
「線に現れているのよ。あなたはいつも勢いをつけてサッと引くけど、今日は慎重だわ。何かあったの?」
眼鏡の奥の瞳は心配そうに光り、そこに小さな美玲の姿があった。
「あったといか、なんというか……」
「どうせ夏休みの宿題がおわんねーとかじゃねーの?俺もだし!」
妖精のことは言えないと、口ごもる美玲に、同じ教室に通っている一つ上の学年の男子が茶化した。坊主頭の彼は先生に注意されて舌を出した。
「しっかりとめてから、離す。ゆっくり落ち着いて書いてごらん。……そうそう、その感じ」
先生の言う通りに筆を運んでいくと、力の入れ方、抜き方がわかるようになってきた。
「じゃあ書いていこうか」
「はい」
書き終えた半紙を後ろに引いた新聞紙の上に置き、新しい半紙を下敷きにのせる。今月美玲が練習する文字は『星空』だ。
その字を見た途端、フレイズと見たら妖精の国の星空をおもいだした。美玲たちの世界とは違って街灯もない場所の星空はまるでありったけのビーズやスパンコールを広げたみたいだった。
怖い四天と戦うのは嫌だが、またあの星空をフレイズと一緒に見たいと思いながら、とめ、はね、はらいに気をつけながら筆を動かしていくのだった。