〇九、
屋根から街を見回せば、一目でわかるものがあった。
それは、夏の蝿のごとく群れをなしている〝インネン〟である。
アプファルはそれを目標に、途中で何度も何度も〝インネン〟を喰らいながら、その場所を目指していた。
街を歩き回る中で、特に意識をせずにともわかった事柄。
それは、行方不明は怪しい絵描きの仕業ではないか、という噂だ。
少し前から、薄気味の悪い絵を描いている不気味なヤツだとささやかれていた。
そして、昨夜。イーゼルの家、その付近で行方不明だった娘が死体で見つかる。
もうそれだけで、住民たちの行動は決まってしまった。
まるで、あらかめじそうなるように仕組まれたカラクリ人形のように。
あるいは、眼の見えない恐怖を、眼に見える誰かにぶつけることで逃れようとした、のかもしれない。しかし、アプファルにはどうでもいいことだ。
あの家に、おぞましく不快な絵がある。イーゼルがそれを描いている。
それは、どうして近所に広まったのだろう。
イーゼルには、そういったことを話すような友人知人はいなかったのに。
アプファルの中には、あの夜訪れた不気味な男のことがあった。
あの男と共に、群れをなしてやってきた〝インネン〟のことも。
──これには、あの幽霊男が関わっているな……。
不思議な確信を抱きながら、アプファルは〝インネン〟の群れなす、その屋敷を睨みつけ、侵入経路を必死で探す。
壁で覆われた屋敷は、いかにも警備厳重のような印象だが、その実ほとんど人の姿はなく、まして猫の身であれば入り込むこと容易であった。
──おいおい……。何だよ、これぁ。
敷地内に入りながら、アプファルは不意打ちみたいに驚かされる。
屋敷は、空中もそうだが家中いたるところに〝インネン〟が充満しており、口を開いているだけで、どんどん胃袋へと入ってきそうだった。
この状況は明らかに異常極まりないのだが、人間には認識できない。
内部では、数人のメイドが働いており、床には塵一つ落ちていなかった。
しかし、彼女らの動きはどうにも無機質で、まるで人形のようである。
何より不気味なのは、どの部屋にもほとんど日光が入らないことだ。
外部から見える場所を除いて、カーテンで覆われるか、窓そのものがなかったり。
そして、奥へと進むたびに〝インネン〟の数は増大していくようだった。
廊下から物陰、天井裏と様々に移動しながら、アプファルは奥へと進んでいく。
やがて、ある箇所で小さな話声がするの聞きつけ、足を止めた。
その声を、アプファルは忘れようがなかった。
イーゼルの元へ訪れた、あの幽霊男だ。
天井裏のアプファルは最初声だけしか聞き取れなかったが、鼻先を擦り付けているうちに、どうしたわけか小さな穴が穴が開いていた。
──……? まあいいか。
アプファルは一瞬鼻先に熱いものを感じた気がしたが、まずは部屋の様子を探る。
しかし、一番最初にアプファルを刺激したものは、視覚ではなく、嗅覚だった。
むせるような血の臭いが、どっと鼻腔へと流れ込んでくる。
──こいつは……!?
ゾッとするものを感じながら、アプファルは天井裏から眼をこらした。
薄暗い部屋には二人の人影が確認できる。一方は大きく、一方は小さい。
あの幽霊男と、銀の髪をした若い娘──少女だった。
おそらくは、彼女が噂に聞いたことのあるこの屋敷の令嬢だろう。
令嬢は何かを抱えて、うずくまるような格好をしている。
かと思うと、抱えていたものを放り出して唐突に立ち上がった。
それは、人間の死体だ。
全身真っ青になった裸体の少女が、壊れた玩具のように床に転がる。
令嬢は酒にでも酔ったかのような恍惚とした表情で、虚空を見上げていた。
「美味しかったわ……。ワトキンス」
優雅な仕草と声で幽霊男に話しかけ、令嬢はそっと口元をぬぐう。
幽霊男と負けず劣らずに白い肌をした、生気の感じれない顔。
しかし、違うのはその顔が寒気が走るほどに美しいということである。
あの瞳で見つめられれば、ほとんどの人間は魅入られ、呪縛されるだろう。
──吸血鬼。
その様子を見て、アプファルはその言葉を思い出した。
いつか、どこかで聞いたおぼえがある。
人の血をすすって常闇を生きる、死者であって死者でないモノがいると。
ただの迷信、おとぎ話だと思ってはいたが、そいつらは実在したのだ。
しかも自分たちの住む街に、当たり前のような顔で潜んでいた。
「それで、大丈夫なんでしょうね?」
投げ出した死体から離れなつつ、令嬢は温度を感じさせない声で言った。
「はい。これで大よそのことは有耶無耶に終わるでしょう。その代わり、当分この街で食事をご用意することは難しくなるかと──」
死体を肩に担ぎながら、幽霊男は淀みなく答える。
「仕方ないわね……。わたしも、騒がしいのは嫌いだもの」
小さくあくびをしながら、令嬢は微かに笑ったようだった。
「でも、残念ね。美味しそうな子を見つけたばかりなのに……」
吸血鬼たちのやり取りを観察した後、アプファルは音をたてずにその場を去った。
──こいつは……つまり…………。
アプファルは、天井裏を這うように移動しながら考える。
今までの行方不明事件は、間違いなくここの連中の仕業だ。
当然バレればまずいことになる。
だから、イーゼルを犯人に仕立て上げ、おそらくは暴徒を先導して──
そのあたりまで推測した時には、アプファルは屋敷の外へ出ていた。
──あいつら、生かしちゃおけねえ。
屋敷を振り返りながら、アプファルはひどく冷静な気持ちでそう思っていた。
怒りや憎悪がなかったわけではない。
しかし、それ以上に心が凍りついたようになり、冷たく澄んだ殺意だけがあった。
〝インネン〟が群れなす屋敷から離れながら、アプファルは街へ足を向ける。
もう一度、この一件について調べなければ。
アプファルはまた街中を歩き回り、噂話をかぎ回り続けた。
そして、わかったことは。
──全部、あの幽霊野郎の言ったとおりだってことかい……。
夕暮れで暗いオレンジに染まる街並を見ながら、アプファルは虚しい気持ちだった。
イーゼルをリンチにかけた連中は、一応役人の取調べを受けているらしい。
だが、どこまでの罪に問われるのかはわからなかった。
というよりも、土地の役人たちもこの一件をあまり大きくしたないようだ。
街全体ではなく、この付近の住民だけが暴走して引き起こした事件である。
役人側だってその責任を追求されるだろう。
そして、近所の連中だって本当にイーゼルが犯人だと思っていたのか、正直なところそれも怪しいものだった。
──つまり、あいつらは憂さ晴らしがしただけだったんだ……。
アプファルは嘆息して、落ちていく夕日を見た。
〝みんな〟にとって、真実などどうでも良いことだったのだろう。
ただ、不安や恐怖を一時でも逃れるための、言い訳が欲しかったのである。
そのお膳立てを、他ならぬ真犯人にやってもらって、凶行に及んだ。
しかし、いざ事がすんでしまうと、とたんに酔いはさめてあわてふためき──
──全部、有耶無耶だ。
イーゼルは、言ってしまえば家があるだけの浮浪児にすぎない。
死んで困る者もいなければ、怒る家族もいないのだ。
父親のせいで近所からも煙たがられている、実に都合の良い相手だった。
死体が家の近くで発見された時、家に踏み込んだ暴徒たちは、おそらく父親が残したという不気味な絵を発見したのだろう。
それが、さらなる免罪符となり、結果イーゼルは殺されてしまったのである。
アプファルが家の中を調べたところ、絵は一枚残らず破られ破壊されていた。
──たかが、絵でよ……。
あの骸骨と乙女が共にいた絵も、見つけることはできなかった。
アプファルはイーゼルの顔を思い出す。
──妙に明るくって、楽天的な野郎だったなあ……。
イーゼルの死骸は、町外れの無縁墓地でぞんざいに埋葬された。
そこには墓標すらなく、うず高く土が盛り上がっているだけだった。
やがて。
日が完全に沈んだ時、アプファルは〝インネン〟の群れる、吸血鬼の屋敷を見た。
炎が燃えている。
深夜に発生した火災は、轟々と夜景を照らし出していた。
不幸中の幸いであったのは、火災の発生した屋敷が隣家と距離があったこと。
おかげで、他へ燃え移ることはなかったものの、近隣の人間が駆けつけようとした時には、すでに炎は手のつけられない状況だった。
炎の中で崩れていく屋敷へ背を向けながら、一匹の黒猫が闇夜を歩いていく。
あの炎にあっては、吸血鬼たちも生きてはいられまい。
右前足でつかんだ〝インネン〟をかじりながら、黒猫は街から離れていった。
後ろ前で立って、まるで人間のように歩く黒猫。
その尻尾は二股に分かれ、赤黒い炎が微かに揺らめいている。
アプファルは暗い道を歩きながら、自分の中でどんどん何かが崩れ、灰燼となり散っていくような気がした。
もう、悲しさも寂しさもなく、人間に戻りたいとも、家に帰りたいとも思わない。
自分の生まれた街の名前さえ、もう忘れかけようとしていた。
ただ、もう一度だけイーゼルに会いたいような。
そんな思いを胸に、黒猫は街に尻尾を向けて去っていった。