〇八、
アプファルは、屋根の上で空を見ていた。
曇った夜空は墨で塗りつぶしたように黒一色のみで、星も月も見えない。
まるで、地の底に落ちたかのようだった。
──結局、なるようになったっていうことかよ。
我が身を振り返りながら、アプファルは自嘲気味に笑った。
アプファルという人間はどういう人間だったのか。
善人か悪人かといえば、悪人だ。
必要か、少なくともいなくて困る人間であるか? 困らない人間だ。
人を殺したとか、大金を騙し取って破産させたという大悪はしていない。
だが、それだけのことなのだ。
できの悪い、家族の足を引っ張るだけのつまらない少年は消えた。
代わって、運命や周囲に踏みにじられ、殺されてた哀しい少女が新しい家族と故郷を得て、新たな人生を送っている。
その家にとってかけがえのない娘であり、姉である。
彼女にとって、かけがえのない両親と、妹である。
本当の意味でおさまるべきところへ、おさまるべきものおさまった。
もはや、そこに薄汚い黒猫の介入する余地などありはしない。
──これでよろいしんじゃないでしょうか?
アプファルは、別にあの少女を恨む気にはならなかった。
かといって、良かったねと祝福する気もなれはしない。
何だか、全てがどうでもよく思えてきて、感情が麻痺していくようだった。
そんな状態であったから、街の様子がおかしくなっていることに気づくこともなく、無為な時間をすごしていたのである。
いや、気づきながらあえて無視を決め込んでいた。
──人間様のことなんか、猫のオレには関係ねえや……。
殺気だった無数の声が響き合う中で、アプファルはようやく屋根の下へ眼を向ける。
松明やランプが掲げられ、その間に棒切れや鍬、手斧などが混じっていた。
──何の騒ぎだよ、これは……。
どこかに襲撃でもかけようという状態である。
街の雰囲気がおかしいのは察知していたが、まさかこんなことになるとは。
──魔女狩りでも始めようっていうのか……?
ようく見れば、集まっている連中の数はそう多くないようだ。
街全体というよりは、この周辺のみの騒ぎなのだろうか。
そうだとして、やはりこれはまともな事態ではない。
興奮状態のためか、みんな何を言っているのかわからないが、どうやらここ最近の行方不明事件と関係しているらしい。
──その犯人が見つかって、ことか? いや、それにしても……。
集団はやがて、ある方向へと練り歩いていく。
本人たちは怪物か悪人退治でもするつもりか知らないが、その様はまるでバケモノか死霊の群れだ。どいつもこいつも、まともな人間の目つきではない。
──うるせえ……! 関わりたくもねえ。
アプファルは唾を吐くような気持ちで、そこから離れていく。
やかましいもの、特に人の声は聞きたくなかった。
誰もいない、何も聞こえないところへ行きかった。
そして──
喧騒から離れるうちに、いつしか路地裏の片隅にたどりついていた。
誰が捨てていったものか、小さな木箱が放り出されている。
アプファルはするりとその中へ潜り込むと、小さく体を丸めた。
ある程度外気と遮断されるため、中は案外暖かい。
狭い暗闇の中で、アプファルはようやく安堵に似たものを感じることができた。
だが、すぐに何かを忘れている気がして、落ちつかなくなってくる。
──あ、さっきの奴らが向かってた方向は……!
思い出した途端、アプファルは木箱から飛び出していた。
暴徒が進んでいった先にあるもの。それは、イーゼルの家ではなかったのか。
しかし、今の自分が行ったところで何ができる? と、アプファルは迷った。
猫一匹が行ったところで、暴徒を止められるわけがない。人間であったとしてアプファルは知恵も力もない、ただの少年に過ぎない。
──それに、イーゼルが目的だって決まったわけじゃない。
そう自分に言い聞かせながらも、アプファルはいつの間にか走り出していた。
走りながら、何度も何度もイーゼルについて思い出す。
ほんの少しばかり関わっただけの相手で、向こうには人間で、こっちは猫。
しかし、ひとつだけ確かなことがある。
──あいつが、良いヤツだってことだよな……。
苦境にあってもイーゼルの表情は明るく、まっすぐな眼をしていて。
だからこそ、
──神様の救われるには、十分すぎるんじゃないのか?
己の境遇、リリエのことを思い返して、アプファルは祈り、願った。
松明の炎が、天を焦がさんばかりに燃え上がっている。
猫の眼に映るその光景は、冥界で罪人を焼く地獄の炎を思わせた。
炎が照らす中、赤黒い塊が地面に投げ出されている。
集まった群集が、支離滅裂な単語ばかりが取り交わしている中、それはピクリとも動かずにそこにあった。
やがて、近寄っただけで息ができなるような不快な熱気が冷めていき、群集は逃げるように去っていく。ただ、赤黒い塊だけをその場に残して。
人がいなくなった後、アプファルはその塊に近づいていった。
血と、肉の臭いだけがそこにある。
急に視界が明るくなり、いつしか空には小さく星が輝きだしていた。
星の光が、おそらくはほんの少し前まで人間であったろう肉の塊を淡く照らす。
「イーゼル……」
アプファルは、猫の鳴き声でつぶやいた。
どう殴られれば、こうなるのか──かつてイーゼルだったその塊は、かつての面影はおろか人間の形すら失っている。
絵描きの少年は、暴徒に殴り殺されてのである。
星の下、アプファルは身じろぎもせず、ただその場で待っていた。
東の空が白々と明けていくまで、ひたすら待つ続けていたが【救済】はこなかった。
日の光で、無残な姿がさらされていく少年の骸へ、アプファルは小さく鳴きかける。
そして、人の気配を感じ始めた時、アプファルは静かにそこを去った。
──オレぁ、どうも……とんでもない勘違いをしてたみてえだ……。
リリエのことから、例え不条理な不幸や災厄にあったとしても、善なる者は救われる。
そして、自分のような害悪は畜生へと堕とされる。
この世は、そういったものなのだと思っていた。が、そうではなかったらしい。
どれだけ待っても、結局あのフードはイーゼルの魂を救いには来なかった。
──おい、何故だ?
問いかけには意味はなく、答えなどあるわけもない。
いつしかそう悟ったアプファルは、自分のやるべきこと……いや、やりたいこと、やらずにおれないことをやることに決めた。
歩く中、ふよふよと〝インネン〟が浮遊しているのを、アプファルはすばやく捕獲すると、前足でつかみ口中へと放り込んだ。
汚物の味に構うことなく飲み込みながら、双眸に暗い炎を宿した黒猫は街を行く。
自分の尻尾から赤黒い炎がゆらゆらと燃え上っていることに、気づきもせずに。