〇七、
路地裏を歩きながら、アプファルは不意に立ちくらみのようなものを感じた。
一瞬目の前が真っ暗になり、前後左右どころか上下すらも曖昧になるような。
──何だ!?
アプファルは慌てふためくが、どれだけ焦ったところで肉体は言うことをきかなかった。
そうかと思った時には、地面に転がって動けなくなっている。
動かそうにも、体を動かす力自体がない。そんな感じだった。
いくら火を燃やそうとがんばっても、薪や油がなければどうにもならないように。
──何が足りない……?
そうこうしているうちに、肉体から風船から空気が抜けるように力が失われていく。
確かに猫の身となって食べたものは、水を除けばイーゼルからもらった食べ物だけ。
栄養豊富とはまず言えない。
だが、何故こうも唐突にこんなことなっているのか。
そして、アプファルの脳裏に浮かんだものは、次の言葉だった。
『インネン〟を貪り喰って惨めに這いつくばって生きやがれ!』
自分と同類だと語った不気味なカラスのもの。
あの言葉を信じるなら、アレもアプファルと同じく元は人間ということになる。
そして、アレが食っていたものは〝インネン〟という不気味な浮遊物。
人には見えず、何をするでもなく宙に漂っているだけのものだが、ゾッとするほど不気味でおぞましい姿をしている。
生き物のように見えなくもないが、とてもそうは思えない。
──ま、さか……?
ひょっとして、今の自分は〝インネン〟とやらを食わなければ生きられない?
そんな推測が、アプファルの中で嫌になるほど明確なものとして浮かび上がった。
「冗談じゃねえ」
「冗談、ではない」
思わず猫の鳴き声でうめくアプファルに、応える者があった。
ギョッとして顔を上げると、目の前には灰色の空間が広がっている。
いや、そうではなく──ソレが立っている周辺から、色彩というものが抜け落ちて、まるで別の空間のようになっているのだ。
灰色のローブみたいな服を着て、フードのために顔は見えない。ただ、声から察するところどうやら女であるらしい。
奇妙な衣装だった。
一見ローブのようだが、それは獣皮から成っているのだ。しかも普通の毛皮ではない。
ネズミや狼、鹿、熊と無数の獣のものが寄り集まって成っているのだ。
──こいつは……。
アプファルはその幽霊とも死神ともつかない相手に、奇妙なものを感じる。
それは、ある種の既視感とでもいうのか。
眼を見開いて、見上げてみるがソレの顔は見えなかった。
フードの中にあるはずの顔は、真っ暗な闇に包まれており、まるで闇こそがこの怪人の顔だと主張せんばかりだ。
その不気味としか言いようのない姿にも、アプファルは記憶を刺激される。
「お前は畜生道に堕ちた。だから、その報いを受ける」
怪人は低い声で、罪人を裁く裁判官のように言った。
そして、その手に一体の〝インネン〟をつまみ上げ、アプファルへ突きつける。
「これは人の淀んだ魂が生み出す穢れ。お前はこれを食わねばならない」
──ふざけるな……。
怪人に対して、アプファルは心で毒づきながら眼だけで笑った。
頭が朦朧としているせいか、恐怖心もあまり感じない。
「拒絶する権利などない。食わねば、お前は地獄を見るだけ」
その言葉が終わるか終わらないうちに、アプファルを激痛が襲った。
いや、それが痛みであることすら、アプファルには認識できない。
突然体の内部……心臓や、胃腸、肺、あらゆる部分が爆発したような感覚。
あるいは、突然ドロドロに溶かした鉛を注がれたような。
アプファルは絶叫を上げてのたうち回っているつもりだったが、実際にはかすれた呼吸音がかろうじて漏れていくだけだった。
──死ぬ。
アプファルはそう思ったのだが、死ぬほどの激痛はどこまで続く。
そして、苦痛を終わらせてくれるはずの死はいつまで経っても訪れない。
もはや目も見えず、何も聞こえず、明瞭な感覚は痛みだけである。
──助けてくれ……!!
この時、アプファルの口に何かが押し込まれた。
無我夢中でそれを嚙み、飲み込んだ瞬間、アプファルは我に返る。
ゆっくりと悪夢から目覚めていくような気分の中、さっきとはまた違う悪夢がアプファルに襲いかかるのだった。
ひどい味と臭い。不潔な泥や糞尿でも、こんな風にはなるまい。
ありとあらゆる穢れを煮詰めたような、味覚とも言えないものが舌を伝わり、喉からさらに奥へとなだれ落ちていく。
こんなものを味わうくらいなら死んだほうがマシだと、誰もが思うだろう。
──地獄だ……。
アプファルは口からこぼれ落ちた、食らったものの残骸を見た。
〝インネン〟である。
──つまり、こういうことかよ……。
今のアプファルは、この〝インネン〟を喰わねばならない。そうしなければ、地獄のような苦痛に苛まれることとなる。
──何で、こんな目に……。
「お前が、畜生道に堕ちたから」
アプファルを見おろす闇の顔は冷然と言った。
「わかんねーよ。何でだ……何で猫になって、こんな目にあうんだよ……。それに、あの変な女の子は何なんだよ……? どうして俺の代わりに家に……」
フードの怪人は、無言だった。
それに代わるように、モノクロがドンドン周囲を侵食していく。
「あ……」
アプファルがつぶやいた時には、そこは見知らぬ風景だった。
色のないモノクロに支配され、物音一つ聞こえない世界。
見た感じは、どこか田舎の農村のようである。
音も色もない景色の中、一人の少女が歩いていた。
それは、あのリリエという少女だ。
リリエはボロボロの服を着て、埃まみれの姿でひたすらに働いている。
彼女は、その村で奴隷のような生活を強いられていた。
声は聞こえないため事情はよくわからないが、どうやら親兄弟はいないらしい。
貧しい村の中でも、彼女はより貧しくそして弱い立場にあるようだ。
皮肉なことに、それでいながら彼女は輝くような美貌を持って生まれてきた。
それは男たちの欲望を、女たちの嫉妬を刺激する。
結果どういうことになるのか、それはいちいち説明するまでもない。
やがて、外部から戦乱の炎が村へと押し寄せてくる。
無常な炎と刃の中で、リリエの命はあっさりと消えていった。
いや、消えるという小ぎれいなものではない。
押し潰され、焼け死んでいったのである。
最後に──
命を失った彼女の肉体に、フードの怪人はゆっくりと歩み寄っていく。
そして、彼女の魂に手を伸ばして、優しく抱き上げたのだった。