〇五、
アプファルは、その家を見ながら何とも言えない気持ちで嘆息する。
外観も内部も、古くて粗末な平屋だった。
絵の具油の臭いが、外にいてもぷんぷんと漂ってくる。
鋭い嗅覚の猫の身にはいささかきついもがあったが、それでも他よりはマシだった。
橋の下は他の動物……特に野良犬がうるさいし、行方不明事件のせいか街の雰囲気はどこかピリピリとして油断できない。
何もしてないのに、いきなり水や石が飛んでくることもある。
アプファルが、縁起の悪い黒猫であったせいかもしれない。
「あれ? お前……」
気配と共に絵の具の臭いが強くなり、声がかかった。
アプファルは逃げることなく、声の主をゆっくりと振り向く。
イーゼルというソバカスの少年が、不思議そうな顔をして立っている。
──また、パンでもくれたらりしないか?
若干の期待をしながら、アプファルはイーゼルを見上げた。
「うちに客が来るなんて、珍しいよなあ」
イーゼルは小さく笑いながら、アプファルを抱き上げる。
少年の顔は近くで見ると、痩せ気味でいかにも栄養状態が悪そうだった。
──餌は期待できない、こりゃ……。
そう思いながらも、アプファルは逃げることはしなかった。
食事は無理だとしても、少なくともここならゆっくり休むことはできる。
身を休めれば、例えわずかだとしても再び餌を探す気力や力が回復することだろう。
「まあ、汚いところだけどゆっくりしていけよ」
イーゼルはアプファルを抱いて家に入る。
ドアを閉めた後、イーゼルはアプファルを床におろして部屋の奥へと。
その間、アプファルは寒さに身震いしながら、狭い部屋を見回していた。
寒いはずで、二つある部屋の窓のうち、ひとつはひび割れて穴が開いている。
応急処置なのか、厚紙でふさいでいるようだが、あまり役に立っていない。
──改めて見ても、ひでえとこだな。
こんな場所に一人で住んでいるイーゼルは、一体何なのだろうか。
家の置いてあるものからして、どうも絵描きのようだが。
狭いようでも、広い街のことである。
ここで生まれ育ったアプファルだが、街の住民のことを熟知しているわけではない。
子供にとっては、一つ区域が違えばそこはほぼ外国みたいなものだからだ。
だが、この少年が何者にしろ、一応安心できる相手らしい唯一の人間である。
──まあ、お手柔らかに頼むぜ?
奥に入ったイーゼルの背中を見ながら、アプファルはそんなことを思う。
いきなり、窓ガラスが割れたのはその時だった。
破壊音にアプファルは無意識にそこから飛びのき、物陰のほうへと走りこむ。
砕けたガラスの間に、窓を破ったであろう石が転がっていた。
「……誰だ!」
途端、血相を変えたイーゼルが戻ってくる。
「ちくしょう! またやったな……!」
おとなしそうな顔を怒りで歪めながら、イーゼルは窓の外に顔を出す。
──おい、何か知らないがそりゃやめたほうがいいぞ?
物陰からアプファルは密かに思うのだが、
ガン! と、嫌なが音がして、イーゼルはのぞけるように倒れた。
案の定、顔を出したところを狙い撃ちされたらしい。
イーゼルの額から、一筋の血が流れ落ちていく。
「いってえ……。いきなり、やりやがって──」
感情のない、何かを吐き捨てるような声でイーゼルはつぶやいた。
どうやら、窓の破損はこうした投石のせいらしい。
──こいつ、たちの悪い連中にでも目を付けられてるのか?
物陰からゆっくりと顔を出しながら、イーゼルを見る。
借金取りがやってきそうな家だと思っていたが、まさか石が飛んでくるとはさすがに予想を超えた展開だった。
「よう。驚いたか……? へへ、どうもかっこ悪いとこ見せちゃったな」
イーゼルは床に倒れたまま、アプファルを見て照れくさそうに笑う。
こんな状況にあるのに、その顔は驚くくらいに明るかった。
「何か知らないけどよ? この頃どうもおいらを目の仇にする奴らがいてさ。恨まれる記憶も妬まれることもないはずなんだけどな。金だってないしな」
──まあな。
アプファルは心の中で相槌を打ちながら、イーゼルを見る。
確かに、あまり嫉妬を向けられる人間には見えない。
その言動から察するに、多分恨みを受けるタイプでもないだろう。
「ってて……。けど、こんなのはどうってことねえさ」
イーゼルは額の血をぬぐいながら、しっかりとした足取りで立ち上がる。
表情にも陰りがなく、猫に対するものながら言葉も明瞭で聞き取りやすい。
アプファルは、いつしか感嘆の念を抱きながらイーゼルを見上げいた。
──タフな野郎だ……。
あまり、他者に惹かれたり、好感を持ったのことのないアプファルだが、
──これが自分なら、やった相手に対する恨みつらみで密かに呪いの言葉でも吐いてるかもしれないな。小憎らしいヤツだ……。
もしかすれば、それが敵対者からすればより不快に映るのかもしれなかったが。
「変な邪魔が入っちまったけど、もう少し待ってな?」
立ち上がったイーゼルは軽くアプファルを撫でてから、また奥へと。
──それにしても、一体何だってこいつに……?
アプファルは窓の外に注意しながら、考えるともなく考えていた。
テーブルの上に飛び乗って直接外を見てみるが、怪しい者は見えない。
と、降りようとした時、アプファルは部屋の隅に妙なものを見た。
絵だ。
それは、絵描きの家なのだから絵があるのは当たり前なのだが。
──何だい、こりゃ……?
部屋の片隅に置かれた一枚の絵に、アプファルは近づいていった。
どうやらまだ描きかけであるらしいが、暗いタッチの、不気味な絵だ。
中央に見えるのは、ダンスでも踊るような格好をした美しい乙女。
それは良いが、乙女の横に立ってその唇を奪おうとしている者がいる。
精悍な騎士でもないければ、見目麗しい王子でもない。
灰色の骸骨が、乙女の腰に手を回してその不気味な顔を近づけているのだ。
──気色の悪い絵だな……?
「おーい? お前、猫なのに絵がすきなのか?」
戻ってきたイーゼルが面白そうにアプファルに話しかけてきた。
──別に好きってわけじゃないけどな。
「これはさ、うちの親父が残していった絵なんだ。題名は何て言ったかな? 何でもいいか。親父はこういうのを描くのが得意で、都会のほうにはけっこうお得意さんがいるんだと」
物好きな人もいるもんだよ、とイーゼルはアプファルの隣で苦笑する。
「けど? 都会で稼ぐとか言って出て行って、ずっと音沙汰なし。一度だって金を送ってきたこともないんだぜ? あきれちまうだろ」
イーゼルは絵を拾い上げながら、小さく笑った。
「でも、こんなもんでも一応親父の財産みたいなもんでさ。金になるかもしれないんだ」
そう言って笑うイーゼルを、アプファルはニャーとも鳴かず、黙って見上げていた。
窓の外には、ゆっくりと〝インネン〟が数匹漂っている。