〇三、
アプファルは屋根を移動しながら東へと進んでいた。
ここは自分のよく知る街である。
それがわかると、異界の迷路みたいに感じられた街もスリリングな遊び場となった。
身軽な猫の体は屋根の上を楽々と移動して、目的地を目指す。
サイズが小さくなっただけに、大変かもしれない──という予想を裏切り、移動は恐ろしく順調だった。そのうち何かあるんじゃないかと不安になるほどに。
それでも、決して気分が良いばかりではすまなかった。
なまじ空に近い屋根の上は、あの不気味な浮遊物がわんさかといる。
こんなものがこんなにいるのに、町の住民は騒がない。
ということは、おそらく人間にはこの不気味なものは見えていないのだ。
自分が人間であった時も、こんなものは見たことがない。
──つまり、人間には見えない……。そういうことらしいな。
気持ちが悪いが特に害もないので、アプファルはそれらを無視して進み続ける。
そうこうするうち、目的の場所が見えてきた。
アプファルはいったん足を止めると、ジッとその場所を凝視する。
何も変わっていない。
アプファルが住んでいたその家は、何も変わらずにそこに建っていた。
屋根の上で、アプファルはふと自分のことを思い返す。
アプファルはこの街で両親や妹と暮らしいた、十四歳の少年だった。
家はそう貧しくもないが、金があるわけでもない。中の下くらいの家である。
そこで一家は仲良く暮らしていた、となれば美談になるが、必ずしもそうではない。
客観的に見て、アプファルは出来の良い息子ではなく、また良い兄でもなかった。
悪童というにはやることはせせこましく、家を飛び出し悪所に入るでもない。
ただ、いてもいなくても良いというよりはいないほうが良いではあった。
きれいごと抜きで言えば、アプファルが消えたところで別に家族は困らない。
両親としても、妹がいるのならそれで十分すぎるほどである。
妹のアプリコーゼは、両親の長所のみを受け継いだような少女だ。
器量も良いが、それ以上に気立てが良い。
その心根の優しさは、どんな人間とは言わないが十人集まればまず八人は彼女を好きになることだろう。
が、アプファルはそんな妹と幼い頃から折り合いが悪かった。
理由はいくらでも挙げられようが、要するに相性が良くなかったのである。
アプファルは別に極端に無能でもないし、悪辣であったわけではない。
ただ、特に美点も長所もなかったというだけだ。
アプファルとアプリコーゼ、二人並べた場合どちらに味方したいかといえば。
そんなものは、いちいち考えるまでもない。
一緒にいて、そばにいて気分の良い相手と、そうでない相手。
どうせなら前者を選び、肩入れをしたくなるのが自然な感情というものだ。
アプファルにあえて味方するのは、何かしらの腹積もりがあるか、そうでなければ、よほどひねくれた感性の持ち主であろう。
と、家から人影が出てくるのをアプファルの眼は正確に捉える。
栗色の髪を揺らしながら歩いていくのは、籠に弁当を入れたアプリコーゼだった。
──ふんっ。オレが消えても、フツーにしてやがる。
鼻でせせら笑いながら、アプファルは屋根伝いに家へと近づいた。
──でも、帰ってどうするんだ……?
進みながら、アプファルは胸中で自問自答してみる。
今の自分は猫だ。何か言おうとしたところでニャーニャー鳴くだけの猫。
また、何か話せたとしてもどうだというのか。人語を話す猫など化け物である。
──くそっ。わからない、どうすりゃいいんだよ……!
どうすればいのか。どうしようもない。結局結論はそこにいきつく。
アプファルは己以外の全てが憎らしく感じ始めていた。
「お姉ちゃん!」
済んだアプリコーゼの声に、アプファルは煩悶と歩みを止める。
家の真向かいに位置する屋根の上から、アプリコーゼへ近づく人物が見えた。
見たことのない少女である。
癖のないきれいな黒髪と、理知的な澄んだ青い瞳。すらりとした体躯。
こんな美しい少女は、アプファルの知り合いにはいない。記憶にもない。
だが、彼女はまるで十年来の親友のようにアプリコーゼと親しげに話す。
──妙だぞ……?
もしもアプリコーゼの友人であれば、顔くらいは知っているはずだった。
そもそも、この少女は先ほどアプファルの家から出てきたようなのだ。
何かがおかしい。
アプファルは言い知れぬ不安を感じながら、逃げるようにして身を隠した。
──何だか、おかしな感じだ……。あいつは一体誰だ。何で家にいた?
人目につきにくい物陰に移動しながら、アプファルは考える。
そのうちに、あの黒髪の少女について見極めばねばならない……という、ある種の使命感がアプファルの中に生じていった。
黒髪の少女の名前は、リリエと言うらしい。
そして家や近所をうろつきまわり、人の噂などからわかったことは──
彼女はあの家の長女であり、妹と共に評判の美少女姉妹であるらしい。
確かに、そうなってもおかしくはない容姿である。
──まあ、そうだろうなあ。
アプリコーゼもきれいだと評判だったが、それとは違う魅力のある少女だ。
顔だけはなく、アプリコーゼに勝るとも劣らない気立ての良い娘だとか。
ただ遠目から観察しているだけのアプファルには、そのへんは今ひとつわからないが。
単に優しいとか、親切というのではなく、どこか人の痛みを熟知しているような……そんな不思議なところがある、と人々は語っている。
──確かに、不思議とはいえば不思議だけどな……。
黒い髪の毛と、青い瞳。あまり見たことのない組み合わせである。
アプリコーゼはもちろん、両親二人。またアプファルとも似ていない。
それなのに、ごく自然に家族として暮らしているようなのだ。
何よりも。
周辺をあちこち探ってみたが、どこにもアプファルという人間がいた形跡はなかった。
そして、かつて自分がいたであろう場所には、見たことのない別人がいる。
──くそ、くそ……。わけがわからない! 何のイタズラだよ!
アプファルはつい、思い切って家の中へと侵入を試みた。
全てが巨大に映っても、やはりずっと暮らしてきた家である。
家財道具の配置も、壁の傷や天井の染みも何も変わっていない。
だが、どこにもアプファルのいた形跡はなかった。
──そんな馬鹿な……! あるはずだ、どこかに何かが……あるはずなんだ!
焦燥に駆られたアプファルは次第に、狂ったように家を走り回り出す。
足音を忍ばせる、という猫の本能的行為さえ忘れてしまった。
「あ……この野良猫!」
不快そうな、しかし聞き覚えのある声がして、アプファルは振り返る。
そこには布団叩きを手にした母親の姿があった。
何も変わっていない。最後に見たときのままの姿である。
思わず動きを止めてしまったアプファルへ、母親は大声をあげながら布団叩きを振り上げ、容赦のない一撃を浴びせた。
──ち、ちくしょう……!!
アプファルは悲鳴もあげず、猫の身でありながら脱兎のごとく家の外へと逃げ出した。