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〇二、



 とにかく、人間とは何事にも慣れる生き物である。

 脇道を進みながら、アプファルはそんなことを実感した。


 ──いや……今は人間じゃないけど。


 街を徘徊しながら、アプファルは嘆息を漏らすが誰も気にとめる者はない。

 アプファルは今、一匹の黒猫にすぎないからだ。

 それにして、自分に起こった【変身】もそうだが、


 ──こいつらだ……。


 アプファルは街のあちこちに浮遊する、その不気味なものを睨んだ。

 形状のハッキリしない、暗く汚い色をしたグチャグチャとした腐肉のようなもの。

 遠目にはどれも同じようだが、近くで見ればどれひとつ同じ姿のものはない。

 あるものは芋虫とネズミと鳥。あるものは複数の昆虫類を溶かしあったような。

 ともかく、色んな生き物が無作為に溶け合わさったような形なのだ。

 アプファルのそばを通り過ぎたものは、ハエだかアブに人間のような頭部である。

 禿げ上がった頭にまばらに毛がはえ、赤黒い粘液を吐き続けていた。

 とにもかくにも醜悪の極みであり、ジッと見ていると気が狂いそうな光景。


 ──いや、オレはもうどうにかなってるのかもしれない……。


 今見えているのは、全て狂人の見ている幻影ではないのか。

 アプファルは猫の頭を振り、そんなこと思う。

 そう考えるほうが、まだ救われる気がした。

 だが、思考の途中で体がフラつくのを自覚してしまう。


 ──くそ……! 腹がへった……。


 川で水を飲んだきり、何も口にしてはいない。

 どこか餌になりそうなものないか、と探してはいるのだが、


 ──街中だったら、すぐに見つかると思ったのに……。


 これが見つかりそうでぜんぜん見つからないのだ。

 人家はいくらでもあるし、食料品店もある。

 だが、汚い野良猫にわざわざ餌をやる奇特な者には出くわさなかった。

 まして店となれば、野良猫は敵対者でしかない。

 ちょっと近づいただけで、


「しっし!」


「あっち行きやがれ!」


 と、邪険に追い払われるのはいいほうで、いきなり石や水が飛んでくることも。


 ──野良猫の暮らしも、しんどいもんだ……。ちくしょうめ。


 アプファルは呪わしい気持ちを抱きながら、空腹のまま街をさまよい続ける。

 歩きながら、着実に自分の思考が暗い泥の中に沈んでいくのがわかった。

 精神と肉体両方の疲労は、まずアプファルに思考することをやめさせる。

 次には、肉体の自由を奪い取ろうとしていた。

 そして最終的には、速やかに着実に命さえ奪っていくことだろう。

 目もよく見えず、鼻も耳も機能しづらくなっていく。

 最悪のコンディションの中、アプファルは何かにぶつかった。

 嗅覚に(かび)のようなプーンと迫ってくる。

 そして、首筋をつかまれて持ち上げられてしまう。

 本能的に身をよじって逃げようとするのだが、弱った体では難しい。

 自分を捕まえている人間の顔。それすらも判然としなかった。


 ──死ぬのか。嫌だ、死ぬのは嫌だ……。


 アプファルは輪郭の曖昧な顔を睨みながら、朦朧とした頭を思う。

 それは悲痛な叫び、というのではなくって。

 ただ何となく死にたくはない。できる限り苦痛は受けたくない。苦しみたくない。

 余計な思考の混じらない、原始的な本能の声だった。




 強い臭いがする部屋だった。

 何か強烈な臭気を発するものがある、というよりは。

 長い年月に渡って臭気が染み付いている、そんな感じだった。

 黴臭く古いボロ屋の中、やっぱり黴臭いボロ切れの中にアプファルはいる。

 それでも橋の下や路地裏に比べれば、はるかに快適な状況だ。


 ──こりゃあ一体、どうなってる……?


 困惑しながらもとりあえず体を休めているアプファルだったが、不意に食欲をそそる匂いを嗅ぎ取って、すばやく身を起こす。


 それは、パンの匂いだった。目の前に小さなパンの欠片が置かれている。


 ──何だか知らないが、ありがてえ……!


 一気に喰らいつこう、そうしたいアプファルだったけど、気持ちに反してその体が用心深くパンを嗅ぎまわり、なかなか食べることができない。

 猫の体ゆえのものなのか、それとも短い時間ながらこれまでの経験ゆえか。

 パンが無害そうだとわかると、アプファルはようやくそれにかじりついた。

 両手ならぬ両前足でパンを押さえ込み、ガリガリとかじっていく。

 パサパサに乾燥したパンは、そうした食べ方のほうが適していたのだ。

 小さく、というよりも粉状に近くなったパンが、舌を伝わり少しずつ胃袋に入る。

 美味いという感覚はなく、何かぽっかり開いた穴がふさがっていくような気持ちだった。


「ゆっくり食えよ?」


 アプファルに、優しい声音が上が降ってくる。

 大人のものではない、少年の声だった。


 ──誰だ?


 パンをかじりながら、アプファルは自分を見おろす何者かを見た。

 ボサボサとした栗色の髪に、ソバカスだらけの顔は前歯が数本欠けている。

 十一、二歳くらいの小汚い格好をした少年だった。

 この家にふさわしい住人と言えるのだろうか。


 ──よくはわからないけど……。


 要するに、この少年は町でふらついていたアプファルをここを連れてきたらしい。

 そして今現在、こうやってパンを提供してくれている。


「ゆっくり食えよ?」


 そう言い置いて、少年は立ち上がった。

 アプファルはパンをかじりながら、今いる場所を観察し直す。

 ベッドと本棚のようなものが一つずつ。半分壊れたような机。そのほか生活用品。

 部屋のあちこちには四角い平面……画家の使うキャンバスらしきものが複数。


 ──絵描きの家か……?


 そう考えると、この臭いも納得がいく。油絵の具の臭いなのだろう。


「おいらは、イーゼルっていうんだ。よろしくな」


 と、少年はスケッチブックらしきものを手にしながら笑う。

 その時にはアプファルはパンを全て食い尽くしていた。

 少年は椅子に腰かけて、窓を見ながら筆を走らせている。

 アプファルは興味を引かれて、ひょいと机へと飛び乗ってみた。

 そこからは、窓の外がよく見える。

 少年が描いているのもの、街の風景のようであった。


 ──あれ……? おい、こいつは……。


 アプファルは猫の瞳を現界まで見開いて、街を見つめた。

 その風景に、アプファルが見覚えがあったからだ。

 窓から見えるのは、アプファルが昨日まで普通の人間として過ごし、暮らしてきた街。

 ここは、見知らぬ場所などではなかったのである。 


 ──猫だったから、か……。


 人間と視界の高さもまるで違う猫の視点からは、全く別の世界みたいに思えたのだ。




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