〇一、
暗い闇。
でも、何も見えないわけではない。
むしろゾッとするほどにハッキリと、周囲の風景はよく見えた。
闇というよりは、白黒の世界というべきかもしれない。
草一本はえていない、踏み固められたような土の感触。
アプファルは、巨大な【道】の真ん中に放り出されていた。
いや、実のところ本当に真ん中かどうかはわからない。
その【道】はどこまでも広く、巨大であった。
暗い空には太陽はおろか、星も月も見えない。
光源らしきものが何ひとつないのに、その【道】だけはよく見える。
半ば朦朧とした意識の中、アプファルは歩き出していた。
ほとんど無意識の行動。
周りに人の気配はない。いや、何か影のようなものが揺れ動いている。
その姿は明瞭ではなく、まるで陽炎のようだった。
あるものは犬のようであり、違うものはネズミ。またあるものはニワトリのような。
そして、アプファルは……──
倦怠感と空腹感。
その二つを同時に感じながら、アプファルは目を覚ました。
ジメジメとした湿気に満ちた、暗く不潔な場所。
──どこだ……? なんで……?
ここがどこで、自分はどうしてここにいるのか。
鈍磨した思考の中、アプファルはそれでも体を起こしていた。
何か違和感があるものの、動くことに支障はない。
しかし、この奇妙は違和感は何なのだろう。
胸に嫌なものが溜まっているような気分だったが、アプファルは首を振り、明るい場所へと歩き出していった。
その過程で、自分がさっきいた場所が汚い路地裏だと気づく。
──何なんだよ、これ……。
次に気づいたことは、目にする風景。
どこにもであるような街の景色であったが、そのサイズが桁外れに大きいこと。
建物も、人も、時々通る馬車も、全てが巨大なのだった。
アプファルは身をすくめて、出てきたばかりの路地裏へ逃げ戻ってしまう。
巨人の町。そんな言葉が頭に浮かんでいた。
馬鹿でかい声と音が飛び交い、気が狂いそうになる。
──夢か、オレ……悪い夢を見てるのかよ?
おとぎ話でもあるまいし、何故こんなふざけた状況に陥っているのか。
理不尽だ。滅茶苦茶すぎる。
せめてどうしてこうなっているのか、と必死で記憶をたぐっても、それらしき解答はどこを探しても見つからない。
──ちくしょう……。それとも、オレは頭がどうかなったのか!?
苦悶するアプファルだったが、不幸はそれだけではなかった。
──うん……?
煩悶で体をよじるうちに、アプファルはあることに気づく。
自分自身の肉体についてだ。
まず服を着ていない。だが、無様な裸体がさらされているわけでもない。
アプファルの全身には、獣のよう毛で覆い尽くされていたからだ。
──……嘘だろ、冗談だろ?
あわてて己の肉体を視線を落としていくが、絶望は増すばかりだった。
ただ毛がはえているだけではない。
筋肉も、骨格も、アプファルの肉体は獣そのものへ変わっていたのである。
気がついた時には、アプファルは路地裏を飛び出していた。
人の足元を潜り抜けながら、四つ足で風のように疾走する。
そして、道端にできた小さな水たまりの前で急停止。
茶色い泥水の鏡へ我が身を移して、アプファルはまたさらに絶望した。
そこに映し出されていたのは、人間の少年ではなく一匹の黒猫だったから。
──ふざけるな。
そう叫ぼうとしたけれど、口から出るのは可愛げのないうなり声だけ。
──やっぱり、こりゃ夢だ。夢だよな。夢だ、夢でござる……。
「しっ!」
茫然自失となったアプファルの耳へ、不機嫌そうな声が飛んでくる。
アプファルは反射的に身を強張らせるが、そこに冷たい水が浴びせられた。
運悪く、というべきか……そこはちょうど肉屋のすぐ前だったのである。
店の前で鳴く汚い黒猫に、店のおかみさんは水をかけたのだ。
──な、何しやがる!!
心の中で叫びながらも、アプファルは一目散にそこから逃げ出していく。
もう目の前に何があるのかも、わからなくなっていた。
気がつけば、また薄暗く湿った場所にいた。
近くで聞こえる水の音で、アプファルは我に帰る。
どこをどうやって逃げたものか、橋の下でうずくまっていたらしい。
──まだ、さめない……。
不快な気分を抑えながら、アプファルは何度も首を振る。
人間がいきなり猫になる?
ましてこんなふざけた異常事態が自分の身の上に?
ありえない。断じてありえない。あってはたまるものか。
人間であれば頭をかきむしっているところだが、猫の体ではそれもできない。
目を閉じてみるが、あちこちで雑音がうるさくって落ちつかなかった。
いや、そればかりが原因ではない。
──ち、ちくしょう。はらが、へった……。
じわじわと沸き上がってくるのは、悪魔みたいな強い飢えと渇き。
わけのわからない状態となり、わけのわからない場所で、すきっ腹を抱える。
これほど惨めな気持ちは、はじめてだったが涙は出ない。
──とにかく、水だけでも飲まにゃあ……。
幸いだと言うべきか、すぐそばに川がある。
アプファルは焦る気持ちに耐えながら、川へと歩き出した。
川原には様々な植物、生き物、泥の匂いが混在し合っている。
それでもアプファルは水を飲んだ。
舌を動かして、ぴちゃりぴちゃりと生臭い水を飲み干していく。
──気持ちわりぃ……!
猫になった身であれば平気かもしれない。そう思ったのが甘かったようだ。
飲用に適しているとは言いがたい生水は、一応喉の渇きを抑えてくれたものの、それ以上に不快さ、文字通りの後味悪さも残してくれた。
「けほ、けほっ……」
小さくむせながら、アプファルは惨めさとそれに伴う怒りで眩暈をおぼえる。
とにかく、何でもいいから誰かに八つ当たりしたい気分だった。
空腹も凶暴な気持ちを増幅させていたのかもしれない。
しかし、陰鬱な気分で顔を上げた時、アプファルはそういった暗い感情をどこかに置き忘れ放心してしまった。
その理由は──
空、というよりも空中……川の上から街の上空、とにかくあらゆるところに得体の知れない不気味なものが、海中を漂うクラゲみたいに浮遊していたのだ。