八ヶ月間、家政婦として世話してた妊婦が、実は夫の愛人だった
夫の桐谷直人は、私が家事代行の仕事を続けることにずっと反対していた。
一か月前、そんな彼が突然、妊娠七か月の女性を依頼人として紹介してきた。白石美羽というその女性の家には、七歳の娘もいた。
私は毎日、彼女と子どものために食事を作り、部屋を整え、懸命に働いた。
けれどある日、書斎で一枚の家族写真を見つける。
写真の中で少女を抱いていた男は、結婚して八年間、「子どもはいらない」と言い続けてきた私の夫だった。
1
あの日、本来なら私は書斎へ入るはずではなかった。
美羽は莉央を病院へ連れていくことになり、出かける前に、ベビールームで使う書類が机の左側の引き出しに入っているから探してほしいと言った。私は言われた通りに書斎の扉を開けた。
午後の日差しが本棚へまっすぐ差し込んでいた。机の上の万年筆は同じ向きにそろえられ、書類は色ごとに分類され、窓辺の鉢植えの下には、きれいな四角形に畳まれた薄いグレーのタオルが敷かれている。
それは、直人の癖だった。
彼は植木鉢の水滴が家具に跡を残すのを嫌い、必ず下にタオルを敷いた。しかも、角が少しでもずれていると気になって、自分の手で折り直していた。
胸の奥に小さな違和感が生まれた。視線を動かすと、本棚のいちばん目立つ場所に、一枚の家族写真が飾られていた。
写真の中の直人は、私の知らないベージュのニットを着て芝生にしゃがみ、莉央を腕の中に抱いていた。美羽は彼の肩へ寄り添い、少し膨らみ始めたお腹には、直人の手が大切そうに添えられている。
三人は、誰が見ても本物の家族にしか見えない笑顔を浮かべていた。
写真立ての下には、短い言葉が記されていた。
『莉央、七歳の誕生日』
最初に浮かんだのは、よく似た別人なのではないかという考えだった。
直人は何度も、子どもが好きではないと言っていた。家族の責任に縛られる人生は想像できない、私と二人で生きていければそれでいい、と穏やかな顔で繰り返していた。
私は彼を愛していたから、母親になりたいという願いを手放した。
それなのに、写真の中で子どもを抱き、愛おしそうに笑っている男は、どう見ても私の夫だった。
廊下の向こうで玄関の開く音がした。
私は写真を近くで確かめようと手を伸ばした。しかし、こわばった指は写真立てをうまくつかめず、そのまま床へ落としてしまった。
ガラスが甲高い音を立てて砕けた。
私は散らばった破片を見つめたまま、動けなかった。
書斎の入り口に、美羽が莉央の手を引いて立っていた。
その後ろには、桐谷直人がいた。
彼はここで私と顔を合わせるとは思っていなかったらしい。視線が重なった瞬間、瞳に動揺が走ったが、それはすぐに消え、何事もなかったような落ち着いた表情へ変わった。
直人は美羽の手を握ったまま、私に向かって自然な笑みさえ浮かべた。
「あなたが、いつも美羽の世話をしてくださっている家事代行の方ですね。ありがとうございます」
彼は私へ手を差し出した。
「美羽から、高瀬さんと伺っています。これからもきちんと世話をしてくだされば、子どもが生まれた後は報酬を上乗せします」
結婚後の戸籍名は桐谷安奈だが、私は家事代行の仕事では旧姓の高瀬を使っていた。その名字を、夫が初対面の他人へ向けるような声で呼んだ。
差し出された手を見つめる。
八年前、この手が私の薬指に結婚指輪をはめた。
今、その同じ手が、愛人と子どもの前で、私を知らない家事代行スタッフとして扱っている。
私は感覚のなくなった手を差し出した。指先が触れた一瞬、せめてわずかな罪悪感が彼の瞳に浮かばないかと探した。
けれど直人はすぐに手を離した。本当に、目の前にいるのが取るに足らない使用人であるかのようだった。
隣に立つ美羽の唇が、わずかに持ち上がった。
「高瀬さん、今日はどうしたんですか? 夫が帰ってきた途端に写真立てまで落として。もしかして、直人に見とれていたんですか?」
私は答えなかった。
視線は、直人のスラックスの裾へ落ちていた。彼の指は、布地を何度もつまんでは離している。
緊張した時に出る癖だった。
初めて私の両親に会った夜も、彼はずっと同じ仕草をしていた。父から婚姻届に必要な書類を渡された時、直人が見せた笑顔は、決して嘘には見えなかった。
私はあの笑顔を、二人の未来を大切に思ってくれている証だと信じていた。
けれど、嘘をつくことに慣れた人間は、誰より誠実そうに笑うこともできるのだ。
直人は私の視線に耐えられなくなったのか、急に顔をしかめた。
「いつまで立っているんですか。先にガラスを片づけてください」
「書斎は勝手に入っていい場所ではありません。今後は入らないように」
美羽は理解のある雇い主を演じるように、私の肩を軽くたたいた。
「気にしないで。直人は時々、少し厳しいだけなんです」
「写真立ては弁償しなくても結構です。来月の利用料金から差し引きますから。写真だけは大切にしてくださいね。莉央の七歳の誕生日に撮った、たった一枚の原本なんです」
私はしゃがみ込み、床のガラス片を拾い始めた。鋭い縁が指先をかすめ、細い血の筋が浮かんだ。
美羽は私のそばへ寄ると、声を落とした。
「高瀬さん、さっきからどうして私の夫ばかり見ているんですか?」
「独身の男性なら、ほかにいくらでもいるでしょう。人の夫に妙な気を起こさないでくださいね」
彼女は、最初から私が誰なのか知っていた。
顔を上げると、美羽の目には隠すつもりさえない勝ち誇った色があった。
これは偶然ではない。
直人は自分の生活用品を片づけ、正体を隠すよう彼女に頼んでいたのだろう。けれど美羽は、わざと私を書斎へ入らせ、家族写真を最も目立つ場所へ置いた。
私自身の目で、すべてを見せたかったのだ。
私は割れたガラスの間から写真を拾い上げた。
「白石さん、写真立てを壊したのは私です。同じ大きさの物を用意しますので、この写真を一度お預かりします」
直人の体がはっきりとこわばった。
彼は私の顔を見ようとせず、写真だけを見つめている。
美羽が私の手首を強くつかんだ。思わず指を緩めた瞬間、直人が写真を抜き取り、背中へ隠すように抱えた。
「写真立て一つです。弁償は必要ありません」
美羽は私を廊下へ押し出した。
「直人と家族の話をしたいので、今日はもう帰ってください。明日と明後日も来なくて結構です」
目の前で、書斎の扉がゆっくり閉まった。
鍵のかかる音を聞きながら、私は廊下に立ち尽くしていた。
私たちの結婚という扉も、もう閉めるべきなのだと思った。
2
青葉台の自宅へ戻ると、私はすぐに荷物をまとめ始めた。
クローゼットには直人と私の服が並び、洗面台には二本の歯ブラシが置かれ、玄関には結婚記念日に買った色違いのスリッパが残っていた。
十一年前、私たちは大学で出会った。
卒業を機に別れる恋人たちが多い中、私たちは星見市に残り、古い木造アパートの一室で暮らし始めた。一階の北向きの部屋で、冬は窓一面に結露が浮かび、夏は夜になっても熱がこもって眠れなかった。
直人は私を抱きしめ、あと少しだけ頑張ろうと言った。
桐谷メディカルグループで立場を築いたら、いつか必ず本当の家を用意する、と約束した。
三年後、彼は私にプロポーズした。
私は彼を愛していたし、彼も私を愛していると信じていた。
結婚後、直人は子どもを望んでいないと言った。夫婦二人だけの生活を守りたいという彼の気持ちを、私は寂しさを抱えながらも尊重した。
今になって、ようやく分かった。
彼は子どもが欲しくなかったのではない。
私との子どもが欲しくなかっただけなのだ。
予定より二日も遅れて帰ってきた出張。会社に泊まると言っていた残業の夜。車の後部座席に貼られていた子ども向けのシールや、スーツケースから出てきた見覚えのない髪留め。
あの時は疑うことすらしなかった出来事が、今になって一本の線でつながっていく。
白石美羽と直人は、九年前から関係を続けていた。
つまり、私たちが結婚する前から、二人は一緒だったのだ。
莉央は七歳。
そして今、美羽のお腹には二人目の子どもがいる。
直人が突然、私の仕事を応援した理由も分かった。
美羽は妊娠をきっかけに、直人へ関係を公にするよう迫った。しかし、彼はなかなか離婚しようとしなかった。そこで美羽は、家事代行の仕事をしている私を自宅へ寄こすよう求め、直人に選択を迫ったのだ。
直人は、私が真実に気づくかもしれないと知りながら、その要求を受け入れた。
彼にとって私は、何をされても最後には許し、元の場所で待ち続ける従順な妻だったからだ。
玄関の鍵が回る音が、思考を断ち切った。
直人が帰ってきた。
半分ほど荷物の入ったスーツケースを見ると、彼の両手はまたスラックスの布を落ち着きなくつまみ始めた。
長い沈黙の後、私から口を開いた。
「あなたが紹介した依頼人は、九年前から付き合い、七年前に娘を産み、今また二人目を妊娠している女性なのね?」
直人の顔から血の気が引いた。
「安奈、君が考えているような単純な話じゃない」
「ずっと話そうとは思っていた。でも、君が離れていくのが怖かったんだ。三日だけ待ってくれ。全部きちんと片づけて、納得できる答えを出す」
そのあまりに身勝手な言葉に、笑いさえ込み上げた。
「どうして?」
「今さら私が、あなたに三日も与えると思っているの?」
帰宅途中で用意した離婚届を、テーブルの上へ置いた。
「桐谷直人、ここに署名して」
彼は突然、私の両肩を強くつかんだ。
「十一年も一緒にいて、結婚して八年だ。君は本当に、その全部を捨てられるのか?」
「捨てるのは私じゃない。あなたは九年前に、とっくに全部を裏切っていた」
直人の顔に、次第に苛立ちが浮かんだ。
「美羽との間には、君には分からない複雑な事情がある。何も知らないのに、そんなふうに追い詰めるのはやめてくれないか」
「私があなたを追い詰めているの?」
声が抑えられなかった。
「あなたは私に、美羽さんの食事を作らせた。あなたの子どもの部屋を掃除させ、あなたが考えた献立で、あなたの子どもを妊娠している女性の世話をさせた」
「桐谷直人、私はあなたに何をしたの? どこまで傷つければ気が済むの?」
直人は言葉を失った。
数秒の沈黙の後、彼は急に声を落とした。
「祖母のことも考えてくれ」
「祖母は君を本当の孫のように可愛がっている。離婚を知ったら、あの体が耐えられると思うのか?」
私は、よく知っているはずなのに、ひどく見知らぬ男のように感じる夫を見つめた。
桐谷千代は直人の祖母であり、桐谷家で唯一、私を心から大切にしてくれた人だった。彼女は家に子どもが生まれることをずっと望んでいたため、直人と子どもを持たないと決めた私は、長い間申し訳なさを抱えていた。
直人は、それを誰より知っていた。
だからこそ、私の弱みとして利用したのだ。
「これ以上騒がないなら、君との子どもを作ってもいい」
耳を疑った。
彼は子どもを何だと思っているのだろう。
そして、私を何だと思っているのだろう。
私はゆっくりと彼の手を払いのけた。
「直人、私は本当にあなたを見誤っていた」
その時、彼のスマートフォンが鳴った。
画面に表示された名前を確認すると、直人はほとんど迷うことなく背を向け、家を出ていった。
扉が激しく閉まった。
私はまだ署名のない離婚届を見つめながら、心の中を丸ごとえぐり取られたような感覚に耐えていた。
しばらくして、もう一度スマートフォンが鳴った。
今度は、義母の桐谷美津子からだった。
通話に出るなり、甲高い声が耳に突き刺さった。
「安奈、桐谷家に嫁いで八年だからって、本当に自分がこの家の女主人だと思っているの?」
「ごく普通の家の娘が直人と結婚できただけでも、ありがたいと思いなさい」
私は黙ったまま、スマートフォンを握りしめた。
美津子は一方的に言葉を続けた。
「八年も結婚して、子ども一人産まなかったくせに、離婚だの財産だのとよく言えるわね」
「美羽さんは優しくて気が利くし、桐谷家の跡継ぎまで産んでくれる。あなたよりずっと立派よ。妊娠中の彼女を世話するくらい、何が不満なの?」
「美羽さんの子どもだって、いずれあなたを身内として呼ぶのよ。自分ができなかったことを代わりにしてもらったんだから、感謝すべきでしょう」
ようやく分かった。
白石美羽の存在を、家族は全員知っていた。
直人が子どもを持たない主義だと信じていたのは、私一人だけだった。
「それほど美羽さんがお気に入りなら、どうぞ本当のお嫁さんにしてください」
「私は直人と離婚します。皆さんの望み通りに」
電話を切り、番号を着信拒否にした。
口にした瞬間、驚くほど肩が軽くなった。
本当は、もっと早く気づくべきだったのだ。
直人は、完全に隠していたわけではない。私は結婚を守りたい一心で、彼の代わりに何度も言い訳を作り、自分自身をだまし続けていただけだった。
もう、誰かのために自分を欺くのはやめようと思った。
3
夜が明ける前に、私は水野理沙弁護士へ連絡した。
理沙は大学時代の先輩で、今は離婚や財産問題を専門に扱っている。事情をすべて聞き終えると、彼女はしばらく沈黙し、直人とはこれ以上口論しないよう言った。
「安奈、今いちばん大切なのは、証拠を残すことよ」
「少なくとも七年以上、家族ぐるみで不倫関係を隠していた。それに直人は、夫婦の共有財産だけじゃなく、グループの資金まで白石美羽のために使っている可能性がある」
「見つけられる資料を全部整理して。後は私が進めるから」
私は過去数年分の銀行明細、クレジットカードの利用履歴、直人の出張記録を並べた。
これまで疑いもしなかった支出が、次々と異常な形を見せ始めた。水浜町の高級マンションの管理費、インターナショナルスクールの学費の一部、「接待費」として処理された子ども用品の購入費。
それらはすべて、桐谷メディカルグループの関連会社口座から支払われていた。
作業が終わる頃には、窓の外が白み始めていた。
簡単に身支度を整え、果物を持って桐谷記念医療センターへ向かった。
千代おばあちゃんは最近、心臓の状態が悪く、入院していた。
本当は何も知らせたくなかった。けれど直人が彼女を利用して私を脅した以上、少なくとも自分の目で無事を確かめておきたかった。
病室へ入ると、直人がいた。
私を見るなり、何も起きていないような顔で立ち上がった。
「安奈、君も祖母に会いに来たのか。きっと喜ぶよ」
私は伸ばされた手を払い、果物をテーブルへ置いた。
「愛人と隠し子がいなければ、おばあちゃんはもっと喜んだでしょうね」
同室の患者や付き添いの家族が、一斉にこちらを見た。
直人の顔が瞬く間に赤くなる。
「安奈、病院で根拠のないことを言うな」
「家族写真と銀行の利用明細を、ここで全部見せましょうか?」
言い終わる前に、彼は私の手首をつかみ、病室の外へ引っ張り出した。
廊下の向こうから、美羽が腹部を支えながら歩いてきた。
後ろには莉央がいて、どうやら妊婦健診に来たらしい。
美羽は私に気づくと、わざとらしく目を見開いた。
「高瀬さん、偶然ですね」
「今日は直人が健診に付き添ってくれたんです。まさか、ここで会うなんて思いませんでした」
私は冷ややかに彼女を見た。
「星見市には産婦人科がいくつもあるのに、千代おばあちゃんが入院している病院を選んだのは、本当に偶然ですか?」
美羽は直人の腕へ自分の腕を絡めた。
「籍が入っているだけで、まだ妻のつもり?」
「私は九年間、直人のそばにいて、莉央まで産んだ。直人が本当に必要としているのは、あなたじゃなくて私よ」
そう言って、彼女はわざと私の腹部へ視線を落とした。
「少なくとも私は、桐谷家が本当に欲しいものを与えられるもの」
怒りで体が震えた。
けれど壁一枚隔てた先には、千代おばあちゃんの病室がある。ここで感情を爆発させるわけにはいかなかった。
私は直人を見つめた。
「少しでも良心が残っているなら、この人をおばあちゃんの前へ連れてくるべきじゃなかった」
美羽は直人の袖を軽く引いた。
「直人、先に健診へ行きましょう。どうでもいい人のせいで、赤ちゃんに何かあったら困るわ」
立ち去る前に、彼女は私へ笑いかけた。
「それじゃあ、あなたのご主人は私が借りていきますね」
私は並んで歩いていく二人の背中を見送った。
直人は、一度も振り返らなかった。
気持ちを落ち着かせてから、私は病室へ戻った。
千代おばあちゃんはベッドの端に座り、以前私が贈ったお守りを握っていた。彼女は何も尋ねず、ただ隣へ座るよう手招きした。
「安奈、最近ちゃんと眠っているの? 顔色がずいぶん悪いわ」
「仕事が少し忙しいだけです」
無理に笑う私の手を、千代おばあちゃんが優しくたたいた。
「疲れたなら休みなさい。あなたは桐谷家の使用人でも、誰かの付属品でもないのよ」
「自分が幸せでいられるなら、どんな人生に変えたって遅くないわ」
その言葉を聞いた瞬間、涙がこぼれそうになった。
結婚して五年目、千代おばあちゃんは、自分が持つ桐谷メディカルホールディングスの株の一部を私へ譲ってくれたことがある。
『桐谷家の嫁に渡すんじゃない。私の孫の安奈に残すのよ』
あの時の言葉は、今もはっきり覚えていた。
病院を出る頃には、理沙が離婚協議書、財産保全の資料、必要事項を記入した離婚届を準備してくれていた。
私は直人を探さず、そのまま桐谷家の本邸へ向かった。
美津子はリビングのソファに座り、協議書を雑にめくった。
「ようやく身の程が分かったようね」
「桐谷家に子ども一人残せなかったんだから、一円も持って出る資格はないわ」
私は彼女をまっすぐ見た。
「財産をどう分けるかは、法律と証拠で決まります。お義母さんの一言で決まることではありません」
「桐谷家のお金を持っていくつもりなの?」
「夫婦の共有財産には、私が八年間支えてきた分も含まれています」
美津子は鼻で笑った。
「私が死んでも、あなたに桐谷家のお金なんて渡さないわ」
「それなら、どうぞお体を大切になさってください」
その時、玄関から足音がした。
直人が美羽を支えるようにして入ってきた。莉央も二人の後ろについている。
彼は私がここにいるとは思っていなかったらしい。
「安奈、母さんに何て口をきいているんだ」
莉央は不思議そうに私を見た。
彼女に悪意はない。ただ、大人から教えられた言葉を、そのまま口にしているだけだった。
「パパ、この家事代行のおばさん、どうしておばあちゃんの家にいるの?」
「ママが、この人はずっとパパにつきまとっている悪い人だって言ってた。パパ、この人ともうすぐ離婚するんでしょう?」
直人の表情が凍りついた。
美羽は笑顔を崩さず、娘の頭をなでた。
「莉央、そんなことを言ってはいけないわ」
私は七歳の子どもを見つめた。
彼女は、自分がどんな関係の中で生まれたのかも、今口にした言葉が誰かをどれほど傷つけるのかも知らない。
本当に罪があるのは、この子ではなかった。
私は離婚届と協議書を、直人の前へ置いた。
「署名して」
「そうすれば、莉央を正式に認知して、白石美羽さんと堂々と暮らせるでしょう」
理沙が添付した証拠一覧を見た瞬間、直人の顔色が変わった。
そこには不倫の証拠だけでなく、関連会社の資金がマンション代、学費、生活費に使われていた記録まで含まれていた。
「安奈、本当にここまでやる必要があるのか?」
「私を美羽さんの家へ送り込んだのは、あなたでしょう。今さら、どうしてここまでするのかなんて聞かないで」
美羽は複雑な目で直人を見ていた。
美津子だけが、急かすように言った。
「出ていきたいと言っているんだから、出ていかせればいいでしょう。美羽さんは妊娠中なのよ。余計なことで体に障ったらどうするの」
直人は長い間、黙っていた。
やがてペンを取り、離婚届と協議書に自分の名前を書いた。
最後の一画が書き終えられた時、八年間私を縛っていた鎖が、音を立てて崩れたように感じた。
書類をまとめ、美羽へ目を向けた。
「心からお幸せに」
「今度は自分の男をきちんと見張って、ほかの女性まで傷つけさせないでください」
背後で美津子の怒鳴り声が響いた。
私は振り返らなかった。
桐谷家の本邸を出た時、息を吸うだけで体が軽くなるようだった。
翌朝、私は離婚届を星見市役所へ提出した。
職員が書類を確認し、受理印を押した。
その瞬間、桐谷直人との八年間の婚姻は、正式に終わった。
4
翌日、もう一度病院へ行くと、千代おばあちゃんの顔色は前日より少し良くなっていた。
窓辺で本を読んでいた彼女は、私を見るとすぐに本を閉じた。
私はベッドの前へ座り、その手を握った。
「おばあちゃん、直人と離婚しました」
「もう、市役所へ提出してきました」
平静を保とうとしたのに、声はわずかに震えた。
千代おばあちゃんは、長い間私の顔を見つめた。
「直人にいじめられたの?」
「隠さずに言いなさい。おばあちゃんが、あなたの味方になるから」
こらえていた涙が、とうとう落ちた。
私は首を横に振った。
「今、あの人の本当の姿に気づけたことは、私にとって幸運だったと思います」
「おばあちゃん、前によく言っていましたよね。人の幸せは、後からやってくることもあるって」
千代おばあちゃんは、私の涙を指で拭った。
「直人と離婚したからって、あなたが私の孫じゃなくなるわけじゃないわ」
「あの馬鹿があなたの良さを分からなかっただけよ。私の安奈は、これから必ず、あの人たち全員より幸せになる」
私は彼女の胸へ顔を埋めた。
ここが、私の帰る場所なのだと思った。
しばらくは静かに過ごせると思っていた。
ところが翌日の昼、病院の担当看護師から突然メッセージが届いた。
『高瀬さん、できるだけ早く来てください。千代さんの病室を移す話が進んでいますが、少し様子がおかしいんです』
病院へ駆けつけると、千代おばあちゃんはロビーの隅に座っていた。
荷物と、私が前日に持ってきた物は車椅子の横へ積まれ、二人の病院職員が別棟の大部屋へ移動するよう促している。
千代おばあちゃんはスマートフォンを握りしめ、不安そうに首を振っていた。
「ここを動いたら、安奈が来た時に私を見つけられないでしょう。少しだけ、ここで待たせてください」
その姿を見た瞬間、胸が強く締めつけられた。
「何をしているんですか?」
「家族へ何の連絡もせず、本人の同意もなく患者を移動させるつもりですか?」
職員たちは顔を見合わせた。
彼らが説明する前に、背後から美羽の声がした。
「部屋を変えるだけで、そんなに怒る必要がありますか?」
ゆったりしたマタニティドレスを着た彼女の隣には、美津子がいた。
「最近、切迫早産の兆候が出て、日当たりのいい特別個室に入った方がいいと言われたんです。直人が、千代おばあさまの部屋がちょうどいいから、しばらく大部屋へ移ってもらおうと言ってくれました」
私は先に千代おばあちゃんを支え、それから美羽へ向き直った。
「事前の連絡もせず、本人の同意も得ないまま、心臓の悪い高齢者を病室から出したんですか?」
美羽は悪びれもしなかった。
「お年寄りなんて、どの部屋でも同じでしょう?」
「それに、ここは桐谷家の病院なんですから」
彼女は職員へ荷物を運ぶよう合図した。
「先に大部屋へ持っていってください。ロビーに置かれていると邪魔です」
私は荷物の前へ立った。
「誰も触らないで」
職員の一人が困った顔をした。
「高瀬さん、私たちもグループ上層部の指示に従っているだけなんです」
私は理沙へ電話をかけながら、美羽を見た。
「桐谷記念医療センターは医療法人が運営しています。桐谷家の人間が、入院手続きを済ませた患者を好き勝手に追い出す権利はありません」
「それに、千代おばあちゃんは以前、桐谷メディカルホールディングスの株の一部を私へ譲っています。直人と離婚した今も、私は持株会社の株主です」
美羽の表情が、初めて変わった。
彼女は、私が以前と同じように黙って引き下がると思っていたのだ。
「だから何ですか? 別の部屋を用意すれば済む話でしょう」
「ただ部屋を移すだけなのに、どうしてそこまで大騒ぎするんですか?」
私は一歩ずつ、彼女へ近づいた。
「あなたにとっては、ただの病室かもしれない」
「でも、病気の高齢者にとっては、自分の物と一緒に部屋から追い出され、どこへ行けばいいのか分からないまま、一人でロビーに座らされることなんです」
「白石美羽。いつか罰が当たると思わないの?」
美羽は半歩後ずさったが、すぐに顎を上げた。
「高瀬安奈、いい気にならないで」
「前は直人に言って、あなたを私の家事代行にさせられた。今度だって、あなたを星見市にいられなくするくらい簡単なのよ」
私はそれ以上、彼女と口論しなかった。
職員へ向き直る。
「荷物をすべて元の場所へ戻してください」
「弁護士と、メディカルグループの内部監査担当がすぐに来ます。今日のことは、正式な調査記録に残してもらいます」
美羽は、これ以上騒ぎが大きくなることを恐れたらしい。
唇をかみ、職員を指さした。
「先に戻して。早くしてちょうだい」
そう言い残し、腹部を支えながら足早に去っていった。
私は遠ざかる背中を見つめたまま、怒りを抑えられなかった。
あの看護師が連絡をくれなければ、千代おばあちゃんは、いつまで一人でロビーに座らされていたのだろう。
私は彼女の前へしゃがみ、震える手を握った。
「おばあちゃん、家へ帰りましょう」
「別の病院を探します。もう、ここで嫌な思いをする必要はありません」
千代おばあちゃんは、無理に笑いながらうなずいた。
私は彼女の体を支え、ゆっくり立たせた。
まるで幼い頃、彼女が私の手を引き、一歩ずつ歩き方を教えてくれた時のように。
5
家へ戻ると、私は千代おばあちゃんの寝床を整え、台所で好物の料理を作った。
食事を運んでリビングへ入ると、彼女は窓辺で一人、涙を拭っていた。
記憶の中で元気だった人は、いつの間にかひどく小さくなっていた。背中は以前より丸く、髪もほとんど白くなっている。
鼻の奥がつんと痛み、私の目からも涙が落ちた。
物音に気づいた千代おばあちゃんは、慌てて自分の頬を拭った。
「安奈、どうして泣いているの?」
「おばあちゃんが、また迷惑をかけてしまった?」
私は彼女へ駆け寄り、強く抱きしめた。
何日もため込んでいた感情が、ついにあふれ出した。
直人との恋愛と結婚、彼が子どもを望まないと言ったために母親になる夢を諦めたこと、美羽の家事代行になり、夫のもう一つの家庭を自分の手で世話していたこと。
私は泣きながら、すべてを話した。
千代おばあちゃんは、ずっと私を抱いていた。
泣き止むよう急かすことも、直人のために言い訳することもなかった。
ようやく呼吸が落ち着くと、彼女は私の手を両手で包んだ。
「私の安奈は、本当によく耐えたね」
「あなたがどんな道を選んでも、おばあちゃんは味方よ」
「直人みたいなろくでなしは、あなたにふさわしくない」
私は涙を拭った。
「私は何も要りません」
「おばあちゃんが、あと何年もそばにいてくれたら、それだけで十分です」
その夜、千代おばあちゃんが眠ったのを確認してから、理沙とのメッセージ画面を開いた。
あの人たちが何度も私とおばあちゃんを傷つけたのは、私が最後には必ず譲ると信じていたからだ。
けれど、もう二度と引き下がらない。
理沙はすぐに、訴訟と内部調査に必要な資料を整理してくれた。
長年の不貞行為は高額な慰謝料を請求する十分な根拠になる。直人が共有財産を隠し、関連会社の資金で美羽の住居費、学費、生活費を支払っていたことは、企業統治上の重大な問題でもあった。
病院が本人の同意なく千代おばあちゃんを移動させようとした記録も、グループの内部監査部門へ提出された。
私は婚前から持っていた預金を自分だけが管理できる口座へ移し、直人が使える家族カードを停止した。千代おばあちゃんには、新しい病院と介助者を手配した。
準備が整うと、理沙は医療グループの不祥事を追っていた週刊誌の記者へ連絡した。
私は話を大げさにしなかった。
公開しても問題のない事実と、裏付けのある証拠だけを渡した。
数日後、直人のもとへ裁判所の書類とグループの内部調査通知が届いた。
彼は十回以上電話をかけてきたが、私は一度も出なかった。
最後には、美羽のスマートフォンを使ってかけてきた。
「安奈、いったい何がしたいんだ?」
「離婚協議書の条件は全部受け入れた。それなのに、どうしてグループまで巻き込む必要がある?」
私は冷たい声で答えた。
「私に聞く前に、白石美羽さんが千代おばあちゃんに何をしたのか聞いたら?」
電話の向こうが静かになった。
私がどれほど千代おばあちゃんを大切にしているか、直人は知っている。
しばらくすると、彼の声が弱くなった。
「安奈、本当にもう一度話し合うことはできないのか?」
「君にはきちんと償う。美羽とも別れる」
私は窓の外で揺れる木々を見た。
「直人、糸は今日、突然切れたんじゃない」
「あなたが九年かけて、少しずつ擦り切らせたの」
「私を美羽さんの家へ送り、別の家庭の世話までさせたあの日から、私たちの間にはもう何も残っていない」
少し間を置いた。
「桐谷直人、続きは法廷で話しましょう」
電話を切った後、直人は怒りの矛先を美羽へ向けた。
その日、美羽は桐谷メディカルグループ本社を訪れ、離婚が成立したのだから自分との関係を早く公表するよう迫っていた。
二人は一階のロビーで口論になった。
「君が勝手なことをしたから、安奈に写真を見つけられたんだ」
直人は美羽の頬を平手で打った。
「子どもを妊娠しているからといって、グループや病院へ好き勝手に口を出すな」
「俺は子どもを捨てることもできる。君と別れることだってできるんだ」
美羽は頬を押さえ、信じられないという顔で彼を見た。
「直人、どうして私をたたけるの?」
「安奈と離婚したら、私と結婚するって言ったじゃない」
二人は、グループ本社の前に記者たちが集まっていることに気づいていなかった。
口論を聞いて人が集まり、直人が妊娠中の女性をたたく場面まで、すべてカメラに収められた。
記者たちが一斉に二人を取り囲んだ。
「結婚して八年の妻を欺き、不倫相手の家事代行をさせていたというのは事実ですか?」
「関連会社の資金を使い、白石さんと子どもの生活費を支払っていたのでしょうか?」
「病院が入院患者を本人の同意なく移動させた件について、どのように説明されますか?」
直人は顔を隠し、カメラを押しのけた。
「どけ! 取材には答えない。今すぐカメラを止めろ!」
その映像は、すぐにネットニュースへ掲載された。
『子どもはいらないと言った夫、妻を妊娠中の愛人宅へ家事代行として送り込む』
刺激的な見出しは瞬く間に拡散され、桐谷メディカルグループまで世間の注目を集めることになった。
私は金を払って話題を広げることも、ネット上で誰かと言い争うこともしなかった。
理沙の助言に従い、短い声明だけを公表した。
『婚姻期間中の不貞行為、財産隠匿およびグループ資金の私的利用について、法的措置を取っています。その他の事項については、司法および関係機関の判断に委ねます』
あとは、私が直接手を下す必要などなかった。
6
桐谷メディカルグループは、すぐに臨時取締役会を開いた。
内部調査の結果、直人は長年にわたり、関連会社の口座から美羽の生活費を支払っていたことが分かった。水浜町のマンションはグループの接待用物件として処理され、莉央の教育費の一部は海外研修費として偽装されていた。
直人はすべての取締役職を解かれ、次期社長候補からも外された。
美津子は何人かを連れ、私の家まで調査を止めるよう要求しに来た。
かつての傲慢さを捨てたような声で、資料を取り下げるなら桐谷家からまとまった金を支払い、千代おばあちゃんの今後の医療費もすべて負担すると言った。
私は扉を開けなかった。
閉じた扉越しに、静かに答えた。
「おばあちゃんの生活を、桐谷家に面倒を見てもらう必要はありません」
「それより、直人がほかに何を隠しているのか、ご自分たちで心配した方がいいと思います」
調査が進む中、美羽は直人が子どものために用意した教育資金を引き出し、莉央を連れて星見市から逃げようとした。
口座は直前に凍結された。
その後、認知と養育費を巡る手続きの中で親子鑑定が行われ、莉央が直人の実子ではないことが明らかになった。
数か月後、美羽は第二子を出産した。
生まれた子どもについても鑑定が行われたが、やはり直人との血縁関係は認められなかった。
美羽は直人と交際している間も、別の男性と関係を続けていた。桐谷家の財産と、後継者候補である直人の立場を狙い、二人の子どもを彼の血を引く子だと信じ込ませていたのだ。
結果を知った直人は、完全に崩れた。
彼は二人の子どものために私を欺き、傷つけ、グループの金まで流用した。
けれど最後に残ったのは、最初から存在しなかった家族の幻だけだった。
不貞行為に関する慰謝料と財産分与については、私の主張がほぼ認められた。美羽にも、共同不法行為に基づく慰謝料の支払いが命じられた。
その後、直人は関連会社の資金を私的に流用し、経費の名目を偽装した件で、業務上横領および特別背任に関する罪に問われた。
刑事裁判の日、私は千代おばあちゃんとともに、月城地方裁判所星見支部へ向かった。
直人はもう、身なりを完璧に整え、常に体面を守っていたグループの後継者ではなかった。
わずか数か月でひどく痩せ、スーツは肩から垂れ下がり、目の下には濃い影が落ちている。
私を見ると、彼はすぐに一歩近づいた。
「安奈」
「もう一度、やり直せないか?」
「美羽とは終わった。あの子たちも、俺の子ではなかった」
私は静かに彼を見た。
「それで?」
「彼女にだまされていたから、私まであなたの嘘を忘れなければならないの?」
直人の唇が動いた。
「昔は、本当に君を愛していた」
「そうだったのかもしれない」
「でも、昔の愛で、その後に与えた傷を消すことはできない」
私は千代おばあちゃんの腕を支え、直人の横を通り過ぎた。
今度こそ、一度も振り返らなかった。
月城地方裁判所星見支部は、直人に懲役三年の実刑判決を言い渡した。
判決が読み上げられた時、私はもう彼を見なかった。
桐谷メディカルグループは、相次ぐ不祥事、資金問題、取引銀行の融資引き締めによって深刻な経営危機へ陥った。中核病院は別の医療法人へ売却され、桐谷家はグループの実権を失った。
美津子が何より大切にしてきた家の地位は、数か月のうちに崩れ去った。
莉央は、大人たちに利用された子どもにすぎない。
美羽が捜査を受けている間、莉央は母方の祖母に預けられ、児童相談所も生活環境を確認するために介入した。
その後のことを、私は追わなかった。
子どもは、生まれ方を選べない。
責任を負うべきなのは、子どもを利用し、残酷な言葉を教え込んだ大人たちだった。
7
すべてが終わった後、私は千代おばあちゃんを連れ、星見市を離れた。
私たちが移り住んだのは、月城県北部の花凪町だった。
高い建物はなく、家の裏にはなだらかな丘が広がっている。春には桜が咲き、夏の夜には川の音と虫の声が聞こえた。
最初に始めたのは、一人暮らしの高齢者を支える生活援助サービスだった。
長年の家事代行経験を生かし、買い物や料理、掃除を手伝い、病院や役所での手続きにも付き添った。
千代おばあちゃんは、よく玄関先に座り、訪ねてくる高齢者たちと話をしていた。
私よりも早く、彼女の方がこの町になじんだ。
三年後、私は介護関連の資格を取得し、生活援助サービスを小さな高齢者向けグループホームへ発展させた。
名前は、『小春の家』とした。
庭には、千代おばあちゃんが好きな紫陽花をたくさん植えた。
天気の良い日には、入居者たちが縁側で日向ぼっこをする。千代おばあちゃんは、まるでここにいる全員の祖母のように、一人ずつへお菓子を配って回った。
体が若返ったわけではない。それでも桐谷家にいた頃より、ずっと元気そうに笑うようになった。
ある初夏の午後、私は焼きたてのケーキを持って庭へ出た。
千代おばあちゃんが手を振った。
「安奈、早くいらっしゃい」
「みんな、あなたを待っているわよ」
私は彼女の隣へ座った。
山から下りてきた風が庭を抜け、草木と陽だまりの匂いを運んできた。
直人、美羽、そして桐谷家に傷つけられた日々は、もう遠い昔に見た悪夢のようだった。
間違った結婚から離れることは、自分の家を失うことではない。
本当の家とは、婚姻届でも、名のある家の姓でもなかった。
傷ついた時に抱きしめてくれる人がいて、離れる決意をした時には背中を押してくれる人がいる。そして嵐が過ぎた後も、変わらず一緒に陽だまりへ座ってくれる場所こそが、私の家なのだ。
千代おばあちゃんが、私の手を握った。
私はそっと、その肩へ頭を預けた。
山は初夏の光に包まれ、穏やかな時間だけが流れていた。
これからは、ここが私たちの家だ。
――完――




