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どうやら妹系悪役令嬢に転生したらしいです

作者: 八ノ瀬みお

 移りゆく季節にともなって、昼間に感じる気温が下がってきた。やわらかい陽の光にもあたたかみが減っており、外でお茶をするのはしばらくは控えたほうがいいかもしれない。――次の春の訪れまでは。


(それにしても……)


 黄色に赤色にと色づく木々とやわらかい陽の光を背景にしたこの三人は、とても絵になる。ファニーは、ほう、と感嘆の息をついた。


 茶色の髪と緑色の瞳を持つ兄のイーサン。イーサンの婚約者で、桃色の髪と水色の瞳を持つアビゲイル。母親同士が親友という関係で幼なじみとして育った、青色の髪と濃紺色の瞳を持つセドリック。

 この三人はそれぞれ美麗な顔立ちでもあり、三人並べば天元突破級の眼福である。


 アビゲイルは小柄で、不釣り合いなほどに大きい瞳がアンバランスさを引き立てていて、庇護欲をかき立てるような愛らしさがある。

 彼女は子爵令嬢で、伯爵家のイーサンに嫁入りするのは順当だが、ファニーたちの幼なじみのセドリックは公爵令息なので、アビゲイルとセドリックには身分差がある。それでもアビゲイルがセドリックと一緒に過ごせるのは、ひとえに婚約者のおかげだった。


 見目麗しく、身分差もあって、男女の数が合計で三人。


 ファニーはここに、とてもロマンを感じている。


 しかも、アビゲイルの髪は桃色。

 桃色といえば、ヒロインの色である。


 ここが()()()()()()()かはわからないが。


 ファニーは伯爵令嬢として生を受けたが、前世の記憶を持っている。


 前世のファニーは日本人だった。流れるように生きていた。学校に通い、就職した。そこまでは可もなく不可もなくだったが、就職先はあまりいい環境ではなかった。安月給で、残業の日々。楽しみはスマホの中だけにあり、ソシャゲとウェブ小説が心の支えだった。


 あのときに楽しんでいた作品のヒロインのように、アビゲイルの家は爵位が低く、しかし心優しくてけなげで、桃色の髪を持っている。自分よりも爵位が上の令息たちに囲まれていて、まさに、あの好きだった恋模様。


 この世界が、前世のファニーが楽しんだ作品のどれであるかはわからないが、そんなことは些末だ。


 たとえ、こことは全然違う世界の記憶があろうとも、ファニーはいまこの世界で生きている。かつて親しんだ作品のなかには、転生者が転生先を作られた世界でしかないと認識して破滅するキャラがいたことは覚えている。だったらここがどの作品かがわからなくてもかまわない。

 ここは物語ではなく現実だとわきまえて、三人に悪影響を与えない立場を貫くことができれば、ファニーが破滅することはないだろう。


 ちなみにファニーは伯爵家に生まれた。美形なイーサンの妹にふわしい美少女である。イーサンと同じ茶色の髪をしているが、瞳の色は同じではない。ファニーの瞳はヘーゼルアイといわれる、光の当たり具合や見る環境によって色が違って見える、不思議な色の瞳をしている。

 ヘーゼルアイは前世の世界にもあったものだが、あのころは平均的な日本人の色味だったので、鏡を見る際はつい瞳を見てしまうぐらいにはこのヘーゼルアイを気に入っている。ファニーの瞳は室内では緑とオレンジ色に見え、外では青と黄色に見える。


 美少女に生まれたことよりも、この奇跡みたいな色のほうがずっと気になる。容姿の美しさはこの目の前の三人を見て楽しむことで充分である。


 それに、とも思う。


 ここがなにかの作品の世界で、この三人が主役であるのなら、その近くにいるファニーにはどんな役があるのか。

 アビゲイルの婚約者の妹ということは、悪役令嬢かもしれない。


 イーサン(美しい兄)セドリック(美しい幼なじみ)に囲まれているアビゲイル(ヒロイン)に嫉妬する役。


 この世界は現実とはいえ、この三人が主役であるとしても、舞台装置としての自分が悪役であるのは受け入れられない。だってここは現実でもあるので、悪役として散ったあともファニーは生きなければいけない。悪役としての役をまっとうしてしまえば、令嬢としての人生が終わる。


 嫉妬に駆られてほかの令嬢をいじめるような女を娶りたい令息なんていないし、親はファニーを結婚させずに修道院に押し込める可能性だってある。


 せっかくの異世界転生なのに。


 前世で楽しんだ恋愛物語を間近で楽しむチャンスなのに。


 つまり、いまを生きるファニーにとっての最適解は、モブになることである。


 ヒーローたちの妹枠であり、幼なじみ枠として、間近で三人の恋模様を楽しむ。いちファンとして。


(わたしは壁)


 今日も三人の仲のよさが尊い。


 ちなみに、三人が仲よく過ごしているところを間近で見ているファニーだが、現在はその自分も含めた四人で伯爵家のタウンハウスでお茶会をしているところである。


 アビゲイルとイーサンは婚約者なのでふたりが会うのに問題はないが、セドリックはイーサンと幼なじみというだけなので、ふたりが会う場所に来るのには理由が必要になる。そのために、ファニーが呼ばれた。

 男女の数が同数なら、セドリックが婚約者たちのあいだに割って入ろうとしているという悪い噂が立つこともない。表向きはイーサン(婚約者)の妹と幼なじみも交えた四人で交流している、となるわけである。


 物語の中における三角関係はおいしいが、現実では醜聞になりかねないため、セドリックが公爵令息ということもあり、醜聞対策が必要になる。


 イーサンとセドリックは親友でもあるので、きっと最終的にはセドリックが身を引くことになると思われるが、せめてその前の思い出作りにアビゲイルと交流したいというのなら、ファニーは喜んで協力する。


(見た目がよくて公爵令息だからセディお兄様もモテるのに初恋は成就しないなんて、どの世界も初恋は大変ね……)


 ファニーにとってもセドリックは幼なじみで、兄と呼ばせてもらっているので、けなげなセドリックのことをこっそりと協力している。


見た目のよさもさることながら、ドロドロとしたところはなく、品行方正に三人で仲よく過ごす様子は美しくて推せる。


 これは壁にならざるをえない。


「はあ。紅茶がおいしい」


 三人を眺めながらファニーは紅茶を飲んだ。少し寒いかなと感じていたのも、三人と紅茶のおかげできれいに忘れ去っていた。


「ファニーの口に合ったようでよかったよ」


 ファニーのぽつりとこぼれた言葉を拾ったらしいセドリックに笑みを向けられた。


「ファニーの好みに合わせて買ってきたんだから当然だろ」


 半眼になるイーサンを、アビゲイルがくすくすと笑いながら見守っている。


「そうだ。ファニーにおみやげがあってね」


 イーサンのツッコミはスルーしたセドリックが、ファニーへ小さな包みを手渡してきた。


 セドリックは少し前まで、家族で旅行に出ていた。そのおみやげとして茶葉を持ってきてくれたのでお茶会で出したのだが、それとはべつにファニーあてのおみやげもあるという。


 セドリックはイーサンと同い年なので、ファニーのことをイーサン同様に妹として扱ってくれている。旅行のおみやげもこうして用意してくれるなんて、さすがだなって嬉しくなる。


「セディお兄様、ありがとうございます。開けてもいいですか?」

「もちろんだよ」


 わくわくしながら包みを開けると、そこにはリボンが入っていた。


「セディお兄様、このリボンの色……」

「うん。ファニーの瞳の色だよ」


 それは緑とオレンジ色で刺繍が施されたリボンだった。旅行先の領地伝統の柄がデザインの刺繍なので、旅行のおみやげにぴったりなうえに、ファニーが気に入っている瞳の色をしているものだから、心の底から嬉しいという気持ちがわき上がってきた。


「セディお兄様、本当にありがとうございます」

「どういたしまして。ファニーは自分の瞳の色を気に入っているから、絶対に喜んでくれると思ったよ」


 にこにこと頷いてくれるセドリックに、ファニーもにこにこと笑みを返した。


「ファニー、そのリボンとファニーの瞳の色を見比べてもいいかい?」

「もちろんです!」

「あ、おい、セディ!」


 幼いころはセドリックを愛称で呼んでいたイーサンは、いつのころからか、セドリックを愛称で呼ばなくなった。それについてイーサンは「いつまでも子ども気分のままではな」と言っていたのに、なぜかここで愛称が出ていた。それについて珍しいなとイーサンに気を取られたファニーだったが、自分の視界がセドリックの顔でいっぱいになって、頭が真っ白になった。


 ファニーの視界はセドリックでいっぱいである。そのセドリックの瞳にはファニーだけが映っているから、まるでふたりきりになったかのような錯覚に陥ってしまう。


(どアップで見るセディお兄様もイケメンだわ。あ、まつ毛が長い)


 公爵令息なだけあって手入れも万全なようで、肌はきめ細かいし、近寄るといつもいいにおいがする。髪もさらさらだし。


(セディお兄様の髪は青色なのよね。前世では染めなければこうはならないけど、セディお兄様のは天然。これぞ異世界って感じよね)


 ファニーの髪は茶色で異世界感はあまりないが、ヘーゼルアイは気に入っているのでよしとする。


「おい、セドリック、いつまでそうしているつもりだ?」


 低い声のイーサンが咎めた。


「ああ、悪い。ファニーの瞳の色があまりにきれいでついな。いまは青と黄色だね」

「そうですね。このリボンの色は室内で見ることのできる色ですね。でも、その室内でもいろんな見え方がするんですよ。たとえば光の加減とか」

「それはぜひ、いろんなシーンで見てみたいね」

「朝の光とか、月明かりとかでも違うんですけど、さすがにセディお兄様にはお見せできないですね」

「……なぜだい?」

「セディお兄様はわたしの婚約者ではないので結婚しないからですね」


 朝晩というきわめてプライベートな時間を一緒に過ごせるのは家族だけである。セドリックのことを兄と慕っていても、彼は幼なじみという他人。

 いまこうして気軽に会っているのだって、ファニーにもセドリックにも婚約者がいないからでしかない。もしもどちらかに婚約者ができれば、その婚約者も交えて、さらにほかにも人を交えて、となる。セドリックが単独でイーサンとアビゲイルに会えないのと同じように。


 幼なじみとはいえ、異性が気軽に会える年齢はすでに過ぎてしまった。大人になれば、会うための理由や状況がもっと必要になる。


 そこは前世では考えられない価値観だが、この世界にはこの世界の価値観があるため、受け入れなければいけない。ファニーは貴族令嬢として、そういった価値観の教育を受けたからだ。


「……ファニーには誰か結婚したい相手がいるのかい?」


 少し声が低くなったセドリックに尋ねられた。セドリックを見ると、笑みこそ浮かんでいるものの、目が笑っていない。濃紺色の瞳が、いつもより暗く感じる。


「? 特に縁談は聞いていないですよ?」


 いつもの優しいお兄さんという感じではなくなったセドリックを疑問に思いながらも、ファニーは自分あての縁談は来ていないことを告げた。


「そういうことではなく」

「おい、セドリック」

「セドリック様、早まってはいけませんわ」

「なんの話ですか?」


 目の据わったセドリックを諌めるふうの兄たちに疑問を感じたファニーだが、兄たちには残念な目で見られてしまった。


「いや本当になんで?」

「おまえがぽやっとしているって話だから気にするな」

「わたしがいつぽやっとしたのですか?」

「いつもだろ。いつもぽやっと俺たちのことを見てさぁ」

「あ、わたしのことはお気になさらず」


 だって壁なので。ファニーの存在は三人が仲よく過ごすための口実なので。


「お兄様たちが一緒にいるところはとても美しくて眼福なので」

「ファニーもとてもかわいくて、もっと一緒に過ごしたいと私は思っているよ」

「ありがとうございます。わたしでよければいつでもお茶会に誘ってくださいね、セディお兄様」


 ファニーがセドリックのために妹としてできるのは、こうやって一緒にお茶会に出るだけなので、いつでも呼んでほしい。

 ファニーはさすがに当て馬になることはできないが、セドリックだってアビゲイルを略奪しようとは考えていないので、そもそも当て馬は必要ない。だからお茶会に呼ばれて、壁役になる。


 壁はファニーにとって願ってもない役どころでもあるから、いつでも呼んでほしい。


「……そうじゃないんだけどね」

「おまえがファニーにいい顔しようとするから勘違いされるんだろ」

「わたくしたちをだしにするのは結構ですけれど、そんなことではぽやっとしたファニー様にはなにも響きませんわよ」

「ファニーへの縁談を握り潰すなら潰すで、おまえがさっさと縁談を申し込めよ」

「私だって早くそうしたいが、なかなか兄のフィルターを外してくれないからな……」


 三人をにこにこと眺めるファニーの耳には、三人の会話は聞こえていない。ファニーという名の壁に耳はついていなかった。




  ***




 この世界にも学校はある。

 ファニーが通う王立学園は貴族がメインで、平民は特待生と呼ばれる成績優秀な者か、貴族の推薦を受けた者のみが通うことを許されている。

 この王立学園には王族も通うが、在校生に王族はいない。昨年までは王太子が通っていたがそこで卒業した。

 現在の在校生で身分が一番上なのは、公爵令息であるセドリック。彼は家柄と目見がよいだけでなく、成績も優秀で、しかも婚約者がいないことから、令嬢たちの熱い視線を一身に受けている。


 ファニーは王太子と入れ替わる形で入学したからそのときの様子を知らないが、王太子もアビゲイル(ヒロイン)を囲むことはあったのだろうか。


(でも、王太子殿下には婚約者がいらっしゃるのよね。物語では鉄板でも、この世界ではどうだったのかはわからないから、めったなことは口にしてはいけないけど……)


 少なくとも噂にはなっていないようだし、疑わしいような言動はなかったのだろう。


(あ、でも、わたしは王太子殿下と入れ替わりで入学したから、王太子殿下は登場人物ではない可能性が高い?)


 だって悪役令嬢のファニーが関わることができないから。

 つまりこの物語に王太子は登場しない。


「ちょっと!」


 物語のなかには、王太子の想い人に悪辣なことをして断罪されるというものがある。ファニーは王太子の婚約者ではないが、そこに巻き込まれることはないとわかってひと安心である。


「ちょっと無視しないでよ!」


 突然肩を掴まれたファニーは驚いた。歩いていた足を止めて振り返る。


「……ジェマ様、なにかご用ですか?」


 振り返った先にいたのはクラスメイトのひとりだった。貴族令嬢にはありえないボブカットの髪型をしている。学園に入学する前に男爵家に迎え入れられた庶子で、それまでは平民同然の生活をしていたらしい。

 長い髪は貴族令嬢のステータスで、生きるのに精一杯の平民は髪の手入れをする時間もアイテムもないから短くなるのだと、彼女自身が言っていた。


 庶子が平民生活ののちに貴族家に迎え入れられるのも、物語にはありがちな設定だ。ジェマは美少女だが、アビゲイルの庇護欲をそそる顔立ちには劣る。ちなみに髪は桃色である。


「あんたも転生者ね?」

「えっ」


 さすがにどきっとした。


 これも物語あるあるだが、敵意剥き出しなところを見せる転生者には親近感を抱いてはいけないやつ、と判断せざるをえない。


「おかしいと思ったのよ。()()()()のイーサンに()()()婚約者がいることに」

「はい?」


 イーサンが悪役令息とは聞き捨てならない。

 転生者らしきジェマが言うのだから、間違いないのだろう。しかし、あれだけお似合いの婚約者同士であるイーサンとアビゲイルなのに、イーサンがどう悪役なのか。悪役はむしろファニーではないのか。


「あの女の髪がピンク色だったから、どこかのモブがヒロインになり変わったのかと思ったけど、あの女には不審な点はなかった。悪役令嬢のあんたの性格が違うことからのバタフライエフェクトね?!」

「悪役令嬢? バタフライエフェクト??」

「すっとぼけないでよ!! ここはあたしの世界だったのに!! あたしがイーサンの婚約者で、でもあたしは男爵令嬢で庶子だから冷遇されて、セドリックに同情されて愛が芽生えてイーサンを断罪して、そしてセドリックと結ばれる話なのに!!!!」


(あー、なるほど)


 ここは正しく物語の世界だった。


 ただ、ファニーが考えていたアビゲイルがヒロインの世界ではなく、ジェマがヒロインの世界だったというだけで。


(バタフライエフェクトとは言うけど、どちらかというとジェマ様が発生源ではないの?)


 ジェマは黙っていれば美少女ではあるが、いまの敵意剥き出しでいきり立つジェマには、セドリックが惚れる要素はない。ジェマがこんな性格だからイーサンはアビゲイルと婚約をして、セドリックはアビゲイルに惚れている。


(わたしの性格が違うと言うけど、それも真ヒロイン(この人)の性格からのバタフライエフェクトでは?)


 もとの悪役令嬢としてのファニーがどんな性格だったかは知らないが。


「あんた、セドリックが好きなんでしょ?!」

「はい?」

「転生者のあんたは原作でセドリックと自分が結ばれないって知っているから、性格を変えたんでしょ?!?!」


 セドリックが好きなのはアビゲイルである。


 幼なじみとして交流のあるセドリックは、ファニーよりも身分が上であることを鼻にかけず、本当の妹のように大事にしてくれた。

 セドリックはときに、ファニーに弱音を吐いてくれた。家柄や見た目だけを見てすり寄ってきて、ほかの者たちにマウントを取るためだけにセドリックのことを欲する令嬢が苦手だと、弱々しい笑みを見せてくれたこともあった。令嬢教育が厳しいとファニーが愚痴ったときにはたくさん励ましてくれて、勉強をがんばれるようにとペンのプレゼントをしてくれたこともあった。


 どれだけ優しくて親身になってくれても、セドリックはファニーと血の繋がりはない。身近なお兄さんがどんな弱い部分もしっかり受け止めてくれたら、幼心にも恋に落ちてしまうというもの。


 そう、ファニーの初恋はセドリックだった。


 しかし、セドリックの初恋はアビゲイルである。


 この初恋が成就することはないと、告白する前から知ってしまったが、大好きなセドリックには幸せでいてほしい。彼だってその初恋が成就することはないとファニーは知っているが、その初恋を引きずらないためにも、前に進むためにも、セドリックにはその初恋としっかり向き合ってもらいたい。


 だからファニーはセドリックのために壁になることにした。

 セドリックがたくさん思い出を作るところを見て、前に進むセドリックを見届けることができれば、この初恋もきっと報われる。


 好きな人が少しでも幸せを感じていられるなら、その様子を見ることはファニーの幸せでもある。


 あの三人は見目麗しくて眼福だから、三人を眺める時間は苦痛ではない。むしろ幸せなことだ。――さすがになに話しているかまではこわくて聞けないが。


 前世でソシャゲやウェブ小説を楽しんでいたときのファニーに夢属性はなかった。ヒロインやヒーローをによによと楽しんでいたので、そのときの気持ちになりながら壁になっていた。モブになれば嫉妬してセドリックの気を悪くすることもないと、そうやってずっと自分に言い聞かせて過ごしてきたのに――


「なにをおっしゃっているの? わたしは伯爵家の娘として教育を受けてきました。伯爵家の娘として恥ずかしくない言動を心がけているだけです」


 兄たちからぽやっとしていると言われたが、少なくとも、公爵令息の足を引っ張ることはしていない。セドリックは幼なじみだが、格上の相手でもある。ファニーはちゃんとわきまえている。


「ところで、テンセイシャ、とはなんですか? 伯爵家での教育には出てこなかった言葉ですけれど。学園でもいまのところは教わっていないですよね」


 こてんと首をかしげたときに、近くにいた令息が視界に入ってきた。


「あの、失礼ですがお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「は、はい。なんですか?」

「テンセイシャという言葉をご存じ?」

「い、いえ、聞き慣れない言葉です!」

「同感です。お答えくださり、ありがとうございます」

「あっ、おっ、お役に立てたのならよかったです!」


 顔を真っ赤にさせ、しどろもどろに答えてくれた男子生徒に笑顔でお礼を言うと、顔をさらに赤くさせながら返事をしてくれた。


「ジェマ様、テンセイシャとは珍しい言葉のようですが、いったいなんでしょうか?」

「すっとぼけないでよ!」


 すっとぼけるなと言われても、すっとぼけるに決まっている。


 転生者というのは、別の世界の言葉である。文字に書くと、「音を頼りに書けば単語的にはこうなる」というだけで、意味はまるでわからないものになる。

 この世界に「転生」という概念はない。死後に行き着く先というのはあるが、そこで永遠に暮らすというのが定説である。つまり、生まれ変わるという考えは、誰も持ちえない。この世界に宗教はいくつかあるが、死後の扱いはどこも同じなので、転生がなにかを知っているということは、別世界からの転生者か(ただし、それは転生者にしかわからないことになるが、一般的に転生者の話は聞かない)、あるいは魔物や悪魔という扱いを受けることになる。ちなみに魔物や悪魔は宗教上の仮想敵の扱いで、この世界には魔法や魔物は存在しない。


 貴族令嬢としてはこの世界に存在しない言葉を認めるわけにはいかない。やばいやつ認定されれば家に迷惑がかかるからだ。


 さらに、新たな転生者であるジェマは過激な思想(?)の持ち主のようなので、仲間に思われるのもまずい。


(この物語のヒロインは『ジェマ』なのかもしれないけど、このジェマ様はヒロインであることに驕っているようだし)


 まったく人がいないというわけではない場所でこの発言。誰が見てもやばいやつなので、彼女はヒロインとはかけ離れた生活をしていることになる。


(でも)


 ジェマの背後の、さらに後ろのほうからセドリックが歩み寄ってくるのが見える。少し厳しい表情をしながら、いつもより早いペースで歩いている。そのさらに後ろにはファニーの友人が見える。一緒にいた友人のうちふたりが、ジェマの異常性を認めて助けを呼びに行ってくれたらしい。残りの友人たちはファニーに寄り添ってくれている。


 この友人たちを裏切らないためにも、家やセドリックを裏切らないためにも、ファニーができることはひとつだけだ。


(わたしが悪役令嬢というのなら、期待に応えてあげる)


 ジェマの口ぶりから物語の登場人物としてのファニーを想像するに、セドリックに恋しているのに妹にしか見てもらえないことをこじらせて悪役になる役どころだろう。


 悪役なら悪役らしく、ヒロインに立ちはだかってあげる。それがこのジェマの願いでもあるのだろうし。


「ファニー、いったいなにがあったんだい?」


 ジェマには目もくれずその横を通り過ぎて、セドリックがファニーの隣に立った。軽く身を屈めたセドリックが、心配そうに眉尻を下げた表情でファニーの顔を覗き込んでくる。


「セディお兄様……。わ、わたし……」


 視線を地面に落として震える声を出すが、セドリックの望む答えは与えなかった。


「ファニー?」


 セドリックはさらに身を屈めて、なんとかファニーの顔を覗き込もうとしてくる。


 妹思いのとても優しいセドリックを無視するのは心が痛むが、ファニーは『わたしは悪役令嬢、わたしは悪役令嬢』と心の中で自己暗示した。それからセドリックの袖をきゅっとつまんで、それでもなにも答えない。


「あ、あの……」


 見るに見かねたファニーの友人たちが意を決してセドリックに声をかけた。


「その、そちらのジェマ様がファニー様のことを『テンセイシャ』とか『悪役令嬢』とか、わけのわからないことを言ったんです」

「……テンセイシャ? 聞き慣れない言葉だな。しかも、ファニーが悪役?」


 屈めていた身体を起こしたセドリックが、ジェマへと顔を向ける。ファニーはそれをむずかるように、つまんでいた袖をつんと引っ張った。


「セディお兄様、わたし以外を見ないで……」


 息をのんだセドリックが、ばっと勢いよくファニーへと振り返った。


「わたし、あんなわけのわからないことを言われて心細くて……」

「ああ、ごめんね。私も、できることならファニー以外を見たくないのだが……」

(うん?)

「あの女には注意しないといけないからね。――いったい誰を傷つけたのか、しっかりと教えないとね」


 にこりと笑ったセドリックはとても黒い笑みをしていた。こんな笑顔は初めて見た。


「あ、あの、セディお兄様?」

「すぐに終わるから、少しだけ我慢してくれるかい?」

「はい……」


 黒い笑みで懇願されては否とは言えない。引きつりそうになる表情筋を、令嬢教育の根性でなんとか制御して返事した。


「テンセイシャがいったいどんな意味を持つのかはわからないが、ほかにはファニーのことを悪役と言っていることから、ろくでもない意味だと推測する。きみは男爵令嬢だとも聞いたが、伯爵令嬢を侮辱するなど、いったいどんな教育を受けてきたんだ?」


 黒い笑みを見せていたセドリックは、冷徹な声音でジェマに対峙している。ここは彼に任せて大丈夫だろうとファニーは判断して、セドリックの袖をつまむのはそのままに、セドリックの背後に身を隠した。


(妹は妹らしく、あとのことはセディお兄様に任せないとね。これぞ妹系悪役令嬢。……それに、ジェマ様と話してボロが出てもいけないからね)


 この世界では転生者であることを隠すのが最適解なので。


「そんな?! 学園では身分は関係ないのに?!」

「身分を気にしていれば同じ教室で授業を受けることはできないから、建前としてそう言われているだけだ。学園では下位の者が上位の者に話しかけてもかまわないが、礼節はわきまえること。入学時に説明があったはずだが?」

「あ……あたし、入学するまで平民だったからよくわからなくて……。貴族令嬢はみんなあたしに意地悪でなにも教えてくれないし……」


 ジェマの言い訳をセドリックの背後で聞いているファニーからは彼女の表情は見えないが、ジェマの声には媚が含まれていた。


(セディお兄様の同情を引こうというの?)


 たとえ入学するまでは平民であったとしても、入学時には先ほどセドリックが言った説明を受けている。それを聞いていなかったのか、守っていないのかはジェマの責任であって、身分は関係ない。

 それに貴族令嬢たちが意地悪というのも、マナーのなっていないジェマを指摘していただけだ。それを「あたしが入学するまでは平民だったからって!」と突っかかってきたのはジェマだ。


 クラスメイトの平民の特待生は、言動には気をつけているというのに、あんなふうに平民を持ち出すのは平民に失礼だということを、ジェマは気づいていない。


 どこまでも自分勝手なジェマがいやで、つい、セドリックの袖をつまむ手に力が入ってしまった。


「たとえ入学するまで平民だったとしても、入学時には貴族も平民も等しく説明を受けている。ほかの平民の生徒たちはちゃんと礼節を持って振る舞っているのに、きみはいったいなにを聞いていたんだ?」


 まるでファニーの思いが伝わったように、そして善良な平民を守るように、セドリックがジェマに指摘してくれた。そのタイミングのいい彼の指摘に、ファニーは下がっていた顔を上げた。ファニーには目の前にあるセドリックの背中しか見えないが、その背中はとても頼もしく見える。


 セドリックのことをお兄様と呼んではいるが、兄とは違う頼もしい背中。


 やっぱり好きだなって、こんなときだが感じてしまう。


「で、でも! その女はあたしに意地悪で!」

「……なに?」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()に、あたしに意地悪するんです!!」


 それは原作の話だよね、と思わず口から出そうになった。転生者とバレるわけにはいかないし、腹いせをする気はなくてもこの気持ちを知られるわけにはいかないので、思い留まれた自分を褒めてあげたい。


 そんなファニーの心理状態を知るはずもないセドリックが、ファニーが袖をつまんでいるほうの腕を軽く振ったので、自然とファニーの手が離れた。


 失恋することがわかっているこの気持ちを伝えるつもりはもともとなかったが、人伝であったとしても、セドリックは妹からそんな目で見られているのはいやだったのだと知ってしまった。

 じわりと浮かびそうになる涙をなんとかこらえていたファニーの手を、セドリックが後ろ手ながら握ってきた。


 え、とファニーが驚いているうちに、セドリックが言葉を返す。


「ファニーはそんな浅はかなことはしない。ファニーは貴族令嬢の鑑だからね」

「そんなの、セドリック様の前では猫をかぶっているんです!」


 それはあるかも。セドリックにはせめて自慢の妹だと思われたいというのがあるから。


「視線ひとつで人を動かすことができるファニーが、猫をかぶる意味はない」


 なにそれこわい。試しに誰かを見てみようと視線をセドリックの背中から逸らしたファニーだったが、セドリックが繋いだ手に力を込めてきたので、そのあまりのタイミングのよさに、本当に視線ひとつで人を動かした気になってしまった。


(え、こわ……)


 とりあえずおとなしく、セドリックの背中だけを見ていることにした。


「え? 魅了ってこと? 原作にそんな設定はなかったけど、もしかしてバタフライエフェクト??」


 ここは魔法のない世界なので、魅了の力でどうのということもない。ファニーの瞳はヘーゼルアイだが、前世に比べるとそこまで珍しいものではない。なんといっても青色の髪が普通の世界なので、瞳に複数の色があっても、といったところである。前世が日本人のファニーにとっては珍しいものだが。


「魅了? たしかにファニーは魅力的だが、ファニーが人を動かせるのは、ファニーが貴族令嬢の鑑だからだ」


 先ほどからセドリックはファニーのことを貴族令嬢の鑑というが、それは大げさではないか。


「……わたしはただの伯爵家の娘よね?」


 こそっと友人に尋ねたが、友人たちはにこっと笑みを返すだけだった。


(え? なに、こわ……)


 まさか、本当に魅了の力が?

 知らないうちに周囲の人々を操っていたとか?


(いや、それはないわ)


 だってもし魅了の力があるのなら、最も身近にいる初恋の相手であるセドリックは、ファニーを好きになるはずである。しかし現実はというと、セドリックはアビゲイルに恋をしている。


「ファニーには最上級の令嬢教育を受けてもらったから、視線の動きや指先の動きで、人を動かすことができるというわけだ」


 セドリックの言いたいことがわかった。上位貴族があからさまな言葉を言わなくても、下位の者たちが忖度して動くやつだ。ファニーが先ほど妹系悪役令嬢としてセドリックや友人たちを動かしたのと同じ理屈である。


(いや最上級ってなに?!)


 ファニーは伯爵家の教育しか受けていない――と思い込んでいたが、そういえばやたらと厳しかったのは、自分が軟弱なのではなくて、最上級のものを受けていたからだったのか。


(セディお兄様は慰めてくれたり励ましてくれたけど、知っていたのね?!)


 とはいえ、伯爵令嬢でしかない自分が、知らないあいだに最上級の令嬢教育を受けさせられていた理由はわからない。


(セディお兄様め……!)


 これは腹いせ不可避、と妹系悪役令嬢の本領発揮として、繋いでいる手をファニーのほうから強く握った。なぜかセドリックが握り返してくれた。


「ところできみの家名は?」

「あたしに興味持ってくれたんですね?! バタフライエフェクトが収束したのかな」

「無駄にはしゃいでないで、さっさと答えなさい」

「セドリック様って意外とせっかちなんですね! え〜、どうしようかなぁ〜」


 初めは媚びていたのに、いまのジェマは答えを焦らしている。しかも優越感に浸るような声音で、勘違いも甚だしいと呆れてしまう。それはセドリックも同じようで、わずかに首をかしげてみせた。


「あの、セドリック様」


 仕草ひとつで人を動かすのは公爵令息であるセドリックにもできる。焦らすジェマをよそに、ファニーの友人がジェマの家名を告げた。


「ちょっとあんた、なに勝手なことをしているのよ!!」

「なかなか答えないきみに代わっての親切心を、無下にするものではないよ。――まったく、家名すらまともに答えられないとは、通う学校を間違えているのではないかな?」


 王立学園は貴族が通う学園である。特待生などの一部を除いた平民は別の学校に通う。その下の年齢の平民が通う学校もあり、セドリックは暗にそちらを指摘した。


「まあ、私たちには関係ないことだが。しかしここでのことを見過ごすわけにはいかない。最低限の礼節もわきまえられない者を、誇り高き王立学園に放り込んだ罪は重い。今回のことは君の家に正式に抗議するよ。きみの再教育の進言とともにね」

「はっ?」

「いつまでも平民気分が抜けないというよりも、これからも平民でありたいのだろう? だから貴族令嬢として必要な知識もマナーも覚えないというなら納得だな。貴族令嬢はただの身分の話ではないということをしっかり学んでから、身の振り方を考えるといい」

「あ、あたしには貴族の血が流れていて……」

「貴族令嬢の振る舞いができない者が言ったところで、だな。しかし平民からしても失礼な話ではある。そんな全方位にけんかを売っている者はこの学園の生徒にふさわしくない。――ほら」


 周囲を見るように促すセドリックに合わせてジェマが周囲を見て、そして「ひっ」と悲鳴が上がった。冷ややかな視線をジェマに向けている生徒たちの数は多い。さすがに平民たちは男爵令嬢であるジェマを直接見ることはしていないが、それでもその表情は苦りきっている。


「もっとも、貴族の血が、というのなら、ファニーに絡むのは最大の悪手だ」

「え?」

「言っただろう? ファニーは()()()()()()だと。そのファニーに手を出すということは、我々貴族を敵に回すことだと理解しなさい」

 

 それは大げさでは?

 セドリックは公爵令息だから、そのセドリックに手を出せばほかの貴族たちは黙っていないが、ファニーは伯爵令嬢。たとえ最上級の令嬢教育を受けたとしても、家の爵位は真ん中程度でしかない。


(でもなんでか友人たちも周囲の人たちも頷いているのよね……)


 いやなんで? と首をかしげたくなったファニーだったが、ここは妹系悪役令嬢として、面倒くさいことは丸投げすることにした。とりあえずこの場を切り抜けることが優先だ。


 ジェマの家にはセドリックの家から正式に抗議するらしいし、学園では生徒たちに睨まれてしまったので、これからジェマは肩身の狭い思いをすることになる。これに懲りてファニーに近づかなくなればそれでいいことにする。


「な、なんで、セドリック様がこんな女の肩を持つのよ!? 妹ポジションを持ち出してベタベタするそいつを嫌悪しているのに?!?!」

「それはファニーと私に対する侮辱と受け取るが? ファニーはたしかに私の妹として振る舞うが、貴族令嬢らしい距離感で接していて、私にベタベタすることはない。そんなファニーが私にすがるなんて、よほどこわい思いをしたんだな」


 ファニーはセドリックの袖をつまんだことを思い出した。婚約者でもない異性にするには、はしたない行為にあたる。いまはなぜかセドリックに手を繋がれているが、体面を気にして慌ててその手を離そうとした。しかしセドリックが手を離してくれない。


(ま、まあ? 日ごろの行いがよかったおかげでセディお兄様にはいい感じに勘違いしてもらえたからよしとするわ)

「それに私はファニーのことを世界の誰よりも大切にしている」

「えっ?!?! ――あ、妹としてね?!?!?!」


 危なかった。勘違いするところだった。

 ふう、とファニーが小さく息を吐いているところに、セドリックが顔をこちらに向けた。


「ひとりの女性としてだ」

「?!?!?!」


 周囲からは黄色い声が響いているが、ファニーとしては困惑しかない。だってセドリックが好きなのはアビゲイルだから。


「はいはい、おまえたちのすれ違いは向こうで解決してくれ」


 ファニーたちを囲む人だかりのあいだからイーサンが現れた。


「あっ、悪役令息のイーサン!」

「はあ? 失礼な女だな。ファニーに絡むだけのことはある」

「ファニーのことは悪役令嬢と言っていたらしい」

「俺たちは悪役兄妹ってことか? ……いったいなんの?」

「さあ? テンセイシャとかわけのわからないことも言っていたようだから、この女の頭の中だけの話だと思う」

「へえ、よくわからないがそれが望みなら、悪役になってやる。職員室に突き出してやるから覚悟しろよ。あと当家からも正式に抗議する」


 それは正義の味方、とファニーは心の中でツッコミながら、騎士志望の女子生徒たちに両腕を取られて強制的に歩かされているジェマを見送った。


「さて、ファニー」


 繋いでいた手を離したセドリックが振り返る。


「少し話をしてもいいかい?」


 有無を言わせない笑顔で尋ねてくるセドリックに、ファニーに選択権はなかった。



  ***



 ファニーはセドリックにガゼボへと連れて来られた。隣り合って座ることはともかくとして、膝が触れそうなほど近いのはいったいどういうわけなのか。――気さくな兄妹の距離感とはもう言えない。だって先ほど、セドリックはファニーのことを「ひとりの女性として」と言ったのだから。


 しかし、ファニーからすると、でも、と言いたい。セドリックが好きなのはアビゲイルではないのか、と。


「あの、セディお兄様。先ほどはありがとうございました」

「うん。あれぐらいはどうということはないが、ファニーに頼ってもらえて嬉しかった」


 にこりと見せてくれるセドリックの笑顔は、いつもの優しいお兄さんというものではなかった。頼もしくて、少し熱っぽくて、男の人だなと思わせる笑顔だ。


 その笑顔を初恋の相手に向けられてはドキドキするに決まっている。――セドリックが好きなのはアビゲイルなのに。


 それなのに、なぜ、セドリックはファニーのことを女性として世界で一番大事と言い、このような笑顔を見せるのか。


「……セディお兄様は妹思いですからね」


 膝の上に置いている手へと視線を落として、セドリックの言葉を否定することを言った。ファニーには彼の真意がわからないことと、自分が傷つくのが怖くて逃げたのだ。


 セドリックはアビゲイルのことが好きなのだと思い込んでいたときは、自分は失恋するのだと諦めていたから彼の妹として、壁としてそばにいることができた。

 しかし、いまはどういう意味でファニーをひとりの女性と見なしているのかがわからない。たとえ妹ではなかったとしても、それがイコール初恋の成就になるかはわからないから、向き合うのがこわい。ここで期待して、でも恋愛とは無関係だと知ってしまえば、きっと冷静ではいられないから。


 落とした視線の先で、セドリックの手がファニーの手に重なった。そのまま持ち上げられた手を追って顔を上げたファニーへと、セドリックが顔を覗き込んできた。


「――っ」


 セドリックは少し傷ついたような表情をしていた。


「先ほども言ったが、ファニーは妹ではない。ひとりの女性として見ている。私は、そんなファニーに頼ってもらえて嬉しかったんだよ」

「……でも」


 ファニーはセドリックから逃げるように伏し目がちになった。


 セドリックが好きなのはアビゲイルなのに。


 その言葉は声には出せなかった。


 セドリックがアビゲイルを好きであるということは、本人から聞いたものではない。ただファニーが、ずっとセドリックを見ていたファニーがピンときただけのことだ。セドリックがアビゲイルを好きであることをファニーが受け入れていても、本人の口からそれを認められるのはいやだった。


(……受け入れているようで、受け入れ切れていないのよね)


 ものわかりのいいふりをしているだけにすぎない。

 だってファニーはこの初恋を、まだ手放してはいないのだから。


「あのね、ファニー」

「……はい」

「きみが勘違いしていることは気づいていたよ」

「……はい?」

「私はアビゲイル嬢に恋などしていない」

「はい?!」


 視線を合わせないようにしていたファニーだったが、思わずセドリックを見てしまった。セドリックは申し訳なさそうな表情をしていた。


「ファニーは私とイーサンとアビゲイル嬢の三人を眺めるのが好きだから、あえて四人で会っていたにすぎない」

「えぇ……?」

「私が学園に通う歳になったことで、そろそろファニーに会う理由が必要になってきたから、ファニーのそういうところを利用させてもらったんだ」

「えぇ……」


 成長したことにより貴族らしく体面を気にしないといけないのはそのとおりで、そのための理由を用意したのも当然で、しかしその目的だけをファニーは間違っていたらしい。


「そのうちファニーが私の気持ちを勘違いしたのには気づいたが、指摘して嫌われてしまうのも怖かったし、では四人で会う必要はないと言われてしまうのもいやだったから放置してしまったんだ。あのふたりが理解してくれていることもあったし。それに、ファニーは私の気持ちを勘違いしたとはいえ、静観していたということもあってね」

「それはセディお兄様の意思を尊重したかったと言いますか……」


 初恋の素晴らしさも、成就しない悲しさも知っているファニーが、セドリックになにかを押しつけるなんてしてはいけない。それにセドリックの恋に関われば関わるほど、ファニーの失恋も重くなっていく。だからそれは自分自身を守るためでもあった。


「うん。ファニーのそういう押しつけがましくなくて、でも理解しようとしてくれるところを好ましく思うよ。弱音を吐いても投げ出さないところとか、頼るべきところは頼ってくれるところとかも」


 ファニーの手を大事そうに両手で包み込んでいるセドリックの手が熱い。その瞳には先ほどよりも熱量が増している。初恋の相手にこうまでされて、ファニーの心臓は痛いくらいにドキドキしている。顔はきっと真っ赤になっているに違いない。


「あ、あの、セディお兄様……」

「お兄様ではないよ」

「えっ?」

「私たちに血の繋がりはない。私をひとりの男として見てほしい」

「あ、あの、どうして……」


 ここまでくればさすがにセドリックの言いたいことはわかる。わかっていても、卑怯にも試すようなことを言ってしまった。ファニーはセドリックに真っ赤な顔を晒しているので、それで勘弁してほしいと心の中で言い訳した。


「私がファニーのことを、ひとりの女性として好きだからだ。私の初恋はファニーだよ」


 途中で気づいたとはいえ、セドリックの口から告白されたファニーは感情が爆発しそうになった。おかげで、口からは「あ」とか「う」とかしか出てこず、まともに言葉も返せない。

 令嬢教育はこんなときにはその威力を発揮してくれなかった。しかもファニーが受けたのは最上級のものらしいのに。


「真っ赤になってかわいい」

「やだ、見ないで……」

「潤んだ瞳がきらきらしていて、まるで宝石みたいだよ」


 うるうるするヘーゼルアイは見てみたいが、ファニーが自分自身のどこを気に入っているかを知っているセドリックが、ちゃっかりと教えてくれるところがうらめしい。


「そんなの知らない。セディお兄様だけひとりじめしてずるいです!」

「私はお兄様ではないが、ファニーも見たことのないファニーを私だけが知っているのは気分がいいね」

「意地悪!」


 ぷんすことと怒った表情で睨むファニーに対してセドリックは少し笑ってから、その表情を改めた。そんなセドリックに対して、ファニーも感情を抑え込む。


「ファニー、私の気持ちは先ほど言ったとおりだよ。私はどんなファニーのことも知りたいし、守りたい」


 セドリックの両手で包まれているファニーの手を、セドリックが優しくひと撫でした。


「これからもずっと、誰よりも一番近くでファニーと一緒に過ごしたい」


 真っ直ぐに見つめてくるセドリックの瞳はとても澄んでいる。それでいて真剣で、ファニーのことをどんなに望んでいるのかがわかった。


「だから、私に縁談の申し込みの栄誉を授けてくれますか?」


 貴族とはいえ、恋愛結婚はこの世界には普通にある。しかしそれは結婚相手を親に紹介するのではなく、家に縁談の申し込みをするのが決まりである。だからセドリックは、ファニーの意思を確認してくれた。


 セドリックは公爵家の跡取りである。伯爵家は上位貴族のカテゴリーに入るとはいえ、格差がある。それでもセドリックがファニーを望んでくれるのは、彼がファニーを好きだからであり、公爵家もファニーのことを認めてくれているからだろう。そうでなければ、次期公爵として教育を受けた彼が感情だけで動くはずがない。


 それに、ファニーが最上級の令嬢教育を受けたことをセドリックが知っているということは、公爵家はきっとファニーのことを囲い込むつもりだったのだろうなと気づいてしまった。そして他家の娘の教育に口を出すということは、両家が了承しているということで、さらには水面下で婚約の口約束を、もともとしていたんだろう。なんといっても両家の妻は親友同士だし。


 セドリックは巻き込まれた側なのかどうかまではわからないが、目の前にいる彼の気持ちは本物で、こうやってファニーに了承を得ようとしてくれるのも、ファニーに対して誠実でいようという現れだろう。


 そうであるのなら、ファニーは安心してセドリックに任せればいい。この初恋も報われたことだし。


「はい。私をあなたの妻にしてください。――セディ様」

「――っ、ありがとう、ファニー」


 感極まったように上擦った声でセドリックがお礼を言ってくれた。それだけでなく、しっかりと抱き締められてしまった。


「ファニー、一生大事にするからね」

「はい。私も、セディ様のことを大事にしますね」

「私のファニーがけなげすぎる」


 つい先ほどまでは妹系悪役令嬢としてセドリックを動かしていたはずなのにね、と考えたところで肝心なことを言っていないことに気づいてしまった。


「あの、セディ様」

「なんだい?」

「私の初恋も、セディ様なんです」


 それまではファニーのことをしっかり抱き締めていたセドリックは、勢いよく身体を離してファニーの顔を見てきた。


「ほ、本当に?」

「ほ、本当です。だからセディ様の初恋を応援したかったと言いますか……」

「私の初恋はファニーだから」

「そうみたいですね。でも、わたしと結婚してくれるんですよね?」

「する! ファニーのことを一生離さないから!」


 ファニーを見つめてくるのはいいのだが、セドリックから重たさを感じる気がする。


「ファニーのことをたくさん甘やかすし、たくさん頼ってくれてもいいからね?」


 重たいやつ確定である。


(でも、頼ってくれていいっていうし……)


 声には出さなくても、ファニーが妹系悪役令嬢らしくセドリックにいろいろ動いてもらうのは合意ということで――


「頼りにしていますね? セディ様」


 ファニーはにこりときれいな笑みを浮かべながら小首をかしげた。


「……口づけてもいいかい?」

「えっ、そんな急な……」


 美形に熱っぽく見つめられて、しかもそれが初恋の相手であれば、直視できなくて伏せ目がちになってしまっても仕方ない。

 セドリックはそれをどう受け取ったのか、顔を近づけてきた。


「あ……」

「ファニー、愛しているよ」


 ふわりと、セドリックの前髪がファニーの前髪に当たる。


「きらきらの瞳が私だけを映しているのも愛しすぎる」

「せ、セディ様っ」


 唇は重なっていないが、セドリックの息がファニーの唇に触れてもう限界だった。


 こんな超至近距離でいったいどうしろと。


 耐え切れなくなったファニーが顎を引こうとしたところで、セドリックの唇が重なった。


 それはほんの少しの時間だったが、諦めていた初恋の人との、気持ちが通じたうえでの初めての口づけなので、ファニーの心に深く刻み込まれた。優しく抱き締めてくれるセドリックに身を任せながら余韻に浸る。


「ファニーは私を翻弄するのがうまいね」


 いまは妹系悪役令嬢として振る舞っていなかったのでどのあたりが、と言いたくなるのをぐっとこらえた。妹系悪役令嬢(それ)の存在を知られてしまっては、いざというときに使いものにならないかもしれないからだ。


「わたしだってセディ様に翻弄されています。いまもまだドキドキしていて……」

「ファニー……」


 抱き締めてくれるセドリックの腕がぴくりと動いた。また口づけをと言われても、ここは学園のガゼボなので、あまり回数をするのはよくない。


「だから早く縁談の申し込みをしてくださいね?」

「もちろん、今日すぐにでも父に言うよ。――しかし、ファニーは私の扱いがうまいね」


 ファニーとの口づけ回避の餌は、ファニーに関連することでなければ納得しなさそうだったので。セドリックの愛は重たいみたいだし。


「誰よりも一番近くでセディ()()()を見てきたので」


 だからファニーは妹系悪役令嬢になるのである。



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