弐:マルタの形見の品
村の出入り口の立塔を過ぎ、道切りの道祖神の石像のところへと差し掛かる。俺は村を見守る神様たちへと詫びるように手を合わせた。
「村の娘さんを泣かせちまいました。勘弁しておくんなさい」
すると、その声に応じるかのように物陰から人影が現れる。
「マルタさん?」
それはマルタだった。普段着のワンピースに前掛け、そして、外出用だろう頭の被り物の付いた肩掛けをつけて佇んでいる。彼女は俺を見つめながらため息混じりに問いかけてきた。
「下手な芝居するんだねあんた」
俺がリーアを乱暴に扱ったことを言っているのだろう。俺は笑みを浮かべつつ答えた。
「こうでもしねぇと、あのお嬢さんはあっしに惚れたままです。許婚者まで居る娘さんが俺みたいなならず者に情を残しちゃいけませんぜ」
「不器用だねぇ」
「こう言う生き方しかしりやせん」
それは事実だ。もっと器用な生き方もあるだろうが、俺にはできない。
「それじゃ――」
俺は〝ごめんなすって〟と告げて立ち去ろうとした。だが、マルタさんがさらに声をかけてくる。
「ちょいとお待ちよ」
村に未練を残したくなかった俺は思わず睨み気味に視線を向けてしまった。
「まだ、あっしになにか御用で?」
思わぬ表情を向けられて、マルタは戸惑っていた。
「そう、睨まないでおくれよ。恨み言を言いに来たんじゃないんだからさ」
そう言いながら、物陰に隠しておいた何かを取り出す。それは大きな肩掛けのように見える。
「これを渡しに来たんだ」
マルタが差し出してきたのは、まるで俺が身に着けている道中合羽のようだった。そして、革製の草鞋のような履物だ。
「息子の形見さ」
そう語るマルタの表情はやけに寂しげだった。
「息子は、神落としの男を庇って、村の外れで彼を匿ったんだ。でもそれは結局、領主にバレちまった。役人に連れてかれる時、その目は、まるで私に向かって〝信じてくれ〟と訴えているかのようだったよ」
「神落としの人間を匿っただけで連れて行かれたのですかい?」
「あぁ、この土地の領主、マルクスには、それだけで敵意を持ったとみなすには十分なんだ。口では尋問するためと言ってたけど結局帰ってこなかった」
「お役人に訴えることは?」
「しても無駄さ。領主の地位と権力は絶対だからね。領主よりさらに上の奴らに訴えてもあたしらみたいな下々の人間の声なんか聞いちゃくれないよ」
そう語るマルタの目から涙がこぼれ落ちる。
「生きていれば、あんたと同い年だろう。あんたを見ているとまるで息子が目の前に居るようだった。だから、私はそれが辛くて辛くて――」
すすり泣く声が嗚咽に変わる。だからこそ、マルタは俺のところにやってきたときにつっけんどんな態度を取ったのだ。
「だからあんたに――ごめんよ――」
それでも彼女の口からは詫びの言葉が漏れていた。それが彼女の本当の人柄なのだろう。マルタは俺に背を向けると涙を拭った。懸命に笑みを浮かべつつ振り向いて言葉を続ける。
「息子の形見だけどさ、貰ってくれるかい? あんたがつけているその〝マント〟随分傷んでるようだったからね」
マント――道中合羽の事だろう。渡世人となってからずっと使っていた一張羅だ。擦り切れて当然だった。彼女は俺のところに近寄ると俺が答えるよりも前に俺の道中合羽と、彼女がよこした皮マントを取り替えてくれる。まるで母親のように――
「これを着ておいき。そしてせめてどこかで生きておくれ」
マントの次は履物だ。足袋の上に草鞋を履いていたが、そのかわりに具合の良さそう革製の丈夫な網上げのサンダルを履かせてくれた。こっちの世界では草鞋は手に入らないだろうから、これもこれでありがたい贈り物だった。
「さ、できたよ」
その言い方もまるで母親のような優しさがあった。俺はもはや記憶の片隅にすらなかった亡きお袋の面影をかすかに思い出していた。
「あっしには母親がおりやせん。物心付く前に流行り病で亡くなりました。生きていれば御新造さんと同じくらいだったでしょう」
俺は真っ向からマルタのお袋さんに向き合った。そこにはマルタさんの寂しげな笑みが浮かんでいた。
「もし、この空の何処かであんたさんの息子さんに会えたら、あんたが待っているとお伝えいたしやす」
マルタさんは再びその目に涙を浮かべていた。
「元気でね。達者に暮らすんだよ」
「へい――」
俺は腰を折って深々と頭を下げる。その時、もし神落としの人間にまつわる厄介事がなければこの村に残れたかもしれない。マルタの世話になり、親子のように暮らすこともあったかもしれない――そんな光景が頭をよぎったが、すぐに追い払った。俺は渡世人の流れ者だ。一つ所には居れない宿命なのだから。
「それじゃ。ごめんなすって」
それが今生の別れの言葉だった。道中合羽の代わりに貰った皮マントを翻し、皮サンダルで地面を踏みしめながら俺は歩き出す。
俺はそのまま振り返らなかった。なぜなら、そこには泣き崩れているだろうマルタの姿があるはずだから。
今でも思う。
泣いている女の姿は見ているだけで辛い。
こうして俺はコルゲ村を後にしたのだった。