【短編改稿版】しんとりかえばや。
以前書いた平安異世界恋愛の改稿版です。
今度コミケで本にする予定なので、ちょっとここにアップしておきます。
開幕。
それはまん丸い月が一番大きく見えた夜。
西の方と東の方の両方で、それぞれ赤子が産声をあげた。
西の方に生まれた赤子はとても元気で、おぎゃぁおぎゃぁと泣いたと思うと母の胸に縋り付き乳をごくごく飲むという丈夫な子で、もうこれは何も心配はないとお医師も帰っていったくらいであったのだけれど、
東の方に生まれた赤子はひやんとも言わず、乳を与えてもすぐに吐き、血色も悪く、これはもう長生きは出来ないだろうと思われる始末。
このままではこの子は長生きは出来まいと諦めた主人に対し、東の方は泣いて訴えた。
「この子が助かるためには女子として育てよと仏のお告げがありました。旦那様がお見捨てになるのであれば私はこの子と共に尼寺に入ります」
髪を振り乱し、神がかって訴える東の方の圧に負け、藤原のおとどは「好きにするがいい」と、その場を逃げるように去ったのだった。
さて。
反面、西の方に生まれた赤子は女児であったのだけれど、これがまた普通の女児とか比べ物にならないわんぱく者で、とにかく遊ぶなら蹴鞠、木登り、魚釣り、と、周囲のわっぱを引き連れガキ大将の様に成長し、これまたおとどを困らせて。
これは、女子として育った男の子の姫と、男の子のように育った女の子の若君の、とりかえられた二人の物語。
開幕です。
春の月を眺めながら。
「やっぱりわたしは夕顔が好きだな。あの儚さ。もうほんと理想」
「あたしは若紫がいいな。叶わぬ恋より最後は源氏の妻になる若紫の方が良くない? 知的で優雅でやっぱり最高だとおもうなぁ」
春のうららかな陽射しが差し込むそんな気持ちのいい午後。
わたしはそば付きの女房少納言とそんな源氏話で盛り上がったあと。
畳に寝そべって猫のミケコを撫でながら、ねえ少納言と声をかけ。
「もし、もしもよ、好きな人が出来たのならわたしのことなんかいいからその人とちゃんと添い遂げてね」
と、少し小声で呟くように話す。
親戚筋でわたしの子供の頃からずっと一緒だった少納言。
ほんとうを言うと、わたしはこの少納言が居なければなんにも出来ない。もう私生活全て頼りきりで、居なくなっちゃったらどうしようもなくなっちゃうから困るのだけれど。
でも。
こんなわたしなんかのためにこの子が犠牲になるなんてダメ。
そん気持ちも強いのだ。
「そうですねぇ。姫様もそろそろ裳着ですし、無事殿方とご結婚なされたら私も考えますかねえ」
ちょっっ!
「ちょっと待って少納言! そんなの、無理に決まってるでしょ! わたし、男の子なんだよ!? 身体は」
「男の子だからって無理って決めつけはいけないですよー。もしかしたらそんな姫様を受け入れてくれる殿方が現れるかもですしー」
「うっきゅう……。もう、少納言。あなたすっかり物語に毒されてない? 男色のお話はいっぱあるけど、現実に結婚となると難しいでしょ?」
「そうですかねー。って、私は姫様には幸せになってもらいたいだけなんですけどね」
とうを四つも過ぎた今となってはもう男の子として生きるのは諦めた。
っていうか、まぁ、無理?
おたあさまが許さないしわたしも望まない。
せっかく生まれ変わったんだから、この人生もちゃんと生きなきゃ、楽しまなきゃ、とは思ってるんだけどなかなかね。
わたし、瑠璃。
一応摂関家の姫ってことになってるけど実は男の子。
身体の弱かったわたしはおたあさまによって女の子として育てられ、なんとかここまで生きてきた。
今にも儚くなりそうだと言われ続け早十四年。最近じゃもう熱を出して寝込むことも少なくなったし少しは元気になってきたかな?
でも。
夕方。
そろそろ日がかけてきたので御簾を下ろして蔀を閉じる。
夕食は干し鮑に鰯の煮付け。お米が食べられるのは嬉しい。蕪のあつものは醤仕立て。ちょっとしょっぱい。
配膳は少納言がやってくれるのでわたしはとりあえず待つだけだ。
この世界、位の高い女性ほどあまり動かないってきまりらしい。筋肉なんかつかないよね。
その上こんな着物、いっぱい重ねて着てるからもう重くって。
わたし、ほとんど動けないかも。
このままじゃいけないとは思ってるんだけど無理するとお熱が出たら大変と、身の回りのことは全部少納言がやってくれるからそれに甘えてる。
ゆったり座るか寝そべるか、ねこを撫でるかしてないかも。
ご飯を食べ終わって外を見るとそろそろ月が昇ってきてた。
少納言が月が見えるよう、その部分だけ御簾を開けてくれて。
ああ。
わたしほんとにこのままでいいのかな。
月を眺めながらそんなこともつらつらと考えてた。
わたしが自分の事、前世の記憶をを思い出したのは、五つの時。
その時の強烈な出来事に脳がパンクしたのかその夜ものすごい熱を出して寝込んだのがきっかけだったかも。
あれは、お参りをするといって神社に連れて行かれた時のこと。
実はこの時はまだ前世の記憶を思い出していなかったから、自分がおかしいってことにも気がついていなかった。
何故か隣にいるわんぱくそうな男の子がわたしとそっくりなことが不思議で、おもうさまにこの子誰? って指差して聞いたのだ。
向こうも同じようにこいつ誰? って言ってたからおあいこかな。
そしたらおもうさま、ああ、お前達は二人ともわたしの子、瑠璃、お前達は兄妹なのだよ、と、そう言うではないか。
確かに。鏡で見る自分とほんとそっくりだとは思いつつ、わたしよりもちょっと大柄なその子がちょっとだけ怖かった。
後ろで待ってるおたあさまは、ギロリとその子を睨み、そしてお隣にいる女性に睨み返されてた。
ああ、彼女があの子のおたあさまなのね、と、瞬時に判断して、わたしはとりあえずにこりと扇をアテ会釈した。
そして。
わたしとにいさまはそのあとお庭の池の周りで一緒に遊んだのだ。
楽しかったな。
にいさまはカエルを手に取ってはいってわたしにくれて。
わたしは何かわからないうちに手に乗せられたカエルのそのベタっとした感触に、泣き出してしまい……。
一生懸命謝ってくれにいさまに、ちょこっとココロを許せたんだった。
しまいには二人して笑顔になって一緒に笑ったっけ。
でも、そこまでだった。
わたしはその後衝撃的な場面を目撃してしまい、そのまま蹲み込んで熱をだしたらしい。その時のことは今となっては夢なのかほんとなのかもよくわからないくらいで。
ただ。
考えてみたらあれは当然、当たり前だったのかも。だけど。
そのときわたしは、あのわんぱく小僧に見えたにいさまが神社のお庭の草叢でしゃがんで用を足す姿を目撃したのだ。
それこそ他人がしゃがんでぺたんこになって用を足す姿を見ることなんて、前世であっても無かったかもで。
このわんぱくにいさまが実は女の子だということに衝撃を受け。で、熱を出して寝込んだことで、前世の自分と今の自分に生物学的に差異がある事にも気がついた。
そして、自分がいた時間軸が、此処よりも遥か未来であったことにも。
それまでの記憶はもう曖昧にしか覚えて無いけど、それも前世の記憶が大量に頭に流れ込んできた弊害かも、だ。
前世でわたしはアラサーで、恋人いない歴年齢、というとても残念な腐女子だった。
けっこういろんな本を読み漁ったけど、一番好きだったのはBLジャンル。
と言っても、あんまりあからさまなのは恥ずかしくてなかなか読めなかったけど、なんとなくふわんとしたお話が好きだったのかな。
自分でも恋愛モノのお話書いたりするそんな感じで。
名前は弾正明日香。
なんとなくぼんやりとしか記憶が無いのでいつ死んじゃったのかとかそういうのも覚えてない。
でも、もうじき三十路? ってところまではなんとなくだけど意識があるから、そのあとで事故にでもあったのかな。
生まれ変わって、ほんと今にも儚くなりそうだと言われ続け、わたしは他の同年代の子供と比べ少し成長が遅いものの、なんとか生きながらえてきたらしい。
最近は少なくはなったけれど、先日も気がついたら熱に浮かされもう死んじゃいたいと思って目が覚めた。
起きた時には少し楽になっては居たけれど、この虚弱な身体がほんと恨めしい。
ああ、あの子と身体が取り替えられたらな。
ほんと、羨ましいったらない。
まあ、こんな身体でも生きているだけマシなのか、そうも思うけれど。
この時代はものすごく不便な時代だとは思うしこの身体はほんといろんな意味でダメなんだとは思うけど、
でも、死んじゃってもまた生まれ変われるとは限らない。
いや、輪廻転生で今度は虫とかに生まれるとかだったら嫌だ。
そう、確か、自殺だと良い転生は望めないとかなんとか昔何かで読んだ覚えもあるし、自分で命を絶つとか諦めるとかは論外だ。
今のこの与えられた生で、性で、なんとか生きて行かなくっちゃ。
そう決意を固めたのだった。
☆瑠璃の君。五歳。
あたしがはじめてその子を見たのは五歳の時。
おもうさまに連れられ神社にお参りに行った時のこと。
おたあさまにとっての理想のあたし、理想の瑠璃姫がそこに佇んでいた。
いつもいつも姫らしくしなさいとうるさいおたあさま。でも、そこにいたのはまるでそんなおたあさまがあたしになって欲しいのだろう理想のあたし。
たおやかに扇をあてにっこりと微笑むその姿に、まだ五歳の女児とは思えぬ大人っぽさも相まって、あたしの目は釘付けになっていた。
思わずこいつ誰? っておもうさまに聞いたら、その子も、
この子誰? って指差して。
ちょっと生意気? そう思った時、
「ああ、お前達は二人ともわたしの子、瑠璃、お前達は兄妹なのだよ」とそうおもうさまが言うではないか。
あたしたちはふたりして見つめ合い互いに納得しあったのだった。
池の周りで遊んで。
春の陽気にあてられて出てきたちっちゃなカエルをそっと拾い。
面白半分に、「はい、これあげる」って瑠璃姫にわたしたあたし。
どんな反応をするのかみたかったのもあるけど、たぶん悪戯してやろう、そんな気持ちもあった筈。
そしたら。
手のひらにカエルが乗ったその瞬間。
姫はものすごい勢いで泣き始め。
うっくひっく、うう、とやっと声が小さくなったところであたしはカエルを取り上げ謝まった。
もう、ごめんってば、泣かないで瑠璃姫、お願いだから。
そんな感じで謝ってるうちにあたしまで涙が出てきて。
ふっと、彼女が笑った。
その笑顔がものすごくかわいくて。
あたしも、一緒になって笑ったのだ。
ああ。この子はあたしの半身だ。
この子が悲しければあたしも悲しい。
この子が笑えばあたしも嬉しい。
双子じゃ無いけど、きっと双子みたいな運命なのかな。そう思って。
そのまま二人で遊んだ。
お花を摘んだり花輪を作ったり。まるで女の子みたいな遊びは新鮮で楽しかった。
って、あたし女の子だった筈?
だけど、この子といるとほんとに自然なあたしになれる気がして。
もっともっと一緒にいたい。
そう思ったところで彼女が急に倒れた。
蹲って苦しそうにして。あたしは思わず抱きとめたけど、なんだかものすごく身体が熱くなってて、怖かった。
そのまま大声で人を呼び、なんとか事なきを得たところまでは覚えてる。
あたしもその夜は少し熱を出し、そのまま寝てしまったから。
彼女が理想のあたしなら、あたしは一体なんなんだろう?
そんなこともちょっと思う。
でも。
おたあさまは姫らしくしなさい、とか言うけれど、
あたしはじっとしているのは嫌。
何をするのも女房に任せ、じっとして、そして微笑む。
歌を読むのもするっと喋るだけで書きものだって自分ではさせて貰えない。
こんなの、生きてるって言える?
別に殿方になりたいわけじゃない。
ただ、動き回りたいだけなのだ。
空の青さ。
風の匂い。
水のせせらぎ。
そして、土の感触。
それらを全て自分自身で感じたい。
それだけなのに。
姫だというだけでそれらは全て取り上げられる。
そんなの。おかしいよ。
あるときあたしは言った。
東の瑠璃がいるじゃない。あたしが姫をやらなくてもあの子がいるでしょう?
そう、不満をぶつけ。
そうしたらおたあさま、
東の子はあれはあれで不憫なのですよ、と。
男として産まれたにも関わらず東の方によって姫として育てられたのです。
あなたのように好きに生きているわけではないのですよ。
かわいそうだとはおもわないのですか?
と。
あたしは目の前に雷が落ちたかのような衝撃を受け、そして。
どうか神さま。
あたし、男の子になってもいいです。
だから、瑠璃姫をほんとうの女の子にしてあげてください。
あたしは子供心にそう、祈ったのだった。
◇◇◇
「るーりひーめー。いる?」
対屋の中央に流れる川を伝ってにいさまが東の対にやってきた。
相変わらず男の子みたいな装束で走り回ってるらしい。身軽そうで少し羨ましいな。
もうわたしたちも十四になるし、そろそろ元服だの裳着だのと話が来る頃。どうやらおじいさまがおもうさまをせっついているらしいとは聞こえて来るけど、ほんとどうする気だろう?
「にいさま、どうなさったのですか?」
わたしは御簾の中から一応扇で顔を隠してそう答える。
いくら兄妹だとは言え、顔を見せるのははしたない。
「ああ。風が気持ちのいい季節になったからね。姫を散歩にでも誘おうと思ってさ」
そうにっこり笑って話すその姿は、もうほんとどこのやんごとなき公達かと思わんばかりの色気と眩いばかりの色香を振りまいて。
ああ、まさに今が盛りの大輪の菊のように艶やかだ。
もちろん、にいさまは摂関家の姫。その容姿も格別で珠玉の様だとはこれも聞こえてくる噂。
まあでも、この屋敷の中ですらおもうさまより緘口令が敷かれていることもあり、また古株の女房らは軒並みお暇を出されてしまっていて、後に残る者はほとんどがにいさまを若君、わたしを姫君と信じている者ばかり。
そういう意味ではお付きのごく少数の女房だけがわたしにとってもたぶんにいさまにとっても、ほんと頼りなのだとは思うけど。
それこそ月の障りの時なんか知ってる女房が居ないと困るだろうに、と、そうも思う。
「外にでるのはちょっと……」
「そんな閉じ籠ってばっかり居たらダメだよ? もっと身体を動かそ? きっと気持ちがいいよ?」
にいさまが悪気が無いことくらいはわかる。
でも。
この格好ではやっぱり難しい、な。
「それよりも。にいさまのところも元服元服煩くはありません?」
「ああ、殿上人っていうのも悪くは無いかもね。あたしの柄じゃ、無いかもだけどね」
そういってあははと笑う。
もう。危機感がなさすぎる。
わたしだったら、もしばれたらどうしよう、とか心配しまくりだけど、にいさまにはそういうとこはないの?
わたしが心配してるだけ?
もう。やんなっちゃう。
しゃべるだけしゃべったら、
「じゃぁまたね」
って笑顔で帰って行ったにいさま。
ほんとお気楽に見えるな……。羨ましい。
前世の記憶と照らし合わせながらこの世界のことを考えて。
ある時すごく大事なことに気がついたわたし。
今のわたしとにいさまの状況って、まるで昔読んだおはなしの「とりかえばや 」そっくりじゃないかって。
もしかしてここはとりかえばや の、おはなしの、そんな世界なの?
時間軸が過去なだけの、普通の平安時代に生まれ変わっただけ、じゃなくて。
もしかして、ここはおはなし世界なのだろうか?
わたしはおはなし世界っていう異世界に転生しちゃったの?
だとしたら……、ちょっとまって、それってすごくまずいよね?
どうしよう……。このままじゃ大変な事になっちゃう……。
わたし、とりかえばやの弟姫って実はあんまり好きじゃなかった。
だって、よ。
最初は女々しくて何もできない感じだったのに、結局男にもどったらいろんな女に手を出して。
もちろんそういうのがこの今の平安の貴族の世では雅だとかなんだとか言われるのはわかってる。
常識が違うっていうのも。
源氏物語は物語だからいいの。
現実に自分が源氏に振り回される身だったら、とてもじゃないけどやってられない。
さっさと儚くなっちゃわなきゃ、ほんと耐えられないなって、そうもおもう。
だから。
もしわたしがとりかえばやのように宮中に上がらなければならなくなったとしたらって考えるだけでだめ。
なんとしてでも逃げなくちゃ。
逃げ出さなくちゃ。
◇◇◇
おもうさまが普段こないわたしの部屋に訪ねてきて、目の前で座りため息をついている。
って、これってどういう状況?
昨日にいさまがやってきたと思ったら今日はおもうさま。
おっきなため息をついたかと思えば、そのまま黙り込んで。
で、またため息をつく。
もうそんな繰り返し。
って、おもうさまもなんか随分とやつれてるな。まだ三十台後半のお年のはず。まだまだ元気で居てくれないと、とはおもうんだけど。
「どうかなさったのですか? おもうさま」
あまりの沈黙に耐えきれず、わたしの方からそう切り出してみた。
「父上がな、お前の腰ゆいをぜひ自分にと言って聞かないのだ……」
え?
腰ゆいって。
え?
もしかして、裳着の話?
えーーーー?
おじいさまのお屋敷には一度だけ行った事がある。
というのもなかなかにお忙しいおじいさまは、お屋敷にいらっしゃる時間が少なくて。
もちろんお屋敷は贅を凝らしたご立派なお屋敷で、そこで働いている人も多いしいろんな人が出入りする。
たぶん政が此処で行われていたんじゃなかろうか、って思うようなそんなお屋敷。
おじいさまはかなり活動的な方だったから、そんななかでもあちらこちらと出歩かれ、お屋敷は半分おもうさまが管理してるとかも聞いた。
おもうさまは朝内裏へ参内し午後はおじいさまのお屋敷で指揮を執り、そして夜自分のこのお屋敷に帰っていらっしゃる。
完全に仕事場って雰囲気だよね? おじいさまのお屋敷って。
だから。
おじいさまの方から会いに来てくれる時にしかなかなかお会いできないんだけど、ほんと一度だけそのお屋敷に連れて行ってもらったことがあった。
七歳の誕生日、にいさまと二人、おじいさまのお屋敷でのお披露目会みたいなの、だった。
綺麗な望月がお空に浮かぶ夜。まるで手を伸ばせば届くのじゃないかと思うほど大きく見える月を眺め。
たくさんの人が集まる場の中央で、わたしとにいさまは琴を奏で歌を披露した。
満面の笑みで褒めてくれたおじいさまのその大きなほおに抱きついて頬擦りして。
すごく楽しい宴会だったのを覚えてる。
そして。
たぶんわたしにとって一番衝撃だったのがその時に披露されたおじいさまのお歌。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
そう高らかに詠ったおじいさま。
え?
って思ったけど、逆に納得もした。
そうだよね。おもうさまは摂関家の嫡男。紫式部さんも御存命だ。と、すれば。
おじいさまが藤原道長様だっておかしい話じゃない、よね?
この世界のわたしの状況、おはなしのとりかえばやそっくりだと思ってる、けど。
とりかえばやには道長様は出てこない、けど。
でも、とりかえばやのおもうさまが関白左大臣だったのも事実。
で、道長様の孫にわたしみたいのは居ない。少なくとも歴史上そんな取り替えられたっていう姫は居ない。
歴史には残らなかっただけかもしれないけど。
歴史のIF。
とりかえばやのおはなしが紡がれた事により生まれたパラレルな世界?
おもうさまが自分の名前を書くところを見たことがあるけど、頼道って読めた。どう見ても道の字。
わたしが習った歴史では、道長様の嫡男は頼通様だったはず。
そのあたりもなんだかパラレルっぽくて。
頼通様の一人娘寛子さまは確か後冷泉帝に嫁いだはず。
にいさまの諱は威子、わたしは寿子。この時代、こうした諱は表には出さないからそう呼ばれる事も無いけど歴史の資料としては残っていたのかな?
だからやっぱり、ちょっとだけ違うんだ。よね。
わたしが知ってる平安時代の歴史とは。
で。だよ。
その道長様がわたしの腰結をするって事は……。
わたし、名実ともに女性として成人式を迎えるって話で……。
目の前のおもうさま、まだおっきなため息を繰り返してる。
かなりせっつかれてるとは聞いてたけどあのおじいさまの勢いなら耐えるのは大変かも、だけど。
あ、でも、そういう話ならにいさまの元服だって執り行われるってことだよね?
もうまったなし、なのかな。
わたしとにいさま、とりかえられた方がいいのだろうか?
うーん。でも、なぁ。
☆瑠璃の君 十四歳。
昨日は久々に瑠璃姫の顔を見に行った。
御簾の向こうで扇で隠してたからはっきり見えなかったけど、時々こちらを覗き見る時にちらっと見えた姫の顔はやっぱりかわいかった。
あたしの半身、理想のあたし。
でもまだちょっと身体が弱いのが不安。
もうちょっと元気になってくれると良いのにな、って、そう思う。
に、しても。
とうをよっつも過ぎたこのところ、周りの大人の態度が少し変わってきたような気がしてる。
もともとあたしのことを男だと思っている親戚は、早く元服させて宮中に、とせっつき、
もともとちゃんと真実を知っている女房たちは次々と里帰りし居なくなった。
おもうさまから緘口令が敷かれたらしく、新しい女房はみな東の瑠璃が姫、西のあたしが若君だと信じてる。
昔からあたし付きの楓だけなんとか残ってくれたのが救い。
もし彼女まで居なくなってたらと思うとゾッとする。男の真似なんてそうそう続けられるものじゃないし。
装束さえ脱がなければわからないんだけどな。
そんな事も考えるけど。
それでも気が抜けない。
それこそ月の障の時は楓以外誰も近づけられないのに。
◇◇◇
結局周りの圧力に負けたおもうさまはあたしに元服、姫に裳着を強行し。
晴れて殿上人となったあたしは宮中に出仕することとなった。
五位の少将。瑠璃の少将と、そう呼ばれる事となったのだ。
でもなにあれ。
男ってほんとヤダ。
女と寝ることしか考えてないんじゃ無い?
しかもそれを雅だと遊びだとそんなことばかり。
ああやだやだ。あたしは絶対そんな事はしないぞと、そう心に決めたのだった。
もともと外を駆け回りたかっただけのあたし。
自分で自分の人生を生きたいとは思ってたけど、結局成り行きでこんなことになってしまって流石のあたしも今は少し後悔している。
あれだけ祈ったのに姫は女の子になれなかったしあたしも女のままだ。
このままあたしが実は女だなんてバレるとたぶん姫にも迷惑がかかる。だから。
うん。
頑張って、大人しくして、なんとかやり過ごそう。
何事もそつなくこなし、目立たず、それが目標だ。
そうしてしばらく経った頃、帝が体調を崩して東宮に位を譲ることとなり、朱雀院に移る事となった。
上皇様は御息女の一ノ宮をどうやらあたしに娶らせたいと後見させたいと思し召していたっぽいんだけど、流石にむりでしょ?
そっけない素知らぬ振りをしてやり過ごしていたんだけど、そうこうするうちに今度はおもうさまのご兄弟の右大臣さまの所の四の君との縁談が持ち上がった。
こんなあたしでも男女の違いも結婚してする事も一応わかってる。
そんなふつうの結婚なんてできやしないのに。
なんと、おもうさまが右大臣様に押し切られてしまい。
あたしは結婚する事となってしまった。もう、どうなってもしらないよ?
裳着も終わり、一応成人ということになったわたしなのですが、相変わらずお屋敷に篭って姫生活しています。
うん。にいさまはもう元服して宮廷に出仕してる。五位の少将、殿上人だ。
すごいなっと思いつつ、わたしだったらバレるのが怖くてとてもじゃないけどお気楽にお貴族様してられないと思うから、にいさまの心臓は鋼でできてるんじゃないだろか? と、感心する。
しかしまあ、成人になると通ってくる殿方も現れると聞いて戦々恐々としていたわたしは少納言に助けられて、なんとか無事に過ごせてた。
夜はなるべく一緒に就寝し、もし変な気配があったらわたしはすかさず御簾の奥に隠れる。
あとは少納言が体良く追い払ってくれたりするんだけど……。
うう。ダメだ。このままじゃ少納言の貞操の危機、だ。
ここに通って来る殿方の目的が瑠璃の少将と似ているという瑠璃姫であるのなら、もしお手つきになったとしても少納言は泣き寝入りだ。
それじゃぁあまりにも少納言に悪い。
そりゃ、玉の輿に乗れる可能性があるのなら反対はしないけど、そうでないならやられ損じゃないか。
それじゃぁほんと申し訳なくって。
流石にもう限界だとおもったわたしは、泣いておもうさまおたあさまに訴えた。
「吉野に行かせてください……」
吉野にはおたあさまの御母様、東陽明門院様がお住まいだ。そこに間借り出来ないか、と、思って。
このままここに居るのでは生きた心地がしない。
将来のことも不安だけれどとりあえずの安寧を、と。そう泣き崩れ。
「お前の事は不憫に思っている。そうだな。しばらく吉野に身を隠すのも一計か」
おもうさまにはおもうさまなりの苦労があるようで、わたしのことで周囲からしつこい要求があるらしいとも聞く。
おたあさまは泣くばかりでらちがあかなかったけれど、おもうさまの一言で、わたしの吉野行きは決定した。
とりあえずこれで、とりかえばやのおはなしのように内侍として宮中に出仕する事もなければ東宮と通じちゃって子ができちゃう事もない。
と、なんとか少し安堵した。
わたし、実はこれが一番怖かった。
心は姫のつもりだけど身体は男の子なんだよね。
もう、何かの間違いでどうかなっちゃったとしたら。
わたしの身体がそんな反応しちゃったら。
もう、そんなこと考えると情けなくて情けなくてしょうがない。
まだ油断は出来ないけど、わたし男の子として生きていくなんて嫌だ。
どうしてもそんな嫌悪感だけが先にある、そんな……。
◇◇◇
季節はもう秋になりかけていた。
綺麗な紅葉がチラホラ見え、もう少ししたら山々はオレンジに染まるだろう。
空気も美味しい。
落ち着いたら東大寺にも参内に行きたいなあとか思いつつ、平城京の街並みを横目に南下する。
あの山を超えたら吉野かな。
徒歩での旅は大変だけれど、頑張らなきゃ。
にしても。
わたしも随分と丈夫になったものだ、と、自分で自分を褒めてあげる。
少しずつではあったけれど運動をし、なんとか人並みの健康を手に入れた。
長かったなぁ。とか、感慨深いなぁ。とか、そんな事を思いつつ歩く。
従者は少納言と虎徹だけ、虎徹は我が家に使える武士で、平氏の出。まだこの時代貴族の方が強いけど、そのうちこういう武士が羽振りを効かせるようになるのかなぁと考えると、ほんと不思議だ。
あともう少しで吉野の原が見えてきますよという虎徹の案内に答えつつ、そろそろ足がもたなくなったわたしは、休憩をしましょうと提案した。
木陰に腰掛け、水筒の水を飲む。
干し飯をつまみ、背伸びをして。
ちょっとうとうとしたところで少納言におこされた。
「瑠璃姫さま、あちらに綺麗な湖が見えます。ちょっとそちらに行ってみませんか?」
そだね。うん。そろそろ気分転換してもいいよね。冷たい水に足を着けると楽になるかもだし。
「そうね。そちらに寄り道しましょう」
「まぁ綺麗な湖だこと」
森の中の奥に入るとそこには小振りではあるが透き通るような湖があった。
太古の昔から存在するかのような妖艶でそして神秘的なそれは、木漏れびを集めるようにキラキラと輝いて。
今はこの一帯は盆地になっていてこの湖もまるで取り残された神秘の泉って雰囲気。
昔はもしかしたらもっと低い土地だったのかも知れないな。
「虎徹、ちょっと周囲を警戒していてくださいな。わたくし少し水浴びをしていきます。決してこちらを覗いてはいけませんよ」
水浴びといっても素っ裸になる訳じゃない。長襦袢には代えがあるから一枚くらい濡れてもだいじょうぶ、かな。
「じゃぁあたしも一緒に……」
「うーん、ごめん少納言も見張ってて、ほら、誰にも見られるわけにもいかないし」
「わかりましたよ姫様。じゃぁあたしはとくに虎徹がこっちを見ないよう、しっかり見張っていますね」
「ありがとう少納言」
木の陰でするすると着物を脱ぎ、襦袢だけになるとわたしはゆっくりと水際に足をつける。
ひんやりとした水が疲れた足を癒してくれるようだ。うん。
ちょっと歩くと、少し奥に腰掛けるのにちょうどいい加減の岩場があるのがわかった。
あそこで足をぶらぶら水につけるとすごく気持ち良さそうだ。
わたしは水際を伝って歩いていった。
流石に泳ぐのはきついかな。ざぶんと浸かっちゃうには少し冷たいな。
そう思いながら滑らないよう気をつけていたつもりだったのだけど、後もう少しで岩場に到着する、と、思った瞬間。
わたしは足を滑らせて、水面に転がった。
「大丈夫か?」
はっと気がつくとわたしの顔を覗き込む公達。
「ああ、ありがとうございます……」
わたしの身体は岩場の上に寝かされていた。髪も乱れ襦袢一枚で、ずいぶんな格好で。
恥ずかしい……。
「気絶したお陰で水をあまり飲まなかったようだ。もう大丈夫かな」
にっこり笑うその顔は、とても整って、高貴な雰囲気を醸し出している。
どこの親王か院の血筋か、そんな感じ。
「しかし、そんな格好で水に入るなど、入水を疑われてもおかしくはないが……。まさかそなた、何か世を儚むことでもあったのか?」
真っ直ぐのその瞳。何もかも見透かすかのようなそんな瞳に、わたしはすごく恥ずかしくて思わず顔を手で覆い。
「いえ……。旅の途中足が疲れ、水に浸け癒したいと思いまして……」
と、消え入るような声で答える。
「ならよいが。まあなんだ。この世は捨てたものじゃないぞ。決して自分から命を粗末にするでないぞ」
ちょっとニカっと笑顔になり、彼はそう諭すように口にする。
ああ、完全に自殺と思われてるかな……。
「……瑠璃さまー。るりさまー……」
あ、少納言が呼んでる。姿が消えて心配かけちゃったかな。
「ん? そなたもしや、瑠璃の少将か?」
あ、まずい。兄様と顔なじみなのか?
「いえ……。わたくしは少将の従兄弟に御座います……。吉野に在住にて……」
わたしは咄嗟に口からでまかせを。
「そうか。まあ、それではわたしは行く。くれぐれも早まるでないぞ」
そう言いその公達はさっと岩場より飛び降り森の奥に消えた。
うん。綺麗な人だったな。優しくて……。初めて見た同年代の公達に、わたしは……。
ああ。でも。これでは完全に男だとバレるよね。
肌にぴったりと貼りついた襦袢がわたしの身体の線を完全に浮き上がらせている。
あの笑顔……。だめだだめだだめだ。向こうはわたしのことなんてただの男だと思ってるんだろうし……。
ああ……。死にたい……。
◇望月。
九月も半ば、宰相の中将は宿直の最中に月が天空にかかる空を眺め物思いに耽る瑠璃の中将を見かけ、声をかけようかとしたが思いとどまった。
そのあまりにも優美な物腰に気後れしたのもあったが、それにも増してその姿に女性を見るような美しさを感じ、ああ、この珠玉を手に入れる事が出来れば、と、そう懸想するに至り、その想いを募らせて。
出会う前は自分に勝る者など考えられず、噂で聞き及ぶ左大臣家の子息が出来がいいだの見目麗しいだのというのもそこまで信じて居なかった。
しかし。
初めて彼の君を見かけた時、まだ少将になったばかりの彼の心は激しい動悸に見舞われた。
その美しさ。
その優雅な様。
あどけない、そのほおと瞳。
口唇の形迄素晴らしく、好みであったのだ。
そして。
兎にも角にも、近しくなろうと。
瑠璃の少将が宿直であれば一緒に宿直し、宴があれば合奏し、歌会に至っては連歌を謳う。
そうしていつしか瑠璃の少将の唯一の親友の座に収まった。
そこまでは……。よかったのだ。
自分は男色家では無いと思ってきた。ずっと普通に女性が良いと。今でも瑠璃の中将以外に心が揺れる者がいるわけでは無く、女御らと浮名を流す方が楽しいとは思っている。
だから。
これはきっと何かの気の迷いだ、と。
きっとまばゆい珠のような美しさと噂される瑠璃姫を想っているのだ、と。
瑠璃姫の面影を中将に見ているのだと。
そう心に言い聞かせ。
手が届きそうで届く事のない望月を諦めようと心に決めたのだった。
◇◇◇
気持ちの良い風にあたりながら観る満月は格別だ。
そうは思いながらも、こうして宮中にいると悲しくなる。
自分がこんな成りをして普通でない様子が本当は辛いのだ。
梅壺の女御の艶姿を眺め、着飾った女性達を見送ると、もしかしたら自分がもし普通に育っていたらあっち側だったのか?
そうも考えてしまうのだ。
だけれど。
こうなってしまった事は後悔しては居ても、自由に生きる事ができたことに関しては満足している。
やはり自分にはああした姫の生活は無理だよな、そうも思うのだ。
そうして物憂げに月を眺めながらも、姫、瑠璃姫だけはちゃんと姫としての人生を送らせてあげたいな、そんな事も考えてた。
本当はあたしがもっとあの子の事を考えてあげなきゃいけなかったかな。そうも思う。
瑠璃姫が吉野に発ったと知ったのは、もう3日も過ぎた後だった。
彼女がそんなに悩んでると知っていれば、もっとなんとか出来たのでは、そう悔やんで。
帝が東宮、朱雀院の女一ノ宮の為に瑠璃姫を宮中に、と、そうお考えなのも聞こえてくる。
まあ女東宮の為の内侍であればそうそう帝に言い寄られる事もないかもだし、あたしも目にかけることが出来るから、あの子のためにも良いんじゃないかってそうも思ってたんだけど。
そう勧めようと思ってたところでの吉野行き。
うーん。
鄙びた吉野で気を落として無ければいいんだけど。心配、だ。
◇宰相の中将。
最近宰相の中将の様子がおかしい。
何がおかしいかって。兎に角急によそよそしくなって。
昨日なんか同じ部屋で待機していたのにも関わらず、一言も口を聞かず。
あたしが連絡事項を話しても声に出して返事もしない。首をふるさまも力無い、どこか遠くを見ているようなそんな感じもする。
ついこの間までは姫を紹介しろだのうるさくて言ってきていたのに……。
ああ、あんなやつでもこう素っ気なくされると寂しく思うんだ。あたしも随分と中将のこと気安く感じていたんだな。と。
友の思いもかけない変化に、戸惑いを感じ。
右大臣家でも変化があった。
四の君が身篭ったのだ。
右大臣も奥方もそれはもう大喜びで。
あたしは彼女とは添い寝をしていただけですよなんて言えない雰囲気だった。
どちらかといったら子供っぽい彼女はあたしがするするっと隣に寝ても、それで特に不満を言う様子でも無く。
時々たわいもない話をしながら眠りに就く、そんな感じの生活で。
少し申し訳ない気もしていたけれど、なんとかそんな生活が続くものだと思っていたあたしがバカだった。
まさかここに他の男が来るなんて。
だから男なんて信用できないんだ、と、思う反面、源氏物語でだって宮中の浮名話でだってこんなことは雅だとか語られる話なんだろうなとか。
そんな風にどこか現実逃避っぽくも考えちゃって。
ただ。
このまま女性としての幸せも子供にも恵まれない人生だったかも知れない四の君に好きな男性が現れたのなら。
あたしの方が身を引くべきなのかな。
そうも考えた。
そして数日経ったある日。
内裏に用事があって訪れたあたしはたまたま通りかかった局の女房たちに声をかけられた。
「最近宰相の中将様をお見かけしません。あんなにも頻繁にお声をかけてくださったのに」
「あら、中将様は病を患って寝込んでらっしゃるってはなしですよ」
「それはお気の毒ですね。瑠璃の中将様も気が気でないでしょう? 仲がよろしくていらっしゃったから」
「宰相中将様の瑠璃様を見る目にわたくしたちは微笑ましく思っていましたのに」
そう、かしましく話す彼女たちに囲まれて、あたしはめまいがして。
「ああ、それで最近見かけなかった訳ですね……。教えてくれてありがとう。では見舞いに行くとしますね」
きゃー、と数名声があがり。
訳がわからないままあたしは逃げるようにその場を去ったのだった。
◇◇◇
「内裏であなたが病に臥せっていると聞いて驚いてこうして訪ねてきてしまいました」
そう話す瑠璃の中将の顔は少し赤らんでいるように見える。
宰相の中将は内心とても嬉しくは思ったけれど、そう見せることも申し訳ないと思うと素直に笑みを見せる事も出来なかった。
静かにここ数日の宮中の様子を話す瑠璃。
その唇から漏れる吐息。かわいらしく動く様を見るにつけて、どうして自分はこの珠玉を諦めてしまったのか、どうして裏切るような真似をしてしまったのか、その後悔と罪悪感とに苛まれた。
今からでも手を伸ばしてみたい。
いや、もしかしたら、瑠璃もそれを望んでいるのではあるまいか。
勝手な理屈だとは充分理解しつつも、目の前で自分の為に頬を染め語る瑠璃が愛おしく思え、一線を超えてしまいたくなる。
「どうしましたか、お身体に触りましたか、顔色がすぐれないようですね。すみません。またお伺いしますね」
そう話を締めくくり席を立つ瑠璃を思わず引き留めるように手を伸ばす。
青い顔をしてふらつく宰相中将をとっさに抱きとめる瑠璃。
「大丈夫ですか」
その言葉に我慢が出来なくなった彼は、そのまま勢いのまま瑠璃を抱きしめた。
◇◇◇
宰相の中将は病気だったのか。
最近よそよそしかったのも体調がすぐれなかった為なのだと思えば、ちょっと心が軽くなる。
ああ。あたしは中将が好きだったのだ。
いつも一緒にいてくれた中将。歌でも合奏でも気持ちが通じ、気のおけないさまをここち良く感じて。
友達としての好き。
たぶん、そう。
まだ恋とかじゃ、ない、はず。
きっとそう。
大人の恋は、きっと、たぶん。まだあたしにはわからない。
ほんわかとした好き。そんな感じ。
でも……。
あたしが男を演ってるから友達で居てくれるんだろうな。
そんな事をふと考えると少し悲しくなる。
女だとバレたら友達で居られない。
それは嫌、だ。
そんな事考えつつ歩いているとある考えが頭をよぎる。
そういえばさっきの女房たちの会話、よく考えたら……。
もしかしてあれ、あたしと中将の事男色のネタにしてたって事……?
カーッと顔が熱くなる。
ああ、どうしよう。恥ずかしくって中将の顔まともに見れないよ
◇反転。好きの反対。
柔らかい瑠璃の身体。
抱きしめたその手に感じるその温もりに、彼の心は踊った。
しかし。
あまりにも、これは……。
信じられない事だけれど、瑠璃は、この珠玉は、もしかしたら女性なのではないか。
この肉付き、触り心地、男ではあり得ないのでは。
「好きだ。君が好きだ。どうかわたしのものになっては貰えないか」
と。
震える声でそう、言ってしまった。
瑠璃の顔が真っ赤に染まる。
ああ、これは、間違いない。
そうか、だからなのだ。
四の君が処女だと知った時は驚き、これは瑠璃の中将がまだ早いと手を出さずに大事にしていたのだろうと罪悪感に苛まれたが、こういう事であれば納得できる。
「ああ、だから四の君は男を知らなかったのか」
そう思わず口に出てしまい、
その瞬間、頬を勢いよくはたかれた宰相の中将は、自分の手の中からこぼれ落ちるように去っていく珠玉をただただ眺めているしか出来なかった。
◇◇◇
顔色が悪い宰相の中将に、
「どうしましたか、お身体に触りましたか、顔色がすぐれないようですね。すみません。またお伺いしますね」
と声をかけ、立ち上がったその時。
ふらふらっと立ち此方に手を伸ばす中将が余りにも不安定でいまにも倒れそうなのをなんとか抱きとめたのだけれど……。
思いもかけない強い力でぎゅっと抱きしめられ。
心の奥が、ずくん、と、疼いた。
ああ、彼の顔があたしのほおにあたってる。真っ赤になってるあたしの熱が伝わってるかもとか考えると恥ずかしくて。
もう、どうしようって考えてるところで右肩の上にある中将の口から、
「好きだ。君が好きだ。どうかわたしのものになっては貰えないか」
と、囁くような声が聞こえ。
あたしの心は最大級に跳ね上がった。
でも。
動悸が激しくなってもうどうしようもなくなったその時だった。
「ああ、だから四の君は男を知らなかったのか」
と、そんなつぶやきが漏れ聞こえ。
その瞬間。
あたしは平手で彼の頬を叩き、そのまま逃げるように屋敷を飛び出していた。
ああ、バカバカバカ。あたしのバカ。
あんな男に一瞬でも舞い上がって。
あたしが好きだと言ったその口で四の君とあたしを比べていたんだあの男。
四の君のお相手は宰相の中将だったって事。
悔しい。
あんな男に……。
っていうかあれはバレたって事だよね?
ううん、かまうものか。まだ決定的な証拠を掴まれたわけじゃない。
まだしらを切り通せば何とかなる筈。
うん。まだ負けない。あんな男に負けてたまるものか!
◇春はあけぼの。
って清少納言さんだっけ。
吉野の冬はけっこうゆきぶかい。ほとんどお家の中で過ごしてたからやっと雪溶けして表に出られるようになるのは嬉しい。
朝日を見に庭に出ると、ふわんと春の風がわたしの頬を撫でていった。
まだちょっと冷たいけど、冬の凍えるような刺さる寒さとは違う。
優しい空気が辺りに満ちて。
陽の光はだんだんと大きく登っていき、そして山肌に残る雪を白く光らせて行った。
吉野の御祖母様の御住まいは割と簡素な庵で、家人もあまり居ない。
わたしも暮らすならこれぐらいの所でいいなぁとか思うけど、そうすると一生家の援助が必要になるわけで。
御父様が御存命のうちなら良いけれどその後は……。
援助が無くなりあばらやで過ごすのは、寂しいな。
ここでの暮らしもそろそろ半年。
都にいた時のように豪奢な着物も着なくて良いし、わりと自分でなんでも出来るようにもなった。
姫って生活でないかも? だけど、こんな感じの生き方の方がまだましなのかも。
ただ。
わたしももう十五になった。
心は今でも乙女のつもりだけど、あいにく身体は言うことを聞かなくて。
子供時代の虚弱体質が幸いし、今でも華奢でチビなおかげでそんなにおとこおとこした体型にはなってないものの、確実に二次性徴はやってきた。
声は、これも、発声に気をつけ声変わりがわからない程でおさまっているけれど、少納言のような可愛い声じゃないのはかなしい。
綺麗なお声ですよと少納言は言ってくれるけど、たぶんお世辞が半分だろうとは思うのだ。
恋も仕事も望めない今のわたしにできる事はあらゆる書物の写本くらいで、もう源氏物語も枕草子も書き上げた。般若心経も阿弥陀経も諳んじられるくらいに覚えてるから、将来は田舎でこっそり僧にでもなって供物でも頂いて過ごすかな。小さな畑を耕しながら過ごすのも悪くない。
と、すっかり心が枯れてたわたしなのですが、ひとつだけ趣味で楽しみにしていることがありまして。
それは。
少納言が書き綴る、『月明かり物語』というおはなし。
あの奈良湖でのわたしと何処かの公達との出会いにインスピレーションを得て、という、
『女装して育つことになったとあるやんごとなき若君と、天子の皇子でありながら母系の権力が弱く冷遇されている宮さまとの、禁じられた恋』
をテーマにした物語だ。
まあ、前世で言えばBLジャンルかな。
これがもう、とにかく面白い。
一帖書き上げると読ませてくれるんだけど、もう続きがまちどうしくて仕方なくて。
わたしがモデル? だという話だけど、わたしはこんなに素敵じゃない。
だからこそ、こうなれたらいいな、って気持ちがより感情移入させてものがたりにのめり込めるのかも、しれないな。
御祖母様はけっこう奔放な方で、わたしも割と自由にさせて貰えてた。
普段は小納言とおはなししたりおはなしを書いたり。
空を眺めたり風を感じたり。
春はツクシ。
梅雨にはカエルをみて。
夏には氷を取り寄せて削って甘葛をかけて食べ。
吉野は京よりも過ごしやすい。
じきにすずしくなってきたある日。
御祖母様、今夜はお知り合いの方達と月を観ながらの歌会との事で、家人を引き連れ総出で出かけて行った。
わたしも誘われたのだけど流石にもう人前には出たくないので丁重にお断りして。
どうせ月を観るなら……。
あの、ここに来るときに見た奈良湖へ行こう。湖って言ってもちょっと大きな池だけど、あの水の神秘的な色合いはきっと望月に似合う。
少納言と虎徹だけは一緒にいてくれたので、二人を誘ってお団子持って。
柚子をお酒で漬けた柚子酒を冷たい井戸水で割った柚子ジュース。アルコールは薄めで美味しく出来たので、それを水筒で持って行こう。
うん。
奈良湖にはあれから時々訪れていたから道に迷うこともなく、わたし達は月が天空に掛かる前に湖のほとりに到着した。
あの、公達に助けられた岩場の上に茣蓙を敷いて、その上で座って。
一緒に観ましょうと誘ったけれど、虎徹だけは少し離れた位置に控え警護の姿勢を崩さなかった。
まあ、しょうがないなぁ。
空が、薄紫で染め上げられた。雲はあるけれどそれは月を隠すこともなく。程よい景観を形作っている。
月明かりはまるで空気のレンズで集められたかのように湖に注ぎ、そして湖面に空よりも大きな望月を写し出していた。
中空に浮かぶ月は眩く、手を伸ばせば届くかと錯覚する。
ああ。やっぱりここは最高だ。
ついこの間までは蝉の声しか聞こえなかったのに、今夜はリーンリーンと響く鈴のような音色。
美味しい柚子酒を舐めながら、飾ったお団子を摘む。
「幸せって、こういうことをいうのかな」
そう呟くと、少納言も、
「確かにいいですよねーこういうの」
と、いいつつお団子に手を伸ばす。
「あ、でも、姫さまはもっと幸せになってもいいとおもうのですよ?」
そう言ってくれる少納言に、少し感謝した。
まったりと月を眺めて幸せに浸って。しばらくぼーっとしていたその時。
ガサ、っと下草を踏みしめ人が現れた。
「ああ、先客が居ましたか。失礼しました」
その通る声と煌びやかな笑顔。
わたしを助けてくれた、あの時の公達がそこに居た。
◇◇◇
木々の隙間から眩いくらいの月の光が漏れ降ってくる。
やはりこちらで観るのが良さそうだ。そう、令は思う。
抜け出してここに来るのに供一人、それも身分の低い侍一人ではとおつきのものたちには反対されるので、今日も黙って抜け出してきている。
まあ、後を継ぐのは甥に任せておけばいい。自分は中継ぎで良い。そう常々考えているせいか、自分のことにはけっこう自暴自棄な所があるなあ。とは、自覚してはいるのだが。
九郎が茂みの向こうの人影に気がつき、
「お待ちを」
と、先行する。
どうやら先客があったらしい。どうするか? 一瞬ためらうも、この機会を逃すともう次はいつこの望月をのぞめるか。
できればこのまま先に進みたい、そう思う令であった。
しばらくして戻ってきた九郎。彼は、平氏の棟梁の家系で現在の棟梁の末子である。かなり優秀なので重宝してこういう場所にも常に供として随伴させているのだが。
「目的の場所には既に先客が、それも女子が二人。護衛についていた一族のものによると、吉野に住むとある貴族の姫だそうです。身分は明かされなかったのですが……。如何しましょう?」
「ああ。出来ればこのまま向かいたいな。互いに身分をあかしさえしなければ問題はないか」
顔を出してみて拒否されるようなら諦めよう、そんなに難しく考えることでもないかとそのまま歩みを進める。
九郎の一族の者が控えるその横を通り、絶景の岩場に辿り着いた。
まあ、一族の者であれば調べれば何処に従事しているかくらいはわかるのだろうが、そこはそれ。主人に忠実で使命を守秘する侍であるからこそ、これだけいろいろな貴族に重宝されるというものだ、と。そう思いながら。
薮を抜けるとそこにはまさに絶景があった。
眩く揺らめく上下の望月、そして、月の光が降り注ぐその場所にいる美しい人。
もう一人の女房には見覚えがあるような気がしたが。
記憶を探ってみると、一年前の出来事が思い出された。
あのとき主人を探していたのはこの女房ではなかったか。
湖に沈むように横たわった、あの人を探していたのは。
まるで弥勒がそこにいるかと錯覚し、そしてそれが人だと気がついて慌てて助けたあの時の。
「ああ、先客が居ましたか。失礼しました」
わかっていたのにそれをそう思わせないよう取り繕い、令はそう、話しかけた。
目の前の姫は振り向いた時に一瞬だけみえたその美しい顔立ちを、すぐに扇で覆ってしまった。
「どういたしましょう、お邪魔であれば立ち去りますがこの見事な絶景をもう少しだけでも愉しませては下さいませんか?」
そう控えめに話す。
扇の裏で姫と女房は二、三言葉を交わすと、
「せっかくのこの望月、私共だけで独り占めするのも無粋ですし。宜しければこちらに同席くださいませ」
そう、女房の方が伝えてきた。
「では」
と、遠慮がちに茣蓙に腰掛けると令は改めて隣に座る姫を見る。
艶のある綺麗な髪に流れるような顔の線。扇に隠れてはいるもののそこここに見えるその容姿は雅で、とても吉野に隠れ棲む姫君とは思えない。
「ありがとう御座います。ああ、月が綺麗ですね」
そうにこりと笑ってみせる。動揺を隠すのが精一杯だった。
◇◇◇
「わー、どうしようどうしよう、あの時の公達だよ。どこかの宮様か院の御曹司? たぶんそんな感じの身分の方じゃないかな?」
「姫様落ち着いて。兎に角追い返すのは不味いですね……。とりあえず同席して貰って、頃合いをみてわたし達の方が引き上げませんか?」
「うん。そうしよう……。お願い」
少納言がなんとか無難に答えると、公達はそそっと茣蓙に上がりわたしの隣に座った。
ええ?
少納言の側の方が広いのに。
思いっきり見られてるし、近いよ。ああ、もう心臓がもたない。
ドキドキしている音が聞こえるんじゃないかとおもうくらい、わたしは焦っていた。
と、「ああ、月が綺麗ですね」 って、思いっきり好みの声が耳元に響いて。
恥ずかしくて恥ずかしくて、混乱したわたしは思わず扇を空に掲げ、
「ええ、綺麗ですね。今なら手を伸ばせば届くかも」
そう呟いていた。
◇◇◇
男児と女児では圧倒的に女児の方が無事に育つ。
とくに昨今の貴族の間では生まれおちるのも女児が多く、結果成人の男女差は開く一方だ。
であるから。
待望の男児を授かったのち幼少の折は女児の格好をさせて育てる親というのは多く、それは一種の信仰となっていた。
かくいう自分も子供の頃は姫宮に混じって育てられたのだが、それにはもう一つ別の理由もあったのだが。
貴族に生まれた者であっても成人前の子の名が人の口に登ることは無い。どこそこの娘や、誰々の長子、などという呼ばれ方はするものの、それ以上の話はタブーであったのも、生まれた子が無事成人まで育つことが当たり前でないこの時代であればこそ、なのかも知れない。
だからこそ姫のように育ったとしても元服の時には無事に育った男子として盛大にお披露目をし、除目を受け官位を授かり貴族社会の構成員となることを目指すのだ。
しかし。
目の前に楚々として佇む麗人が、あの時の弥勒であろうというのは疑いようがなかった。
頬を染め、扇を天に掲げるその姿は天女のようで。神楽の舞を観るような、そんな気持ちにさせる。
ああ。本当に美しいな。
令はそう、ここにきた目的も忘れ目の前の光景に見惚れていたのだった。
◇◇◇
月が傾くまでそのまま悠久に感じる時間を過ごし、そして。
「少し、長居をし過ぎたようです。名残惜しいですがわたしはこれで」
そう言ってその公達は去っていった。
最後まで、笑みを絶やさず。その所作も高貴な雰囲気を醸し出して。
結局抜け出すタイミングを逃し、っていうか、あのままこの人と一緒に月が見たい、そう思ったのがほんと。
わたしは離れるのが寂しい、そう感じながら去っていくあの人を見送った。
ああ。胸の奥が熱い。
火照ったままの頬に手をあて、わたしは雲に隠れる月を見送ったのだった。
その文が届いたのは翌日の早朝、まだ朝の雫が滴る頃合いで。
『秋の夜の 望月のぞみきてみれば 見出す珠玉の いとうるはし』
んー?
っていうかこれ、あの人だよねどうして……。
「虎徹が託されたそうですが……。何方かは……」
と、少納言。
うん。でも。嬉しい。
月が綺麗でしたねって意味だとは思うけど、それでもほんと嬉しい。
後朝の文の様にこんな早朝に届けてくれた事にも。
なんか、ほほがにやける。
ふふふ、と、ほおに手を当ててにやけるわたしに、
「お返事しないとですよねー」
と、少納言。
虎徹が相手をわかっているのなら届けてもらえるのかな。
うん。頑張って返歌しなくっちゃ。
『あかなくて、隠るる月の 後を追い』
「うーん、儚くて、と、空かなくに、が、混乱してますね。あと、隠るるだとお亡くなりになる感じが強いので後追い自殺みたいでちょっと……」
うーん、じゃぁどんな表現がいいだろう?
消える? 傾く? どっちもイマイチ。後追いもそういう意味ではアウトかな。
無難に離るる、かなぁ?
『あかなくに はなるる月の跡を追う 瞼を閉じて 思い募るる』
「さっきより良いと思いますけど、るるが二回有るのは頂けませんね。こういう時は表現を変える方が調子が良くなりますよ」
そっか、じゃぁ。
『あかなくに 離るる月の 跡を追う 瞼を閉じて 想い募らむ』
これでどう?
「だいぶん良くなりましたね。技巧的には幼いですが、ちょっと直接過ぎますし。でも、姫様らしくて良いお歌だと思いますよ」
「ありがとー少納言! じゃぁこれで清書するね」
筆をとって、落ち着いて清書する。
心は込めたつもりだから、届くといいなぁと思いながら。
訳は、
「まだ物足りないのに離れていってしまう月。その軌跡を目で追ってしまうけれど、瞼を閉じると想いがもっと募るようですよ」
なのだけど、
気持ちは、
「もっと一緒に居たいのに帰ってしまうあなた。その姿をずっと追ってしまうけれど、こうして瞼をとじると、眼をあけている時よりももっと恋しく感じます」
に、なるの。
直接的、か。そうかも。
でも、技巧とかはもう一つよくわからない。
書いてあるものを読み取るだけならともかく、自分の気持ちを婉曲に表すのはなかなか難しいよね。
清書した文は丁寧に包み虎徹に託した。
うん。どうな風に思ってくれるかな。怖いけど楽しみ。おかしいな。
◇◇◇
帝があたしを見る目が変わったことに気がついたのはいつだったか。
それまではあまり興味も無いような目だったきがするけど、ある時から舐めるように観察されるようになり。そして現在ではまるで微笑ましいものでも見るかのような目で見られてる。
梅壺の女御が親しげに話しかけてくるようになったのもその頃からか。
その目が決して好色な、人を恋情で見る様子であったわけではなく、兎にも角にも不思議なもの興味深いものを見るかのような観察眼であったことも気にはなっていた。
もしやバレたのか?
そうも思っては見たものの、その後なんの音沙汰もなく中将へ昇進しても変わらぬ様子であることに、不思議に思いつつ考えるのをやめていた。
「どうかしましたか? 顔色が冴えないようですね」
御前で帝からそうお声をかけられた際も、そこまで自分のことを観察していたのだとは思わず、只々社交辞令であると思って疑っていなかったのだが。
そんなにも顔に出ていたのか?
あたしはそこまで宰相の中将の事で動揺していたのか。
一瞬そうも思ったが思い直し。
「いえ。主上の御心を煩わせるような事は特に何も」
そう強がって見せた。
しかしすかさず直球で、
「宰相の中将と何かありましたか?」
と聞かれてしまい。
動揺を隠す様に顔を強張らせ、あたしはなんとか言葉を紡ぎ、
「何故、そう思われるのでしょうか。わたくしは特に何も……」
と、とぼけて見せたが帝はお見通しとでも言わんばかりの笑みを浮かべる。
「ああ。中将がわたしを見る目がキツくてね。まるであなたを取られでもしたかの様に見ているよ。ほら、今もあの柱の向こうから」
まさか、と振り返りそちらを見渡すと、確かに柱の影に人の気配がする。
ああ、もう、どうしたらいいのだろう。
あのあと。
あたしは極めて冷静にと心がけ、宰相の中将に接していた。
内裏で声をかけられても差し支えない言葉を選び。
話がしたいと誘われても、用事があるのでと断って。
とにかく、だめだ。その都度悲しそうな顔をする中将に絆されそうになる自分を諌め、関わってはダメだ負けちゃダメだと言い聞かせていた。
ようやく帝の御前から退くと、そこにはやはり宰相の中将が待ち受けていた。
「何故そうわたしを遠ざけて他人行儀にするのでしょう。こうしていてももし主上がわたしと同じようにあなたの正体に気がついたらと思うと気が気ではありません」
そう耳元で囁く声に、ゾクっと身震いし、とにかく逃げようと周りを見渡すが助けになる様な人が見当たらず。
「何を勘違いしているのかは知りませんが。わたしはあなたと四の君の経緯に気がついたのでその事で尋常では無い思いを感じています。わたしのことをあわれと思うなら、そっとしておいては頂けませんか」
と、それだけを答え中将の脇をすり抜け逃げ出した。
香を薫きしめた匂いが、たまらなく嫌だった。
【小納言】
あたしの姫さまは実は男の子だ。
お母様から、
「今日からお前が姫さまにお仕えしなさい」
そう言われてやってきたお屋敷は、すごく大きくて。
お母様と一緒に過ごせるのは嬉しかったけど、なんだか怖いな、そんな感情が先に立っていた。
同じ藤原性とは言えお父様は従五位下権の少納言。
お母様は長年おとどさまの東の方にお仕えして、姫の乳母子も勤めていた関係で彼女の遊び相手として白羽の矢が立ったのがあたしだった、と、言うことだった。
あたしは十で姫さまはまだ七つ。
彼女を初めて見たとき、その可憐で神秘的ともいえる美しさに、あたしは一目惚れして。
ああ。この子はあたしが守るんだ。
そう心に決めた。
そんな彼女が実は男の子だと知ったのは、お仕えして半年くらい過ぎたある日、だった。
夜中に熱を出しぐっしょりと汗で濡れた姫さまをみかね、着物を脱がし身体を拭いてあげようとお声をかけた。
「姫さま、お着物着替えましょうね。もう汗でぐっしょり。このままではお身体に差し支えますわ」
そう、少し起こして着替えさせようとしたその時だった。
「ダメ、少納言、だめ……。わたし自分で脱ぐから……」
熱で浮かされながらもあたしに脱がされるのを拒む姫。
でも。
少し起き上がり襦袢を脱ごうとした所で力尽きた姫さまは、そのままぐったりと倒れ。
うちぎもはだけた状態で動けなくなった姫さまをほかっておけず、絹の手拭いを片手に彼女を抱き上げたあたしは、ゆっくりと濡れた襦袢を脱がしてゆき……。
そして。
まだ八つになったばかりの彼女の秘密を知ってしまった。見てしまったのだった。
肋骨が浮くくらいの病弱なその身体。胸の膨らみもまだなのはこれだけ痩せているせいだろうと気にもしなかった。
だけれどその下まで見てしまったあとで。
丁寧に身体を拭いてまっさらの襦袢を着せ、うちぎを着せる。
上からふすまを掛け暖かくして。
かわいい寝息をたてるその額を軽く撫でると
う、うん……。
と、吐息が漏れる。
熱も少しおさまったみたいだ。
ああ。あたしの姫さま。
大好きですよ。
◇疑心暗鬼。
秋も終盤に差し掛かった頃合い。
四の君が出産間近になり右大臣は気もそぞろに祈祷を行わせ、何故か疎遠になった瑠璃の中将への恨み言を左大臣に溢すようになった。
本来であれば自分の子が産まれるのだ、足繁く通い妻の様子を伺うのが本来の姿ではないか?
と。
たまりかねた左大臣も、
「このところ右大臣は落胆し、特に四の君が身重になってからお前の心が離れていくように見えるのを嘆いていた。どうしてそのように振る舞うのだ。人目に見苦しくないように立ち回るべきであろう」
と、そう中将に諭すように話すのだが、理由はわかるだけにそれ以上は強く言えず。
中将は中将で、そもそもこの結婚が間違いだったのだと思ってはいるものの、それを左大臣に咎めるのも気が引け、押し黙ったままであった。
やがて、四の君に可愛らしい女子が産まれ、右大臣家では祝福に包まれた。
瑠璃も世間体をはばかり顔を出さないわけにもいかず、しばらく通うのであったけれど。
そのかわいらしい綺麗な顔を見るにつけ、宰相の中将と生写しであることに心を痛めた。
自分は宰相の中将に嫉妬しているのか?
はたまた、四の君に嫉妬しているのか?
この心の痛みがどちらに起因した物なのか。
そして、この彼女、四の君が自分を内心であざわらっているのではないか。
そんな疑心暗鬼に生来の明るさを失っていったのだった。
そんな鬱な表情の瑠璃を見るにつけ。
宰相の中将はますます想いを募らせていた。
四の君の事は愛おしく思わないでもない。
自分の子が誕生したのだ。ほんとうであったら四の君共々自分の元に置きたい、そうも思う。
だけれどそれはそれ。
あれはもともと瑠璃への気持ちを押し殺すことが出来ず侵入した右大臣家での一夜の間違いだ。
自分にとって本当に大事なのは瑠璃で。
なんとしても。
なんとしても想いを遂げたい。
瑠璃を本来の姿に戻し、自分の妻に迎えるのだ。
それが自分の使命だとも、瑠璃も本当はそれを望んでいるに違いない、と。
今彼女の表情が暗いのも、すべて彼女が間違った生き方をしているからだ、と。
瑠璃を救うのだ。
彼の心はそう、固まっていた。
計画を決行するのにちょうど最適な夜。
今夜は瑠璃との宿直が決まっている。
ここの所自分との宿直を避けるように、都合よく物忌みだといって出仕しなかった瑠璃。
しかし今日は右大臣家から牛車に乗って何事もなく宮中に入ったのを確認済みだ。
しばらく接近しないようにもしていた甲斐もあったのか、あからさまに避けられると言うことも減っている。
先日の失敗に対する怒りは溶けたのか?
そうであってくれると有り難い。そうも思う。
狙いは他のものが寝静まったあと、瑠璃と二人きりになる瞬間。
自分が瑠璃を救うのだ。
その為には。
解らせなければいけない。
彼女に自分の事を。
こんな男社会で生きていてはいけないのだ、と、そういう事を。
◇◇◇
ああ。もう。どうしようか。
このまま生きていくのが辛い。
あたしがいなくなったらみんなどう思うのかな。
あたしはわりとさっぱりしてるだの心が強いだの言われるけど、そんな事はない。
自分の子供じゃない子供が生まれて、周りのみんなから笑われているような気がして辛い。
あたしなんか、居なきゃよかったって、そんな気持ちになって辛い。
そもそもこんな生き方間違ってたんだと、そんなふうにも思えて辛い。
というか、あたしの人生がすべて無駄だったようなそんな気持ちにもなってしまって。
もう生きるのが辛い。
時々、あの大きな川に身を投げたら楽になるのかな、なんて誘惑も心をよぎる。
もう。
本当に。
どうしよう。
ああ。
もしかしたら。
あたしが死んだら瑠璃姫はあたしになれるんじゃないかな。
あたしの代わりに男性に戻れるのかも。
それならそれでいいかも。
うん。きっと、それが、一番いい。
そんなこと考えてたら今日が宰相の中将との宿直だったっていうのをすっかり忘れ、出仕してた。
あの出来事があった後、彼とはなるべく二人きりにならないように注意してた。
あたしが女だとバレた事で、彼の歯止めが効かなくなったらと思うと怖い。
男が怖い。
以前では考えもしなかった。そんなこと。
喧嘩でも負けない、そんな思い上がりもあったかも。
でも。
触られるのが怖い。
自分が女だと思い知らされるのが、怖い。
まあここの所避けてた甲斐があったのか、最近は大人しい。
彼にも子供が出来た事でもあるし、一度四の君の去就についても話し合わないといけないかも。
そんなことも考える。
だから。
月が雲に隠れ、人気の無くなった夜半。
松明の光だけがあたりをぼんやりと照らす。
宿奏を済ませて部屋に戻るとあたしは、
「話があるのですが」
と、彼に声をかけた。
「ああ。私もだ」
と、そう宰相の中将。
微妙な空気が流れる中、あたしは彼と向き合って座ると。
「四の君が子供を産んだ。女の子だ」
と、そう切り出した。
◇◇◇
瑠璃の顔が松明の明かりで赤く照らされた。
「話があるのですが」とそう囁くように動く唇。
「ああ、私もだ」
と、誘うように先に胡座をかくと、彼女も私の前に座った。
その優雅な物腰は相変わらずでそそる。
「四の君が子供を産んだ。女の子だ」
「君の子だよね。どうするつもりですか?」
そうぶっきらぼうに喋る瑠璃。
ああ。嫉妬しているのか? そうか、それならば。
「わたしが大事なのは瑠璃、貴女だけだよ」
そう囁き押し倒す。
「やめてください、貴方には四の君がいるでしょう」
そう最初は抵抗していた瑠璃だったが。
観念したのか無口になった。
「ああ。愛してる。瑠璃。愛しい人よ」
そうそのまま彼女の唇を塞ぐ。
彼女の瞳から、とめどなく涙が溢れた。
◇◇◇
組み敷かれ、最初は抵抗したものの強引に押さえ込まれてしまったらもうどうしようもなく。
自分の運命にも急に気弱になり。
「もう、どうしたらいいのか」
と、みっともないほどに涙が溢れて、零れた。
ああ。だから男なんて信用しちゃいけなかったんだ。
あたしがバカだった。
そう情けなく思っているところで、涙に怯んだのかそれとももう観念したと思ったのか少し抑え込まれる力が弱まるのを感じ。
あたしは一気に飛び上がりその場から抜け出した。
「許さない! このバカ!」
そう捨て台詞を残してその場から走って逃げる。
狩衣の前が少しはだけてるけどそんなことにも構っていられない。
あたしは暗闇に紛れ京の街を走り抜け、左大臣家の自室に飛び込むと、そのまま髪を下ろした。
楓を起こして訳を話し。
町娘が着てもおかしくないような着物を出してもらう。
そのまま。
その夜のうちに京の都を後にした。
◇◇◇
文のやり取りはあれからずっと続いてる。
時々、たわいもない事を歌にして送り合う、そんなゆるい感じで。
泉の君 ――湖で出会ったのでそう呼んでる。湖の君より泉の方が響きがいいのでそれで――
彼がわたしのことを好ましく思ってくれてるのは分かる。
しかしそれ以上踏み込んでこない事も。
男女の恋愛の文であれば、きっと既に次の段階に進んでいただろう。
でも。
そうなればこの関係は続けられない。受け入れられることは無い。そう思うと、今のままでこの曖昧な関係であっても続けられる事がわたしの支えになっていたのだ。
そして数ヶ月が過ぎ、冬に差し掛かろうかという時に都のおもうさまから一通の報せが届いた。
あのにいさまが出奔した、と、いうのだ。
ああ。とうとうそうなっちゃったか、と、思ったのが最初。
手紙には、わたしに戻りにいさまの代わりをして欲しい、そういう旨の事が婉曲に書かれていた。
それがわたしにとっても最良の選択だ、というような意味の事も。
確かに。
わたしが普通に女子として育ったというだけであればそういう結末が普通なのだろう。
人生を正常に戻すチャンスでさえ、あるのかもしれない。
でも。
嫌だ。
確かにこのままでは結婚も仕事も人生さえままならず、生きていくのも援助無しでは難しい。それは承知しているのだ。
でも。
ダメだ。
宮中に出仕し仕事をこなすだけであれば、今まで学んだ学問の知識も活かせるしやり甲斐もあるのだろう。
しかし、男性として振る舞えと言われても、どうしていいのかわからない。
いや、演技であれば、可能だろう。物語や日記を読み漁ったわたしには知識はあるのだから。
だけれども。
どうしても男性として過ごし男性として女性と恋愛するという想像をするだけで、違和感と嫌悪感でいっぱいになる。
そして。
好きな人を好きでいられない、そう思うことが悲しい、のだ。
おもうさまには曖昧な返事をして、わたしはここでの生活があとどれくらい続けられるのか、不安になっていた。
呼び戻されるくらいならわたしも出奔しなくては、そうも思い。
でもそうすると、泉の君には一生会えないな、と、悲しくなる。
夜更けに、そう一人物思いにふけっていた時。
ガタガタ、と、庭から音がする。
「瑠璃姫、いるかい?」
御簾の中に滑り込みながらそう声をかけてきたのは、女姿のにいさまだった。
「だからさ、もう限界だと思って飛び出して来たんだよ」
何があったのですかと尋ねるわたしに、にいさまはそう切り出した。
「ですから……」
だから何があったのかを聴いてるっていうのに、いつもそう、この人の言葉には説明が足りない。
もう今では三位の中将になっていた筈。もうすこし道理を解ってもいいはずなのにこの方はいつまでたっても幼いままなのだな。
そう恨みがましく思いながら続きを即す。
「四の君が子を産んだ。宰相の中将の子だ」
ああ、兄様が仮初にも結婚した相手、右大臣家の末娘だったか。まあしょうがないか。
「帝の女御に女では無いかと疑われた」
そんな話し、あった?
「帝も最近感づいているような気がするし」
どうして? 一体なにがあったの?
「おまけに、中将のやろうに押し倒された……。寸前で逃げたけど、もう限界だ」
最後は涙目になっていた。
ああ。
やっぱりとうとうそこのくだりまできたのね。でも、逃げたれたんだ。良かった……。
例え女とばれなくても、男色だってある。華奢な兄様はそういう危険もあるしね。
怖かったのかな。うん。怖いよね。
男姿だと目立つので女姿で出奔したのだろう、髪を下ろしたその姿は華奢で、わたしより大きかった背はいつのまにか逆転してた。
流石にこのままでは髪が短過ぎて鬘でも着けなければとても貴族の姫としては通らないけれど。
「どうするのです? これから……」
おもうさまからの手紙は伏せ、そう聞いてみる。
にいさまがねえさまになることには反対しないけど、そうするとこの醜聞を世間に晒すことになる。それはおもうさまも許さないだろう。
「うん。だから、入れ替わろ?」
え?
「お前もそろそろ限界じゃない? 男姿に戻れるよ? 東の方には内緒にしておけばいいんだし。あたしは女に戻って宮中にでも出仕するよ」
あ、あ、あ……、
「勝手な事言わないでください! そりゃあにいさまは今までずっと好きなことして生きて来たからそんなふうに簡単に言うんでしょうけど、わたしの人生まで巻き込まないで!!」
はじめての、わたしのそんな剣幕に、にいさまは驚いていた。
叫び終わって顔に手を当てて泣き崩れたわたしに寄り添い、所在無げにおろおろして。
ああ。
頭ではにいさまの案が最適だとわかってる。物語でも最後には入れ替わってた。
でも。
涙が枯れ、すこし落ち着いてわたしは言った。
「わたし、家を出ますね。」
にいさまがわたしになるなら、わたしは邪魔だ。
でも、わたしはにいさまになれない。
まず伊勢を目指す。
そのあとは、どうしよう。
熱田の辺りだとどうかな。
うん。もういいや。限界なのはにいさまじゃなくてわたしのほうだったよ。
雪が降りだす時期になってからでは遅いので、と。
わたしは身の回りのものをまとめ、ここを出ることにした。
今回ばっかりは少納言も虎徹も頼ることは出来ない。生き倒れる事だってあり得るのだから。
そういえば。
もう随分曖昧になってきたわたしの前世の知識の中で、中世に転生して現代の知識で無双するっぽいお話とかがあった気がするけど、あれって現実にはけっこう厳しいんじゃないだろうか。
お料理くらいだったら工夫できなくもないけどな、とかも思うけど、一から材料を作る知識は流石に無い。
現代でもちゃんと知識や手に職を持った人が中世に渡れば、それは確かに活躍ができるかもしれないけど、だけどそれはそれだ。
わたしみたいになんの能力も無かったアラサー事務員が生まれ変わったところで出来ることは知れてる。
ただ、
ここから伊勢に行くくらいのことは、たぶん出来る。
お伊勢さんは何度も行った覚えがあるし、この時代でもちゃんとあるはず。
なんなら門前でおうどんでも作って振舞ってそれで暮らしていくかな。
それもいいな。
黙ってこっそり出かけてしまおう、そう思ったのだけど。
「水臭いな。姫が行くならあたしも一緒に行くよ。もともとあたしは姫が喜ぶかと思ってここに来たんだ。それにどうせあたしには姫生活なんてできっこ無いしね。それなら町娘の方がましさ」
ああ、にいさま……。
「そうですよ水臭い。あたしだって姫様の行くところなら何処だってお伴しますよ。お伊勢ですか? いいですよねー。一度行ってみたかったんです」
ああ、少納言も……。
月明かりの下。
わたしたち三人は、旅装束に着替えて吉野を出たのだった。
で、どのルートで行くか。
紀伊半島を山の中横断すれば距離は近いけどたぶん無理。
とてもじゃ無いけど山が越えられず遭難しそう。
琵琶湖のほとりを通り関ヶ原を抜け大垣桑名津のルート。
これが現実的なんだけど、冬の関ヶ原はきつい。
こちらも今から抜けるのは結構辛い、かな。
じゃぁ。
堺に出て泉佐野、和歌山廻って熊野から入るルート。
この時期ならこちらか。
沿岸部をゆっくり行くルートだから最悪食料はなんとかなりそう。
途中絹と交換で食べ物手に入れたり泊まるとこ借りたりもし易いかな。
牛車を使うにもある程度はちゃんとした道があるこちらのルートがいいか。
人数多くなったからやっぱり徒歩だけでは厳しい。
とにかく行けるところまでは牛車も使おう。
で。
あんまり大勢でがたがた用意してたら当然屋敷の人に見つかるわけで。
お祖母様には、
「にいさまが見つかるよう願掛けにお伊勢まで行ってきます」
と、書き置きして出て行った。
当然虎徹も一緒だ。
ごめんね。虎徹。
でも。
これが現実的な方法なのだろう。
わたしひとりじゃ、無事たどり着けるか怪しかったし。
「ねえ、姫。泉の君のことは良かったの?」
出発してすぐ、にいさまがそう言ってきた。
「え? どうして……」
「ああ、ごめん。少納言に聞いた。っていうかあんまり姫が泣くからさ、どうしたわけか聞いたのよ。そしたら姫には好きな人が居るって言うじゃない。ほんとうごめん。入れ替わりたく無かったよね。好きな人が居るのに男に戻れだなんて、あたしそんなつもりじゃなくってさ……」
うん……。根は良い人なんだよね。にいさま。だからみんな慕ってる。わたしも嫌いにはなれなかったし。
「ごめんなさい……」
「ああ、泣かないで。ほんと困らせたいわけじゃ無かったんだってば。ねえ。ほんと……」
わたしは牛車に揺られながら、ぼろぼろ泣いた。
ほんとごめんなさい。わたしがわがまま言わなければにいさまもねえさまに戻れたのに……。ほんと、ごめんなさい……。
◇◇◇
ちょっと予定と違ったけれど、わたしたちは無事に伊勢に到着していた。
うーん。結局これは家の権力のおかげ? なのか。
佐野までは確かに牛車に揺られてきたのだ。そこで実家の荘園の館に泊まり、そこの家令が船を手配してくれて。
紀伊半島の沿岸を船に揺られそのまま鳥羽を廻り伊勢に入ったのだった。
うーん。
ちょっとこの時代を甘くみてた。
結局権力ってこういう便利さも産んでるのね。
伊勢でも外宮のほど近くにちゃんと館があり、わたしたちは其処に落ち着いた。
まあお祖母様ににいさま探しの祈願だって書き置きしたわけだし、おもうさまにもそう連絡が行ったのだろう。
話は全部少納言に任せたけど、どこに行ってもちゃんと関白左大臣の姫として丁重に扱われた。
まあいざとなったらここで失踪してもいいんだし、ここまでくればそう簡単に連れ戻されないだろうってそういう風に甘く考えてたけど、ちょっと心配になってきた。
流石に全国にこういうネットワークがちゃんとあるんだなぁ、と、改めて摂関家の権力ってすごいなって感心して。
にいさまはわたしのお付きの下働きって設定で連れ歩いてる。
まあこの格好で三位の中将だと疑う人もいないかな。
「で、今日はどうする?」
「下宮も内宮ももう三回も参りましたし、今日は門前町を観て廻りませんか?」
「うん。わたし、神宮の門前町観るの楽しみだったの」
「あは。なんか完全に楽しんでるね。まあでもあたしも楽しいよ。こうして姫と旅ができて、こうしてお伊勢まで来れたこと」
「にいさま……。ううん、ねえさま。ありがとう……」
わたしたちの仲は急速に良くなっていた。
今まで碌に本音を話したことなんかなかったけど、この旅の間に色んな事をおはなしして。
ああ、なんとかわたしたちみんなが幸せになる方法はないのかな……。
このねえさまを、幸せにしてあげるにはどうしたらいいんだろう。
鳥居までは牛車で向かう。
虎徹はそこまで。流石に神社の鳥居の中まで帯刀した侍を連れ歩くわけにはいかないし。
静々と鳥居をくぐり、そして石を踏み楚々と歩く。
途中五十鈴川で手水、で。
こっそり林のなかに入り、十二単を脱いで……。
「さあこれで町娘に見えるかな?」
「あはは。見えないけどー」
「あたしと若様はともかく姫様はちょっと無理?」
えー?
なにがちがうのよとくいかかるわたし。
ちゃんと着替えたしねえさまとも同じ格好のはずなのに。
もともと顔立ちもそっくりだったはず……、ああ。
わたしの顔立ちが男っぽくなってきたのがいけないのか……。
ねえさまはほおのラインがふっくらとしてきて、女性らしい愛らしい顔立ちになってきてる。
確かにこれでは男の中にはいられないか。
対してわたしは……。
五十鈴川の川面で見るわたしの顔は。
うん。シャープな顔立ち。女性らしい可愛らしさはカケラもない、な。
悲しい。
こういう所に性差が出るのか。もう、ほんとだめ。
「そっか……。わたしのじゃただの女装にしか見えないって事だよね……」
そう落ち込む。
「違う違う違うったら」
「そういうことじゃないんですよー」
ねえさま? 少納言?
「姫は町娘にしては綺麗すぎるんだよ」
「そうですよ、整いすぎて天女かと思われるくらいですよ?」
あうあう……。
お世辞でも、うれしいな……。
流石に、お貴族様そうろうで町中を観て廻るのは憚られたので今日は三人とも町娘としてまわるつもり。
こっそり戻って鳥居から出ると、人が多いせいか虎徹には見つからずに門前までたどり着いた。
にゃー。
草むらから猫が顔を出す。
この辺りに住んでるのかな?
貴族が飼ってたのが逃げ出したんだろうか?
かわいいな。
っていうかこの頃から此処には猫がいるんだ、と、感慨にふけって。
前世でお伊勢さんに来るといっつも此処で子猫に出会ったっけ。
そんな思い出がよぎる。
うん。なんかこの街並み、前世で見た町の面影があるなぁ。
もちろんいろいろ違うんだけど、何処と無く似てる。
あ、逆か。
未来の門前町が、この時代の面影を残しているのか。
ああ。ほんと不思議だな……。
赤福は……。無いよね流石に。
伊勢うどんも……。まだないかぁ。
うん。しょうがないよね。
振る舞い餅とか塩あずきとかはあるみたい。甘酒もあるのかな。
疲れた旅人がついつい立ち寄りたくなるような、そんな匂いが漂っていた。
基本的にはどうやら御帥の旅籠。その店先に餅、とか、米、とか、油、とか書いてある。お土産やさんみたいのは流石に無いな。
賑わう町家の街並みを見て回りながら、なんとなくしあわせな気分に浸って、わたしたちはゆっくりと歩いていた。
と。
前方に僧侶風の男性が三人、こちらを見ている。
「その方ら、どちらの檀那かな」
いちばん厳つい真ん中の人がそう声をかけてきた。
「いえ、わたしどもは京の左大臣家の縁者で御座います。この度はあるじが祈願にて参詣しておりますゆえ」
少納言がそう返事をして終わると思ったのだけれど……。
「かか。そのような町娘風情が大臣の縁者とな。片腹痛い。私弊禁断を知らぬのか? 我ら御帥の師なく勝手な参詣は許されんぞ」
え?
ああ、この時代まだ一般の参詣は無かった気がしてたけど門前町が流行ってるのはそういうこと? よくわからないけどこの人たち御帥の独占なの?
っていうか御帥も本当はもう少し後の時代だと思ってたけど……。
本で読んだだけの記憶はやっぱり実感もなくて。
油断した、な……。
じりじりと詰め寄る男達に、恐怖に固まるわたしたち三人。
ねえさまも震えてる。朝廷で殿上人としてふれあう男性とは根本的に違う人種じゃないかとさえ思える厳つい男性に囲まれ、言葉も無くしてしまって。
どうしよう、たぶん今一番冷静なのがわたし。わたしがなんとかしないととおもいつつ、も、勇気が出なくて立ちすくんでいると。
「まちなさい!」
よく通るバリトンボイス。男達が怯んだ隙にわたしたちの間には一人の侍が立ちふさがる。大太刀を抜き男達を威嚇して。
「九郎、そのまま前へ。虎徹、姫達を此方へ」
いつの間にかわたしたちの側に控える虎徹に誘導され、わたしたちは後ろにさがった。其処にいる泉の君の側に。
「もう大丈夫ですよ」
と、囁く声はやっぱり素敵で。
「下がりなさい! この方々は紛れもなく摂関家の姫君方である。下がらぬと言うならこの平の九郎匡盛が成敗いたす!」
大太刀を上段にかまえ、九郎と呼ばれた侍がそう叫ぶ。
まずい……、御曹司か……。そう呟き男達は踵を返し走り去ったのだった。
ああ。伊勢平氏。ここは彼らの基盤。そっか。そういうこと、か。
騒動が収まってほっとしたところで、わたしの胸は早鐘を打っていた。
──どうして? どうして泉の君がここにいるの?
お礼を言いたいのに言葉が出ない。
わたしが真っ赤になって立ちすくんでいると、
「帝?」
ってねえさまが呟いた。
え? え? 帝ってあの帝? 天皇陛下?
「ああ、その姿もかわいいよ。中将。よく似合ってる」
そうにっこり笑って答える泉の君。
っていうことは……。間違いなくみかどー?
もうびっくりして心臓が飛び出そうになっているともっとびっくりすることが待っていた。
帝はわたしの前でひざまづくと、
「瑠璃姫、どうかわたしの后になっては貰えないだろうか?」
そうのたまったのだ。
流石にまずい。
「無理です無理です無理です!」
かぶりを振ってそう叫んでいた。
往来で流石にこれ以上の話もできないと言うことでわたしたちは帝の別邸に案内されて。
畳の敷き詰めてあるお部屋に通された。
寝殿造ではなくて周囲が入り口以外壁に囲まれている感じ。
小窓は格子がハマっていて、侵入は容易じゃない。
うーん。
入ってきたときはふつうのお屋敷だったけど、此処は土蔵のような造りかな。かなり広いから狭い蔵みたいな雰囲気はないか。
人払いして扉を閉めると明かりは小窓だけなので昼間でも薄暗い。九郎さんが灯りを置いていってくれたので、まるで夜の密会のよう。
畳の上に敷物が敷き詰められている一角にわたしたちは座っていた。
正面に帝。わたしの左右にねえさまと少納言。
人払いされた中に少納言がいなかったので、ちょっと心強い。帝はそれもわかっていたのだろうか?
「改めてお願いします。瑠璃姫、わたしの后になっては頂けませんか?」
真剣なその瞳。帝は本気なのだ。
嬉しい。でも、ダメ。
心が痛い。このまま何も言わずに拒否をすることはもうわたしには出来なかった。
「申し訳ありません。わたしは結婚することそのものが出来ない身体なのです……」
苦しいけれど言わなければ、そう思い話しかける。
わたしはあのとき助けて頂いた者なのですよ、と。そう言おうとしたとき。
「大丈夫ですよ。わたしは男でも女でもないのだから」
全てを解ってる、そんな顔で、先に帝がそう言った。
「わたしは元々男児とも女児ともつかない状態で生まれたらしい……」
「そして、とりあえず女児に近いだろうと姫宮として育てられたのだが、長ずるにつれ男性としての特徴が現れてきてね……」
「しかし、どうやらわたしはほかの男性とは違い子は成せぬようなのだ。見かけもかなり違う。もともと普通の婚姻は望めぬ身体なのだよ……」
ああ、半陰陽……か。
前世で聞いたことがある。
うう。そんなの、わたしよりも帝の方が辛かっただろうに……。
わたしは思わず帝のほおに両手を伸ばして、そして……。
◇◆◇
「お辛かったでしょう……」
ほおに触れる彼女の手。その顔は弥勒菩薩のように慈愛に満ちて。
ああ、全てが許される気がする。
自分が生きてきて良かったのだろうか、ずっとそう思っていた。
それが。
彼女になら救われる、そんな利己的な考えもあった。
結局は自分の為。だけれど。
それでも。
わたしは彼女と共に歩みたい。
彼女が恋しい気持ちをこれ以上抑えたくない、そう決心して伊勢まで追いかけてきたのだ。
そして。
「愛しています。瑠璃姫。どうかわたしと添い遂げてください……」
目の前の彼女は涙を流しながら、頷いてくれた。
それは、喜びの涙で間違っていないと思えた。
◇◇◇
五十鈴川の清流の流れを眺めながら目の前に並ぶ料理を頂く。野菜や魚が小さく彩り良く調理され並ぶ其れ。醤でゆったりと味付けされたそれらにここ伊勢の伝統を感じて。
濁り梅酒を一口飲み、そして鮎の切り身を摘む。
瑠璃姫はなんだかスッキリとした表情になっている。
しかしまさか、姫と帝が知り合っていたとは。
おまけに姫の秘密を帝がご存じだったとは。
ああ、だから。
ある時から帝があたしを見るご様子が変わったような気がしていたのは、こういうことだったのだ。
姫の秘密を知ったということは、あたしが女子であることも、帝にはバレていたということだ。
純粋にあたしを瑠璃の中将としてかっていてくれたわけではなくて、姫の代わりとしてみていただけなんだ。そう思うとやるせない。
それでも。
帝にも、あんな秘密があっただなんて。
さぞお辛い人生を送っていらしたんだろうな。そう思うと、自分のことのように身に沁みる。
っていうか、女御の方達は誰もお気づきにならなかったのだろうか?
それとも、帝は誰にも打ち明けることなく、寂しい思いをされていたのだろうか?
そう考えれば、姫と帝が結ばれ幸せになってくれるなら、あたしは本望だ。
それに。
「帰ってこないか? 中将。君がいないと宮中が味気ないよ。それに、右大臣家の四の君なら宰相の中将の元に走ったよ。そのせいで君が失踪した原因が四の君と宰相の中将による不義によるものと。愛する妻と親友の二人に裏切られた中将が、失意の元に失踪したのだと、今、都ではそういう噂が飛び交っている。もう右大臣もカンカンでね。悪いことをしたと泣いて君の捜索を願い出る始末でね。まあ、そんな噂には少し居心地が悪いかもしれないけれど、君の心配事もある程度解決したんじゃないかな?」
そう、目の前で仰る帝の笑顔を見るにつけ。
そう、だね。
あたしにはまだこの瑠璃姫を守ってやらなきゃいけない仕事がある。それに。
あたしの人生だって、ちゃんと始めなきゃ。いけないよね?
◇◇◇
都に戻ることになった。
わたしも、ねえさまも、一緒にだ。
帝に戻っておいでって仰って頂いたのが効いたのか、それとも四の君の話が片付いたのがよかったのか、ねえさまは男姿のにいさまに戻ることにしたらしい。
本当は、このお話がとりかえばやのおはなし世界であるなら、ここでわたしたち二人は入れ替わるのが本筋。
にいさまもちゃんとねえさまに戻って幸せになる。
そもそも帝と結ばれるのはねえさまだったはず?
なのに。
わたしのせい?
だったとしたら本当に申し訳ない。
わたしだけが幸せになっちゃ、だめだ。
なんとしてでもねえさまにも幸せになってもらわないと。
かといってわたしが男姿になるのはやっぱり抵抗があった。
うん。それだけはどうしてもだめ。
それに。
帝はこのままのわたしに后になってほしいとそう仰ってくれた。
帝も帝で子供は作れないお体、そういう意味ではわたしと一緒ではある。
そんな帝のお側にずっといられたら、今はそれだけが望み。
どのように入内するのか、あまり注目を浴びずに自然と帝のお側に。そんな相談は都に帰ってからすることにして。
どちらにしてもおもうさまに内緒でなんか事は進められない。
わたしにとっては頼りなく見えるあんなおもうさまでも、この世界の関白左大臣、藤原頼道さまであるのは間違いのない事実で。
そして歴史上のおもうさまに当たる方は、人臣を極めたあの藤原道長さまの嫡男なのだ。
そんなお方を相手に、嘘で塗り固めて入内するなんて事できるわけがない。
たとえねえさまと入れ替わっているだなんて設定にするにしても、無理がある。
おもうさまはそんな鈍感な方じゃない。
わたしとねえさまがどっちがどっちだなんてことくらい、きっと会って話をすればすぐにわかってしまうだろう。
だから。
帰ったら、おもうさまにはちゃんと本当のことを話そう。
帝がそれでいいと言ってくれている、と、そこまで。
泉の君、帝だって、ちゃんとおもうさまに話を通してくださると仰っていた。
本当のことを知るものがいない宮中で、ならともかく。
おもうさまにはちゃんと話して安心させてあげたい。そう思って。
「あああ、お前たち、帰ったのか。心配した。心配したのだよ。お前たちが世を儚んで橋から飛び降りる夢を何度見たことか。その度に水行をして二人の安堵を祈っておったのだよ……」
およよよとにいさまに寄りかかりその手を掴むおもうさま。
にいさまは一足先に自室に戻り、装束を変え髪も纏め男姿に戻っていた。
だからおもうさまにとっては失踪する前そのままのにいさまだ。
わたしにはそんなふうにしないところを見ても、おもうさまはやっぱり心のどこかでにいさまを息子扱いしているのだろう。
わたしにはちゃんと女性と接する時のように距離を保っている。
それにしても。
おもうさま、痩せた?
食事も喉を通らないほど心配してくれたのだろうか。
だったらほんと申し訳なかったな。
一応、わたしたちの行き先はちゃんと把握はしていたのであろうっていうのは行く先々で感じていたけれど、それでも。
確かに、世を儚んで、っていうのはあり得る事だった。
だからね。
「おもうさま。ごめんなさい。心配かけて」
にいさまも、わたしも、二人してそう声にしてた。
◇◇◇
「あかんあかん、それだけはだめや。お前のことは不憫に思っている、だけれどダメや。主上をたばかることだけは絶対に許すことはできん」
いつもおっとりした話し方をなさるおもうさまにしては随分と口調も乱れ、強く反対された。
「それでも、帝はわたくしをそのままのわたくしでいいと仰っておいでなのです。子は成さなくてもいい、そばにいてほしいと仰ってくださいました……」
わたしは自分たちの秘密が帝にはバレていること。それでもにいさまにはそのまま殿上するように、わたしにも后になってほしいとおっしゃられたこと、ゆっくりと説明して。
最後にそう、付け加えて。
帝の秘密までは話せなかった。流石にそれを御本人の口からではなく明かすのは憚られて。
「なんと、帝が男色やったとは……。皇子ができぬのもそのためだとは……。しかし、良いのか? 其方は。男の体で入内して、本当に後悔せんのか?」
「ええ。おもうさま。わたくしは帝のお側にいたいのです。あのかたの、心を癒して差し上げたいのです」
「まぁ、なら、仕方ない。お前が生きながらえたのも仏のお告げのおかげ。今のお前の運命も、仏の指し示すものかもしれまへんな……。ああ、わかった。お前たちの好きにするがいい」
「ありがとうおもうさま!」
わたしは扇をとり落としおもうさまに抱きついた。はしたないとかそんなこと、もう考えている余裕はなかった。
おもうさまに、初めて一人の人間として認められた気がして嬉しくて。
目を白黒させているおもうさまに、大好きですと囁いたのだった。
◇◇◇
関白藤原頼道は帝からのお召しに困り果て、冷や汗をかきつつ御前に参上した。
斜め後ろには嫡男、瑠璃の中将こと藤原道房が控える。
「やあ関白、久しいね。中将が失踪してからというもの体調を崩し屋敷に篭っていたのだろう? どう、少しは回復したのかい?」
「主上におかれましてはご機嫌麗しゅう。私めのことまでご心配頂きまして恐縮至極に存じます。しかし……、本日は……」
「ああ、中将から聞いてなかったかい? どうなの? はは、中将もその姿は久しぶりだね。先日の伊勢での姿も良かったけれど、やはり中将にはその姿が似合うね。頼もしく感じるよ」
「いえ、帝にそう仰っていただけると心強く感じます。正直この姿に戻っていいものかどうかの葛藤もありましたから……」
「中将、君にはね、もう少しの間だけでもいいから私の力になってもらいたいと思っている。君の幸せを考えてないわけではないんだよ。ただ、私が次代に譲位するまでのわずかな期間でいい、私と、そして私の后となる姫の側にいてほしい、そう願っている」
あくまで御簾ごしではあったけれど、からだを乗り出さんとする勢いで懇願する帝。
その帝の様子を伺い、子らの言葉が真実であったのだと理解した関白は、それでも額にかいた汗を拭いつつ言った。
「本当に、よろしいのですか? 我が不肖の子、寿子を、后になどと……」
「ええ。これは私からのお願いなのです。ぜひあなたの子、瑠璃姫を后にと」
「しかし、それでは……」
「そうだね。あなたにも色々と思うところもあるだろう。そもそもあなたの子らがこう育ったのも仏の縁。咎めるつもりはないにしろ、世間的にはあまりつまびらかにならないほうが良いだろうからね。本来であればあなたの子であれば堂々と入内し皇后となれる血筋ではある。しかしこれだけ今まで固辞してきたものを今更すんなり入内させるわけにはいかないと思われるのもわからないではない。どうだろう? 瑠璃姫をまず内侍として参内させては? そこで私が見初め入内を迫ったことにすればあなたの顔も立つのではないか?」
家の身分的には確かに皇后にもたてる家柄。
入内ではなく内侍としての参内では世間的には同情すらかうだろう。
かといえ確かに今まで散々固辞をしてきたものを手のひら返しに入内させたのであれば、よからぬ憶測が飛ぶ可能性もある。
帝のおっしゃることももっともだ。
そう思い至った左大臣は一礼をし。
「主上の仰せのままに」
そう答え内裏をあとにした。
この世界はたぶんとりかえばやの世界だっていうのは間違いないと思う。
それでも随分とおはなしの中身とは変わっている。
わたしが内侍になるのは物語の強制力なのかもしれないけど、本当だったらここでわたしとにいさまは入れ替わり、ちゃんととりかえは完了するはずだったのに。
まさか男の体のわたしが帝の后になるだなんて、なれるだなんて、そんな幸せなことが起こるだなんて思ってもみなかった。
帝は自分の名前を「令」だと名乗った。
本来の平安の歴史だと、この次代の帝は後冷泉帝だ、もちろんそんな諡が今呼ばれているわけじゃないことはわかってるし、後冷泉帝であればわたしとは従兄弟になるはず。藤原道長、お祖父様の孫だから。実在の歴史では頼通の娘寛子を皇后としたはず。そしてついぞ寛子との間には皇子に恵まれなかったとあった。
そういう意味では、帝とわたし寿子が結ばれ子に恵まれなくても歴史通りと言えなくもない。
とりかえばやの世界とは違ってるけれどね。
そういえば。
わたしに寿子という女性名をつけたのはおたあさまだ。
仏のお告げで女子として育てられたわたし。命がつなげるのならそれでもいいと、おもうさまも納得してくれたらしいけれど、そのおかげでわたしはわたしとしてちゃんと入内できると考えたら、わたしに寿子という名を授けてくれたことには本当に感謝しかない。
この世界はとりかえばやの世界と実在の歴史をミックスしたパラレル世界になっていってるのかな。
そういえばもう一つ。
わたしが内侍として出仕するにあたり、先帝のお子で東宮のお世話や話し相手というお役目もあるらしい。ただし、その東宮は姫ではない。
とりかえばやでの女一宮ではなくて、ちゃんとした男宮、名を悠宮といった。
まだ元服前の宮は東宮として立てられたもののまだ幼く、帝に皇子ができさえすればとりかえられてもおかしくない、そんなお立場だ。
多感なそんな時期に、そういう不安定な立場でいらっしゃるのはお可哀想。そう同情もしてしまうし、またわたしが出仕するのだから間違いが起きることもない、と、安心もする。
とりかえばやの女一宮と弟姫のことについては、あの物語では完全に悲劇だし。
ああいう出来事が起こりようがないことに感謝した。
◇◇◇
まだ八つになったばかりの悠宮。この世界の元服は12~14歳ほどが一般的だ。早ければ11歳で元服することもあるにはあるが、それでもこの春宮が元服するのにはあと三年はかかる。
出仕する前は彼の境遇に同情したりもしてた。
帝に、というか、帝とわたしの間に子ができることは無いから、彼は本当に東宮であり次の帝になる立場のお方で、それも帝は彼の元服を待って譲位するおつもりなんだけれど、そんなことは他の誰も知るところではないし。
帝にお子が、皇子ができさえすれば自分は用済みだ、と思いながら育ったとしたらその思いはいかほどか。
なんだけど。
「内侍! そちらに猫が逃げた! 捕まえて!」
バタバタと走りこちらに近づいてくる悠宮。
その前にはこちらに向かって飛ぶように走る白猫。
猫の白は、わたしを見るとその場にすとんとしゃがみこんだ。
まるで獲物でも見るような顔でこちらをのぞきこんでいる。
「んー。シロ、シロシロシロ、こちらにおいで」
わたしは座ったままシロを見つめ、自分のひざをトントンとたたいてみせる。
しゃっとおしりを振ったと思ったら、ぴょんと飛び乗ってきたシロ。
そのままにゃぁと鳴いてわたしの手に頭を擦り付けてくる。
やさしく撫でているうちに、シロはわたしの膝の上で丸くなった。
「猫はなぜそなたにはそうして懐くのだ? 私がいくら抱き寄せても嫌がって逃げようとするばかりなのに」
はぁはぁと呼吸も荒いままわたしの目の前にさっと腰掛ける東宮悠宮。
みあげるようにわたしをみて、ちょっと拗ねたようなお声でそうおっしゃった。
「東宮はこうして猫に紐をつけ、ご自分の思い通りにしようと引っ張っていますよね。猫はそういうのを一番嫌がるのです。無理やり抱き抱えるのもだめですよ。やさしく撫でながら機嫌をとって、猫が気持ちよくなるようにしてあげるのです。紐で引っ張って無理やり動きを抑えても反発します。やさしく前足の内側をそっと持って、お尻と後ろ足をこうしてそっと持ち上げるように抱いてみてください。ぎゅっと抱くよりは猫も反発しづらいですよ」
「ごめんねシロ」わたしはそう猫のシロに声をかけながらそっ抱き上げた。
右腕に猫の前足がちょこんとかかり、ひだり手で後ろ足を支える感じ。
胸元に猫の背中、顔はひょこんと目の前の悠宮を見るように。
猫を圧迫する抱き方ではないので、猫にとっても苦じゃないのかな?
さっきまでさんざん走り回り暴れていたシロ。
わたしの腕の中でゴロゴロと喉を鳴らしている。
「いいな。内侍は。私も猫に触れたいのに」
「では殿下、この子のことをちゃんと『シロ』と呼んであげることから始めましょう。ほら、『シロはかわいいね』と言いながら撫でてあげてくださいな。喜びますよ」
「こう、か? シロ、おまえはなんてかわいいんだ」
そうおっしゃりおそるおそる手を伸ばす悠宮。
その手がやさしくシロの頭を撫でる。
気持ちよさそうにその悠宮の手に頭を擦り付けるシロ。
みるみる笑顔になっていく悠宮のことを、わたしは微笑ましくおもい見つめていた。
「はは。内侍はすっかり悠宮と打ち解けたようだね」
ふらっと現れた帝、わたしたちを見てそう仰って。
もう、いきなり来すぎ。もうちょっと体面を考えてくださると思っていたのに。
周りの女房たちもきゃぁきゃぁと落ち着きがない。こう頻繁にこちらに帝が御渡りになることも今までは無かったらしいし。
「帝!」
驚いている悠宮。わたしはシロを膝におろし優しく撫でてあげながら。
「帝、本日はどうされました?」
扇をアテそうちょっとつれなく伺う。
まだそんなに親しくなっていないことになっている。それなのに帝はいつもと変わらぬ距離感だもの、女房たちにも誤解されそうだ。
「何、ちょっと東宮になはしがあってね。それで寄ってみただけだよ。内侍の様子も知りたかったしね」
そう笑顔でおっしゃる帝。もう、そんな笑顔を見せられたら何も言えなくなってしまうじゃない。
終幕。
令泉帝の治世。
長らく尚侍として東宮に仕えた関白左大臣藤原頼道の娘寿子は入内して女御の宣下を蒙り、即日皇后に立てられた。
同じく下の娘の威沙子が寿子と変わるように尚侍として任命され後宮に出仕することに。
東宮悠宮は先帝の御子で令泉帝の甥御にあたるが母が源氏の出であり藤原の血ではなく、頼道は是非にも寿子の子に皇子をと望んだが叶わず、帝は生涯子に恵まれることは無かったという。
時代は貴族から武士へと権力構造が変化しつつある過渡期にあたり、藤原氏の権勢にも陰りが見えた。
帝は東宮が成人するのを待って早々吉野に隠遁し、吉野院と称される。
皇后であった瑠璃光院と共に歴史の表舞台からは姿を消し、末永く仲むつまじく過ごし、平穏な生涯をおくったという言い伝えだけが残されている。
◇◆◇◆◇
この世界はとりかえばや物語の世界だったのかもしれないけど、それでもなんとか違う結末になれたのかな。
そう、「しんとりかえばや」とでも言ってもいいかも。
この後実はねえさまも次の帝に見染められ女御となって無事姫を二人産んだのだけど、そのお話はまたいつか、ね。
最後に。
どうしてこの世界ができたのか、とか、どうしてわたしがここに転生したのか、とか、そんな難しいことはわたしにはわからない。
だけど、わたしがわたしとしてこの世界で幸福に生きることが出来たことに感謝して……。
この筆を置きます。
後世の人に、このおはなしがどう伝わるかはわからないけれど。
わたしがしあわせだったと、
それだけでも伝わってくれればうれしいな、と。
Fin