自由の味
スズ編がついに終わりを迎えた。
しかし、アレクスの心に残るのは達成感ではなく、説明できない虚無と焦燥だった。
守るべきものが増えたのに、なぜか世界はますます複雑に見える。
――静かな日常の裏で、彼の中で何かが軋み始めていた。
『9月8日 / 16:57』
スズが読み終わった後、植物園に連れて行った。ここでスズは自然を観察するんじゃない。自然の中に溶け込んでいる。草の上を歩き、花に触れ、太陽を直接感じている。あの部屋とは正反対だ。許可を求めることなく、この世界で物理的な空間を占める権利を表している。今まで彼女が持ったことのない自由と普通さの行為だった。
少なくとも、歩いている彼女を見ているとそう感じた。一つ一つの植物を見つめながら。
突然スズが立ち止まって言った。
「あ、アレクス!見てください、あのラフレシア...世界最大の花ですけど、実際は寄生植物なんです...そして咲くと腐った肉の匂いがするって言われてますね」
歩き続けながら、見るもの全てに何か面白いデータを口にした。
「あの、このハエトリグサ...触る回数によって葉を閉じるんです。5秒以内に2回触ると『これは虫ですね!』と判断するんですよ」
歩きながら周りを見回していると、スズがこんなにも知的だということに驚いた。魔術師としての勉強だけでなく、他の分野にも精通している。
またスズが立ち止まって言った。
「この竹は一日で1メートル成長できるんです。夜中に目が覚めたら、成長音が聞こえるかもしれませんね!」
しばらく過ごした後、別の場所に行く時間だった。これほど知的な彼女なら、博物館に連れて行くのがいいだろう。
科学博物館に到着すると、スズは展示に感動していた。今度は彼女が観察者だ。広い知識で芸術や展示を分析し、批評する。だがそれは楽しみのため、自分の基準でこそ。――研究対象から鑑賞する主体へ。視線の再征服だった。
スズが恐竜の骨格を見つめて言った。
「この恐竜は鳥により近いんです。もし生きていたら...」
眉を上げた。理解できないコメントだった。
少し歩くと静電気の展示に出くわした。スズがプラズマボールを指差して言った。
「これに触ると髪の毛が逆立つんです。試してみませんか、アレクス!」
緊張して一歩後退した。あれには触りたくない。
「いや、お前が先だ!」
スズが俺をボールに向かって優しく押した。
「勇気を出してください!」
接触すると髪が逆立った。その状態の俺を見てスズが笑った。まあ、少なくとも楽しんでいるようだ。
もう一箇所だけ行く場所が残っていた。そこで彼女は霊輝から解放される。
フィリアの協力で、彼女が働いているテーマカフェを一時間だけ貸し切ってもらった。誰にも邪魔されない空間…どうやって実現したのかは聞かなかった。まあ、細かいことは気にしないでおこう。
テーマカフェに着くと、フィリアがメイド服を着てウェイトレスとして俺たちを迎えてくれた。髪を二つのお下げに結んでいて、その格好は新鮮で可愛らしかった。でも今の俺の注意はスズに向けられている。
席に着いたものの、スズは何となく落ち着かない様子だった。
「アレクス...私、食べられないことを知っているでしょう?なぜここに連れてきたの?」
「スズには自分の体や、シンプルな快楽を楽しむ権利について深いコンプレックスがあるからだ」
彼女はさらに緊張して、きょろきょろと辺りを見回している。俺も気づいた。この場所は完全に空っぽで、レジにも誰もいない。フィリアが一体何をしたのか、正直気になるところだ。
「遠慮しないで、スズ。好きなものを頼んでくれ」
「え!でも...」
「俺を信じてくれ」
彼女はシンプルなケーキを注文した。俺はただじっと彼女を見つめていた。注文を待つ間、席を立って彼女の隣に座った。彼女はさらに緊張したようだが、もう時間だった。霊輝から解放された後に何が起こるかという真実を明かす時が来た。
「スズ、話さなければならないことがある」
スズは俺が真剣だと気づき、すぐに心配そうな表情を浮かべた。霊輝から解放された後に何が起こるかを全て話した。彼女は泣きそうに見えた。
「そんなの不公平よ!」
「分かってる。でも避けられないことなんだ」
泣きそうだったが、突然何かに気づいたような表情になった。まるで何かを知っているかのように。
「待って!...少し考えさせて...」
何か心の中で計算をしているかのようにぶつぶつと呟き始めた。人差し指をテーブルの上で動かしながら、視線は自分の思考の中に迷い込んでいるようだった。そして突然顔を上げて、俺の方を向いた。
「私の記憶を残す方法があると思うの」
「何だって!?」
「でも本当に可能性を計算しているだけで、確実なことは何もないわ...霊輝がどう機能するのか本当のところは分からないから」
「その可能性って何だ?何をするつもりなんだ?」
スズは胸に手を当てて本を取り出した。俺は驚いた。フィリア以外にも俺のことを覚えていられる人がいるのか?本当に可能なのか?
スズは本に書き込んでから、ページを破り取った。本は消えたが、破り取ったページだけは残った。ページを折りたたんで手に持った。
「私の力が現実を変えることができるなら、自分自身にも使えるはずよね?この力を使って君を覚えていられるようにするの」
俺は驚いた。フィリアがしたように、彼女も自分の霊輝の武器を使って俺を覚えていようとするのか?もし成功すれば、フィリアの場合と同じようになるかもしれない。
これが時だと決めた。スズの頬に手を置いて彼女を俺の方に向けさせ、近づいて唇を合わせた。その瞬間、アンジュがいつものように影の中から現れた。でもこの時、スズが手に持っていた紙が光り始めた。アンジュは驚いて叫んだ。
「それは何!?」
大きな青い光が辺り一面を照らした。眩し過ぎて何も見えねぇ。少しずつ光が薄れていく中、スズが俺の腕の中でぐらつく。支えながら見ると、彼女が持っていた紙がすっかり消えていた。
本当に...効いたのか?彼女は思い出すんだろうか?それとも、フィリアと同じことが起こるのか?
スズがゆっくりと目を開けた。顔を上げて俺をじっと見つめてくる。そして、何かつぶやいた。
「...何て言った?」
まだ聞き取れない。もっと近づくと、彼女が言った。
「...ケーキを食べたいです...」
何度も瞬きした。一体何が起こったんだ?これは...どういうことだ?
『スズ』
手の中の紙が薄れていくように感じていた。アレクスとのキス...目を閉じてしまった。とても疲れていて、周りを見渡すと暗闇だけが見えた。私の人生が目の前を通り過ぎていく、本のページをめくるように。私をあんなにも苦しめていたもの...孤独、拒絶、実験体だった頃のこと。でもそれらすべて、もう手放せるかもしれない。新しい視点をもらえたから。
でも突然、目の前に浮かんでいた本のページが急速にめくれ始めた。そこにはアレクスとの思い出があった。一つ一つの瞬間、私が取った決断...でもそのページたちが燃え始めた。叫びたかった。でも声が出ない。ただアレクスとの記憶が目の前で消えていくのを見ているだけ。止めようとしたけれど、できなかった。
この夢、この瞬間、心の中のこの空間で、残酷にも記憶が消えていく様子を見つめていた。胸がとても痛くて、静寂と暗闇の中で泣き始めた。本は消え、無限の暗闇に落ちていく、落ちていく、落ちていく。一体何が起こっているの?
そして突然、柔らかくてふわふわしたものの上に落ちた。周りを見回すと、なぜかこの夢はお菓子でいっぱいになった。巨大なケーキの上にいる。空は綿菓子のよう、道はクッキー、家々は飴でできていて、地面にはキャンディーが刺さっている。すべてが甘いもの。
何が起こっているのか理解できずにいると、突然お腹が空いた。久しく感じたことのない感覚。目の前にあるすべてを食べたくなった。甘いものはいつも大好きだったから。すべてを見て、あの感覚を思い出した。口の中がよだれでいっぱいになる感じ。
巨大なケーキを齧ろうとしたけれど、空気を噛んでいるよりも虚しい感覚。お腹が空腹を訴えている。今すぐ目を開けたい衝動に駆られた。叫びたいことは「ケーキを食べたいです」だけれど、できない。
立ち上がって走り始めた。周りを見れば見るほどお腹が空いてくる。ついにお菓子の通りの終わりに着くと、チョコレートの池の奥から空に向かって何かが浮き上がった。クッキーでできた扉だった。でも真ん中には明らかに魔法陣があった。
あの扉を通るべきかな?どうしたらいいの?周りを見回すと、私の高さで空中に浮かんでいる何かに気づいた。半分焼けた紙の切れ端。これは何だろうと思って、触れた瞬間に一つの名前が頭に浮かんだ...誰だろう?とても深いものが心の奥から湧き上がった。
もう一度あのクッキーの扉を見ると、ひとりでに開いた。まるで通るように誘っているかのように。そして私は歩き、そして走って、その扉を通り抜けた。まだお腹が空いていて、目が開いていく感覚がした。ついにまた食べることができる。食べたい。
「...ケーキを食べたいです...」
完全に目を開けた瞬間、一人の男の子を見た。誰なのか分かっていた。少なくとも知っているような気がした。名前と顔は覚えているけれど、それ以外は何も覚えていない。でもお腹がほかの何よりも先に食べることを要求している。
「食べたい...です」
彼は頷き、ウェイトレスがケーキを一切れ持ってきた。ゆっくりと食べた。一口一口を楽しんで、口の中に戻ってきた感覚すべてを。甘さ、舌の上での感覚。それらの感覚すべてをもう一度思い出した。また普通の人になれる。
ケーキを食べ続けながら泣き始めた。彼は慌てて慰めようとした。ついにケーキを食べ終えて言った。
「美味しかったです。そう思いませんか...アレクス!」
その瞬間、アレクスはとても驚いた。あまりにも驚いて私を抱きしめた。私は何が起こっているのかよく理解できなかったけれど、記憶は断片的だった。でも何となくアレクスは、覚えていないぼんやりした断片の一部だということが分かった。彼の近さを感じることができた。彼の温もりを感じることができた。私自身もまた「生きている」と感じることができた。
『9月8日 / 18:42 / アレクス』
泣きたくなった。スズは…本当に俺のことを覚えているんだ。フィリアの時と同じことが起きている。彼女がはっきり記憶してるわけじゃない。でも、記憶の奥に俺との欠片が残ってる。…この断片化された記憶の向こうにいるのは、間違いなく俺なんだ。
「少し混乱していますが...君が何が起こったのか教えてくれるはずですよね」
うなずいて、もう一度全部話した。霊輝のことから始めて、どうやって出会ったか、俺に関係することは全部もう一度説明した。話し終わると、彼女は考え込んでいた。
「そうですか...それが全部この数日の間に起こったことなんですね...」
全てを再び受け入れようとしている。一言一言を静かに処理しているみたいで、目を閉じて黙っていた。やっと目を開けて微笑んだ。
「ありがとう、アレクス。霊輝から解放してくださって」
前よりも自由に見えた。もっとリラックスしてるというか。やっと帰る時間だな。そういえば、スズには泊まる場所がない...すまないけど、また頼み事をすることになる。
アナの家に行って、スズがもう霊輝から解放されたことを話した。彼女を預かってもらえないかって頼んだ。今アナの家にはルビーが住んでて、これでスズも加わる。いつも女の子たちの面倒を見てもらって本当に申し訳ない気持ちになる。でも、アナはそんなに気にしてないみたいだった。
やっと八人目を解放できた。残りはあと二人だけ。明日の朝早くアンジュと話して、次の子を探し始めよう。
『9月9日 / 7:06』
アンジュがじっと俺を見つめてる。その視線を感じて、なんか居心地が悪くなってきた。
「何だよ?」
「別に何でもないわよ。ただ、オマエいつでも質問してくるんでしょ?」
「ああ、そうだな。聞きたいことがあるんだ」
「昨日スズに何があったのか聞かせなさいよ」
スズが霊輝の武器で何をしたかを話した。アンジュは俺の話を聞いて考え込んでる様子だった。以前フィリアにも似たようなことが起きて、今度はスズにも同じことが起きた。この全てに何か隠されてるものがあるかもしれない。彼女たち全員の記憶を戻すことができる何かが。
「それで、どう思う?アンジュ」
「...分からないわよ。全部おかしすぎる」
アンジュでさえ結論に辿り着けないでいる...
話題を変えて、あと二人の女の子を見つければいいだけだが、アンジュが教えてくれた手がかりはまだ十分じゃない。一人はただ街のどこかの道で見つけたって言ったが、どんな道だったかは詳しく言わなかった。
「アンジュ、次に探す女の子がどこにいるか見当をつけるために、オマエが街で見つけたって言った子のことだが、周りに何があったか覚えてる?」
「あの子は道の真ん中で倒れてたのを覚えてるわ...周りには家があったわよ」
そうか、住宅街だったんだな。間違いなく大変だ。一番探すのが難しいやつを探そうとしてる。でもどうやって?街中の住宅街全部を探すのか?そんなの無理だろ。範囲が広すぎるし、街中にたくさんあるんだから。じゃあどうやって探せばいい?
「他に何か覚えてることはある?」
「うーん...あの子からすごく強い匂いがしてたのを覚えてるわ」
「匂い?」
「そうよ。何の匂いか分からないけど、その匂いがすごくしてたの」
匂い、住宅街...まだ十分な手がかりじゃない。
「他には?」
「...うーん...うーん...あ!」
何か重要なことを思い出したみたいだ。
「今思い出したけど、これがオマエを助ける一番いい手がかりかもしれないわよ」
「何だ?」
「その場所からは少し離れてるけど、その辺りに墓地があったのを思い出したわ」
俺は口をあんぐり開けた。住宅街の近くに墓地?彼女が混乱してるんじゃないか?地理は詳しくないから間違ってる可能性もある。
「本当か?」
「ええ、間違いないわよ。墓地の上を飛んで通ったのを覚えてるもの」
学校の後で調べてみよう。今は出かける準備をした。部屋を出る前に、セレステがいないことに気づいたが、彼女のことを聞く時間はなかった。
『17:27』
スマホで検索しながら、アンジュが話していた場所を探していた。住宅地の近くに墓地がある場所...ネットで長時間探し回って、やっと見つけた。確かに墓地はあるが、住宅地の近くというより、その住宅地に向かう道路沿いにあるようだ。街の南側にある住宅地か...家からはそれなりに離れてるが、行けない距離じゃない。
一度そこを見に行ってみるべきかもしれないな。ただ、まだあの子がその辺りにいるかどうかは分からない。
それに、父さんとの話もまだ済んでない。自分の本当の出自について、まだ全部はっきりさせてないんだ...本当に今が話す時なのか?
父さんに騙されて生きてきたのは、ほぼ確実だろう。でも少し考えてみると、本当の出自を知ることってそんなに重要なのか?知ったところで何も変わらない。真実を知っても同じ人間のままだ。
エミリーとは既に話した。一つ確実なのは、彼女の遠い親戚だということ。エミリーもそれを真剣に受け止めていた。エミリーの母親が言っていたことは、やはり本当だったんだろう。
確実に、霊輝のような力を持つ家系の出身なんだ。父さんと話して真実を知ったとしても、何も変わらないだろうな...
いずれは本当の出自を知ることになるだろうが、今は他にやるべきことに集中しよう。次の女の子を探すことだ。
『9月10日 / 7:00』
目覚まし時計のアラームが鳴り響いた。だが、何かしようとする前に、目を開けることさえできる前に、誰かが俺を起こそうと叫んでいた。
「急いで急いで!起きなさい!そのアラームはもう起きろって言ってるのよ!」
目を開けた瞬間、顔のすぐ近くにいる相手を見た。セレステだった。
「...一体何してるつもりだ?」
「起こしてるのよ!」
「なんでそんなに顔を近づけるんだ?」
セレステは離れた。まだ眠気が残っていた俺はベッドの端に座った。心配そうに見え、何か言いたそうだった。
「何かあったのか?」
「そうよ、とても悪いことが起きたの」
この言葉を聞いて、俺は完全に目が覚めた。
「昨日、森の洞窟で夢喰いの巣を発見したのよ」
「...!?」
「どうやら思ってたようにみんな去ってなかったの。冬眠してるみたい」
また夢喰いの状況に対して無力になりそうな気がした。
「また キミの助けが必要なの」
セレステはまだ俺が何かできると信じているようだが、俺は同じようには思えない。部屋に沈黙が訪れ、突然雷が鳴った。雨が降りそうだった。急がないと学校に行く途中で雨に打たれてしまう。
着替えの準備をした。セレステに何も言わずに。実際何もできないことがとても心配だった。事実、あの時も本当に何もしなかった。
セレステは俺の態度に気づいたようで、近づいてきた。
「ねえ、返事しなさい!」
「...」
ただ視線を逸らした。これがセレステを怒らせ、シャツを掴んで俺を引き寄せた。
「聞きなさい、私がキミを助けようと決めたのは、キミが特別だと思ったからよ。キミの中の何かが私にそう信じさせたの。キミは普通の人間じゃない」
そうだ。俺は普通の人間じゃない。自然な霊輝を持っている。半分知っている自分の出自がその証拠だ。俺はそのことを言っているのだと思ったが、セレステは続けた。
「キミを信じたのは、キミが優しい人だって分かったからよ」
俺は驚いてセレステを見た。その表情は怒っているように見えた。
「私は大勢の人間を見てきました。悪い人、良い人もいるけれど、これらのカテゴリーに入らない人間の数はとても限られているの...」
なぜセレステが人間を分類することについて話しているのか分からなかった。
「キミは自分が思ってるより多くのことができるのよ」
セレステは影の中に消えた。雷が鳴り、俺はただそこに立ったまま思案にふけっていた。どうすればいいのか分からなかった。
次回――
その裏では、見えない影が再び息を吹き返そうとしていた。
夢喰いの脅威――それは、まだ終わっていなかった。
アレクスたちの視点が交錯し、彼らの心が少しずつ変わっていく姿が描かれる。
ルーシーの想い、アナスタシアの決意、そしてライラの成長への願い。
複数の視点が重なり合う中で、それぞれが見出す「答え」とは――。




