記憶の欠片と新しい絆
ひかりの視点を通して、彼女が「忘れる」という現実とどう向き合うのかが描かれていきます。失った記憶に苦しみながらも、新しい感情を手にしようとする姿は、これまでとは違う強さを感じさせます。 そして再びアレクスの視点に戻り、アンジュが語る秘密が物語に新たな影を落とす――。
『5月3日 / 12:05』
茜が過去の束縛から解放されて、本当の自分になろうと決めたのはわかっていた。結局のところ、彼女を縛っていた期待なんて、誰かに押し付けられたものじゃなく、自分自身が作り出した影だったんだろう。話を聞いている限り、そんな気がした。
会話の最中、突然エミリーが驚いた声を上げた。
「ねえねえ、これ何!?」
全員の視線が彼女に向かう。スマホを見つめながら、画面の内容が信じられないという顔をしていた。
「どうしたんだ、エミリー?」
俺も同じような疑問を抱えながら聞くと、彼女は画面をこちらに向けて言った。
「これ見て!おじさんがまた変なことやってる!」
画面を詳しく見ると、写真が表示されていた。警察署でのウィリアムと若菜進也の写真だった。かなり皮肉な光景で、ウィリアムがまるで自撮りでもするかのように笑顔を浮かべている一方、若菜進也は逮捕されている。どうやらウィリアムが当局にあの男を引き渡したらしい。もうあいつのことを心配する必要はなさそうだ。
エミリーは叔父さんの皮肉さに呆れたようにため息をついた。
どうやってあの男を捕まえたのか気になったが、よく考えてみれば、ウィリアムは霊輝の使い手だ。あらゆる面で若菜進也を上回っている。勝負になるはずがなかった。
残るは二つ。ひかりが目を覚ますのを待つことと、まだ茜に伝えていないことがある。ひかりが目覚めた時、彼女は俺のことを覚えていない...
『13:28 / ひかり』
目を開けた瞬間、天井が見えた。
視界がぼやけて、目眩がする。世界がぐるぐると回っているようだった。何かが変わった。体の中で、確実に何かが変わっている。
上体を起こそうとしたが、体が重い。まるで鉛でも詰まっているかのように。
「もう少し慎重に動いた方がいいわよ」
突然の声に驚いた。振り返ると、見覚えのある女性が椅子に座っている。
アナスタシア。
でも、なぜこの女を知っているんだろう?いつ会ったっけ?誰が紹介してくれたんだっけ?
額に手を当てて記憶を辿ろうとした。
数日前...茜に裏切られて...あの男に連れ去られて...
他の女の子たちと一緒に逃げ出したのは覚えている。でも...もう一人、誰かいたような気がする。大切な誰かが...
でも思い出せない。
胸に手を当てた。記憶の欠損に心が痛む。と同時に、緊張で心臓がバクバクと音を立てている。
あ。
心臓が動いている。
信じられなかった。アナスタシアの方を向いた。
「お前、わたしに何が起こったか知ってるでしょ?教えて!」
アナスタシアは何も言わず、ただわたしを見つめている。小さくため息をついて、腕を組んだ。
「…あの彼のおかげで、君は解放されたのよ」
彼?
誰のことを言っているんだろう。イライラが募った。
「誰よ、それ!?」
アナスタシアは立ち上がると、ベッドの端に腰を下ろした。わたしに近づいて、手を握ってくる。
「本当に忘れたのね...」
アナスタシアの言葉に、なぜか胸が締め付けられた。何かがおかしい。何かが起こったはず。でも思い出せない。
呼吸が荒くなる。でも肩に置かれた彼女の手が、少しだけ心を落ち着かせてくれた。
「ひかりさん、この家に来た日のこと、覚えているかしら?」
手を見つめた。ぼんやりとだけど...そう、確かにこの家に来た。アナスタシアの家に。その日、彼女と話をした。あの会話...
思い出した。
あの時、アナスタシアが言っていたこと。忘れるって...大切な人たちを忘れるって...
一つだけ理解できた。今のわたしの状態は、もう前とは違う。再び人間に戻っている。記憶の断片が、人間に戻るために何が起こったのかの答えだった。
もし今、霊輝から解放されているなら...それは誰かが...その人が...
アナスタシアの言葉は、わたしがその人のことを忘れてしまうことを、あらかじめ教えてくれていたんだ。救ってくれた人のことを。
拳を握りしめた。喉に何かが詰まったような感覚。でも泣きたくはなかった。
涙を流したくなかった。絶対に泣きたくなんてなかった。何が起こったのか、もう理解していたから。
…ゆうのあの言葉を、今なら理解できる。あの人が教えてくれたから。……どうして疑う必要がある? もう決めたんだ。過去を捨て、新しい一歩を踏み出すと。縛られていた鎖は、全て断ち切られた――あの人のおかげで。
誰かがわたしを理解させてくれたから。それだけははっきりと覚えている。それはわたしの一部だった。
アナスタシアが突然口を開いた。
「アレクスは君を救うために全てを捧げたわ。彼の優しさを無駄にしないで…まあ、彼なら、君の笑顔だけで満足でしょうけれど」
アナスタシアがその人について話している様子を見つめた。アレクス...そういう名前なのか。
その名前を心の中で呟くと、なぜか胸の奥が温かくなった。アレクスがわたしを救ってくれた。なぜ疑う必要がある?周りで起こっている全てのこと、断片的な記憶、この子たちと出会った記憶、そして何かを決意した記憶。
全てにはもう一人、足りない人がいる。その人がアレクス。
覚えていないかもしれないけれど、心の奥で何かが訴えかけてくる。この人はわたしにとって大切な存在だって。
急いで会いたくなった。
「アナ!アレクスはどこ!?ここにいるの!?」
「アナ?」
アナスタシアが一瞬、目を見開いた。……普段は絶対に呼ばれないあだ名——『アナ』で声をかけたからだ。少し戸惑っているみたいだけど、それもわたしがつい言ってしまったから。彼女はすぐに冷静さを取り戻し、静かにうなずいてくれた。
「アレクスは...まだ下にいると思いますわ」
アレクスがまだここにいるって聞いた瞬間、心臓がドキドキと激しく鳴り始めた。毛布を勢いよく投げ捨てて、リビングに向かって走り出す。
「待って、ひかりさん!走っちゃダメよ――」
後ろからアナの声が聞こえたけど、止まれなかった。走りながら息が荒くなって、自分の足音が遠くに聞こえる。リビングに近づくにつれて、心臓の鼓動がもっと激しくなった。
リビングのドアを勢いよく開けた瞬間、みんなの視線が一斉にこっちを向いた。でも、見つめていたのはそこに座っている唯一の男の子だけ。
目が合った。
少し観察してみる。目立つ髪色、その瞳、座り方...間違いない。この子がアレクス。わたしを救ってくれた人。
「アレクス...?」
驚いたような顔で立ち上がる彼。なんだか動揺してるみたい。
「まさか...俺のことを覚えてるのか?」
ゆっくりと彼に近づいて、すぐ近くまで来た。その質問に答えるのは、痛いほどにもどかしい。覚えてない。でも、心の奥で何かが彼のことを知ってる。何かが彼の名前を叫んでる。
その時、予告もなしに、突然つま先立ちになって彼の唇に自分の唇を重ねた。ほんの一瞬のキスだったけど、今のわたしの気持ちそのものだった。
「えへへ...キス、盗んじゃった」
固まって顔を真っ赤にしてるアレクスを見ながら、からかうように笑う。周りの女の子たちが慌ててるのが見えるけど、そんなのどうでもいい。
大切なのはアレクスだけ。
突然、アレクスが首筋を掻いて視線を逸らした。顔は赤いままなのに、何か言いたそうにしている。
「...実は、お前に奪われたキス、これで二回目なんだ」
その言葉に、何度も瞬きを繰り返した。記憶にはないけれど、アレクスが認めたということは、以前にも同じことをしていたらしい。今度はこっちの方が顔が熱くなるのを感じて、恥ずかしさが込み上げてきた。でも、本当は気にならない。彼は大切な人だから。
そんな瞬間が、ルーシーの大きな声で遮られた。
「きさま!! 何してくれてるのよ、ひかり! なんで急にアレクスくんにキスなんかしたの!?」
不機嫌そうな顔でこちらに近づいてくるルーシーを見て、ここで自分の立場をはっきりさせるべきだと判断した。結局のところ、これは一種の競争みたいなものでしょう?馬鹿じゃないから分かる。ここにいる女の子たち、みんなアレクスに何かしら感じてるのは見てれば分かること。
「何って、わたしを救ってくれた人への感謝を示しただけよ」
からかうような調子で答えると、ルーシーはさらに怒って、もっと近づいてきた。わたしより少し背が高いことを示そうとでもしているのか、胸を張っている。でも、わたしにとって相手をからかうのは自然なこと。からかい上手なのは生まれつきなの。
「あら、ルーシー?背の高さを自慢したいの?だったら少し離れてくれる?よく見えないから」
アレクスが緊張を和らげようと近づいてくる。
この機会を逃すわけにはいかない。
すぐに彼に抱きついて、顔を胸に埋めた。暖かくて、安心できる場所。ここにいると、心が落ち着く。
「離れなさいよ!!」
ルーシーが腕を引っ張ってくる。でも、離すものですか。
彼女に向かって舌を出してやった。
そのまま再びアレクスの胸に顔を落として、目を閉じる。
もしかしたら記憶にはないかもしれない。でも、この感覚は確かに覚えがある。散らばっていたパズルのピース、すべてが明確になった。足りなかったのは彼だった。記憶の中の欠けていた大切な一片。
離したくない。
これからもずっとアレクスと一緒にいたい。これからは彼と一緒に未来へ向かって歩いていきたい。絶対に手を離さないで。
だって今、新しい機会が生まれたのだから。今度こそ彼の隣で新しい未来を築く機会が。
そう感じていた。彼と一緒に歩いていきたい。そう、心の底から思えた。
『5月4日 / 10:22 / アレクス』
ベッドに横になりながら、昨日起きたことを思い返していた。特に、ひかりの突然のキス。それと、ひかりの挑発でルーシーがあんなに怒っていたのに、結局茜が面倒を見ることになったこと。
ひかりと茜は今のところ鳴羽界隈には戻れないから、アナスタシアの家に世話になっている。でも、一番驚いたのはひかりの反応だった。
記憶を失っているのに、俺を見ただけで何かを理解していた。
『少し考えれば分かることよ。お前がわたしの記憶から欠けているピースなのは明らかじゃない』
そんなことを言っていた。説明は聞いたけれど、それでもひかりは本当にすごい奴だと思う。他の皆と同じように。
でも、また例の疑問が頭をもたげてきた。
俺は彼女たちにとって何なんだ?そして、俺は彼女たちに対して何を感じているんだ?
考えれば考えるほど、答えは見つからない。混乱するばかりで、頭の中がごちゃごちゃになっていく。
そんな時だった。
耳元に妙に軽やかな風を感じた。
「うわっ!」
驚いてベッドから転げ落ちる。痛みで顔をしかめながら振り返ると、そこには笑いを堪えきれずにいるアンジュがいた。
「あはは!その反応、最高よ♪」
ベッドに座り直しながら、アンジュの悪戯に少しイラっとした気持ちを抑える。
「ごめんごめん、ただ驚かせたかっただけよ」
アンジュがそう言いながらいつものからかうような表情を浮かべているが、今日は何か違って見えた。前よりも安堵しているというか、明るく生き生きとしたオーラを放っている。
正直、ホッとした。あの時の落ち込んだアンジュはもう見たくない。
「で、何の用だ?何か言いたいことがあるんだろ?」
アンジュはベッドにごろんと横になって、両手を首の後ろに回しながら言った。
「オマエの進歩を褒めに来たのよ。もう四つ目の霊輝を回収できたじゃない」
そう言うと、背中に回り込んできて頭をぽんぽんと叩き始めた。別に嫌じゃない。アンジュなりの愛情表現だと分かっているから、されるがままにしていた。
でも、ふと疑問が頭をよぎった。振り返ってアンジュと向き合う。
「なあアンジュ、まだオマエの世界について知らないことが多いんだが...特に聞きたいことがある。なんで霊輝を全部回収しようとしてるんだ?」
その瞬間、アンジュの表情が曇った。また、あの悲しそうな顔だ。この質問は彼女にとって触れられたくない話題らしい。そうでなければ、なぜこんな顔をする?
無理に笑おうとしているが、うまくいっていない。
「...そんな細かいこと気にしなくていいのよ...全部回収したら教えてあげる、約束するわ...でも、一つだけ説明しておかなければならないことがあるの...」
アンジュが俺の隣に座った。いつもより真剣な表情をしている。これから話すことは、本当に重要なことらしい。
「この10個の霊輝を回収するのは...実は直接的な任務じゃないのよ」
眉をひそめた。アンジュから聞いた話では、彼女の上官たちは霊輝の回収を進めているはずだった。でも、今の状況と合わない……
「でも前に、上官の連中が探してるって言ってただろ?」
アンジュは首を振りながら、膝の上に手を置いて地面を見つめた。
「それは10個の霊輝がまだ実験段階だった時の話よ。一度すべてが彼女たちの中に入ってしまうと...状況が変わったの。サップ隊長は結果を見て失望したようだった。だから選択肢は二つしかなかった...彼女たちに霊輝を失わせるか、霊輝を回収するか。失わせるというのは...この世から排除するということよ。人間の中の異常な存在として扱われたから。そして回収は、人間の感情を理解できない私たちには複雑すぎる方法だった」
アンジュの声が少し震えているのに気づいた。
「だから私が独断で決めたの。上官たちを少し混乱させる計画を立てて、偽の報告書を作成して...処刑者たちが派遣される運命の日を先延ばしにしようとしたのよ。だからこそ天然の霊輝使いを探す必要があったの。オマエを見つけられれば、助けることができると分かっていたから。理解できる?アレクス。私がやっていることは時間との勝負なのよ。上官たちに私の本当の行動がバレないようにしているの」
胸の奥で何かが重くなった。アンジュはあの世界の者たちを背いてまで、あの少女たちを救おうとしている。
アンジュが刀を掲げながら説明を始めた。
「この刀は今、彼女たち全員の霊輝を宿してるの。これからこの霊輝をどうするかはまだ分からないけど...これは秘密裏にやってること。誰にもバレちゃダメよ。だから最初に思いついたのがこの方法。この刀に10の霊輝を隠して、真実を皆から隠し続ける」
アンジュの表情が急に暗くなった。
「でも...もし第二の選択肢があるとすれば...それはあるわ。ただ、その選択肢は私の存在を危険に晒すことになる。なぜなら、これらの霊輝を大死神様に持っていくことになるから」
その名前を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「大死神様?」
アンジュは少し驚いたような顔をした。まるで俺が「死」という文字を含む存在の名前に反応したことを意外に思っているようだった。
「お前たちにもそういう概念あるんだな……」
「ある...大死神様は私たちを創造した存在だ。第一世代から。私は現在第十世代に属してる」
「10?意外と少ないのね。もっととんでもない数字...1000とか言うと思ってたわ」
アンジュの眉間にしわが寄った。ヤバい、軽口を叩いてしまった。
「分かりやすく説明するとね、私たちの世界の住人は違う生命を持ってるの。時間の流れも私たちには違うのよ」
突然アンジュが俺に近づいてきた。鼻と鼻がぶつかりそうなほど接近してくる。
「アンジュ?どうした?」
「何でもないわ。でもオマエに理解してもらいたいの。私たちの大死神様がどれほど偉大な存在かを。誰でも気軽に会えるような方じゃないし、ましてや私みたいな低レベルの存在が...もし霊輝を渡すために大死神様の助けを求めるとしたら、私に何が起こるか分からない...」
また寒気がした。「神」だの「死」だのといった話は、今の俺には重要じゃない。それよりも、アンジュが言った中で気になることがある。彼女も含めて、あちらの世界の連中は人間の感情を理解できないと言っていたが...どうもアンジュに関してはそうでもないように見える。
よく観察していると、普通に人間のように感情を表現している。「人間」という概念は彼女には当てはまらないかもしれないが、それほど人間と変わらない。感情を理解していないと言うより、むしろ感情の扱い方がわからないんじゃないだろうか。いつもそんな印象を受けていた。
「アンジュ...本当に優しいんだな」
「ん、ああ、いや……つい」
腕をばたばたと動かしながら慌てふためくアンジュを見て、思わず笑ってしまった。気がつくと、以前彼女がしてくれたように、俺の手がアンジュの頭の上に置かれていた。そっと撫でてみる。
髪に触れた瞬間、妙な感覚があった。
アンジュは目を大きく見開いて、口を開けかけたが、結局何も言わずに俯いてしまった。俺の手の下で、静かにしている。
これが彼女なりの愛情表現だったなら、同じように返してみよう。
撫でているうちに、アンジュの頭がだんだん熱くなってきているのがわかった。あの時と同じように、まるで燃えているかのような熱さだ。でも今回は手を離さなかった。
その日の残りの時間は、ただ休息を取った。
明日になれば、何かが起こるかもしれない。そう思いながら。
次回からは再び穏やかな日常が戻ります。けれど、その中で毎日が新しい出来事の連続。仲間たちとの関わりや体験が少しずつ積み重なり、やがて大きな意味を持つことになるでしょう。




