優しさの代償
今回のエピソードは、視点がちょっと変わります。
ルーシーの過去の出来事を中心に描いてます。
いつもの話の流れとは少し違うかもしれませんが、
彼女のことをもう少し知ってもらえたら嬉しいです。
『××××年 / ルーシー』
幼い日々、私は両親の笑顔に包まれていた。お父さんのひげ剃り後の清涼な香り、お母さんが編んでくれたセーターの柔らかい手触り──
小学生の時は友達もたくさんいて、毎日が楽しかった。困っている人がいたら必ず助けに行ったし、みんなが怖がって動けない時も、真っ先に前に出て行動していた。
中学生になって、少し大人っぽくなった。可愛く見られたいという気持ちも芽生えて、おしゃれにも興味を持つようになった。友達もすぐにできたし、相変わらず困っている人がいれば手を差し伸べていた。でも...その頃から知ってしまった。人の嫉妬という醜い感情を。
女子トイレで鼻血を出した同級生にタオルを渡し、運動会では足を挫いた男子の代わりにリレーを走った。
廊下で囁きが聞こえ始めた。
「あの子、目立ちたがりだよね」
「何でもできるアピールがうざい」
「親切ぶってるだけよ」
そんな陰口を叩かれるようになった。違うと否定しても、一度ついたレッテルは簡単には剥がれない。それでも、自分らしくいることを諦めなかった。きっと分かってくれる人もいるはずだと信じて。
でも家でも暗雲が立ち込めていた。お父さんの体調が悪くなることが増えて、お母さんの笑顔も少しずつ消えていく。病院代もかさんで、家計は苦しくなる一方だった。
お父さんの咳き込む音が夜ごと大きくなったある晩、お母さんが食卓で箸を置いた。
「医療費…今月は厳しいわ」
それでも、頑張らなきゃと思っていた。家族のためにも、自分のためにも。
その夜、コンビニの夜勤が始まった。帰り道の街灯が、頬の消えない睡魔を照らす。
高校入学式。桜の舞う中で新しい友人グループができた──
エリとシンが中心だった。
「ルーシーって本当に気が利くね!」
エリの笑顔に、中学の傷が少し癒えた気がした。
いつものようにすぐに友達ができた。クラスのみんなが優しくしてくれて、困っている人がいれば手を差し伸べて、みんなが笑顔になってくれる。そんな日々が続いていた。
でも、数ヶ月経った頃、最初の悲劇が起きた。
雨の日、お父さんの容態が急変した。病院から帰ると、お母さんのスーツケースがリビングにあった。
「お母さん、どこに行くの?」
振り返った顔は、見たことがないほど冷たかった。
「出て行くの」
「え?でも、お父さんが...」
「どうでもいい」
引き留めようとしたけど、聞いてくれなかった。玄関まで追いかけて、必死に袖を掴んだ。
「お母さん、待って!」
服の裾を掴んで引っ張ったけど、お母さんは振り払おうとする。両手で腕にしがみついて、玄関で必死に抵抗した。
「離しなさい!」
「嫌だ!行かないで!」
その時だった。
床に倒れて膝を打った。慌てて立ち上がろうとしたけど足がもつれて、やっと立てた時にはお母さんはもう扉の前にいた。
「私はずっと憎んでいた」
振り返ったお母さんの目は氷のように冷たかった。
「あの男の娘を」
その言葉に、世界が止まった。
あの男の娘?
何を言っているの?私は...私は...
「あんたなんて!あんたは私の子じゃない!」
世界が止まった。
冷蔵庫のモーター音だけが響く台所で、お母さんの声がナイフのように突き刺さった。
(嘘だ…お母さんの目、笑う時はいつも細くなってたのに)
でも、お母さんはもう振り返らなかった。連絡先も何も残さずに、消えてしまった。
一人で立ち尽くして、頭の中が真っ白になった。
知らなかった。何も知らなかった。
今まで信じてきたものが一瞬で崩れていく。お母さんだと思っていた人が...?本当のお母さんは?私は誰?なぜ嘘を?なぜこんなに冷たく...?
しばらくして、お父さんが回復した。退院できるまでになったけど、関係は以前とは違って距離があった。
それでも、高校の友達がいた。彼らといると、少しは安らげた。
夏休み前の頃から、周りに変化が起き始めた。
クラスメートの何人かが私の優しさにつけ込むようになった。本来なら私がやる必要のない雑用を押し付けてくる。放課後一人で教室の掃除をしたり、他の人のノートや教科書を運んだり。以前の倍以上の仕事をしていた。
でも、みんなの笑顔を見ていると、それで十分だった。これで人助けができているなら、私はまだ私のままだと思えた。みんなを助けたいと思う。
夏休み前の最後の週のことだった。
理科室にはまだ数人が残っていた。エリとシンと、シンの友達で他のクラスから来た男子が一人。その男子二人が教室で遊び始めて、物を動かしたり投げたりしていた。
「もうやめなよ、散らかしちゃダメでしょ」
注意したけれど、全然聞いてくれない。そのまま遊び続けて...
ガシャン。
人体模型が床に落ちて壊れてしまった。
みんな急に静かになった。
エリが心配そうに近づいてきた。
「シン、どうするの?」
シンがエリに何かを耳打ちした。エリは一瞬驚いたような顔をしたけれど、静かに頷いた。
何を話してるのかわからなくて、ただ見ているだけだった。
そこに先生が入ってきた。散らかった教室を見て、明らかに怒っている。
「一体何があったんだ?」
その時、エリが私を指差した。
「ルーシーがやりました」
「え?」
血の気が引く感覚。シンがさも当然のように頷く。
(なんで…? さっきまで一緒にプリント整理してたのに)
信じられなかった。エリは誰がやったか知ってるはず。なのに、なぜ私を...?
「ルーシーさん、職員室に来なさい」
先生の声が厳しくて、何も言えなかった。頭が真っ白になって、どうしていいかわからない。
教室を出る時、最後にエリを見た。
エリは遠くから私に舌を出して、シンが彼女の肩に腕を回しながら一緒に笑っていた。
まるで私をからかっているみたいに。
その後、夏休みが始まった。家から出る気にもなれず、エリに連絡する勇気もなかった。でも、エリはそれを悪く受け取ったみたい。突然、ひどいメッセージを送ってくるようになった。
『なんで無視するの?』
『友達だと思ってたのに』
『あんたって最低』
どうしてこんなことを言うの?理解しようとしたけど、わからなかった。なんで急に怒ってるの? 結局、エリの連絡先をブロックした。 夏休みのある日、お父さんが久しぶりに遊園地に行こうって言ってくれた。小学生以来だった。
お父さんがジェットコースターから降りながら笑った。久しぶりに見る、本当の笑顔だった。
「お母さんのこと、言わなくてごめんな」
観覧車の中で、お父さんが急に謝った。
「お父さん...」
怒ってなんかいなかった。むしろ嬉しかった。 でも、帰り道で車が故障した。人通りの少ない道で、家からは遠い場所だった。
「タクシーを呼ぶから、近くのホテルで待ってよう」
お父さんが心配そうに言った。確かに、こんな夜道に女の子を一人で立たせておくわけにはいかない。
ホテルのロビーで何かが光った。カメラのフラッシュ?振り返っても誰もいない。でも確かに見えた...まさか、それがすべての始まりになるなんて。
夏休みが終わって新学期が始まった時、クラスメイトたちの視線が何だかおかしかった。みんながひそひそと何かを話しながら、こっちを見ている。
何だろう?
そんな疑問を抱いていると、教室のドアが勢いよく開いた。エリが満面の笑みを浮かべて堂々と歩いてくる。
「みんな見て!ちゃんと学校に来たのよ、このビッチ」
教室中にざわめきが広がった。周りを見回しても、みんなが変な目で見てくる。何が何だかわからない。
「エリちゃん、それってどういう意味?なんでそんなこと言うの?」
眉をひそめたエリが、呆れたような表情を作った。
「はあ?とぼけるつもり?ブロックして連絡取れないようにしたくせに」
「ブロック?何のこと?」
エリの声がだんだん攻撃的になってきた。
「もうやめたら?その優等生の仮面、みんなバレてるから。クラス中が知ってるのよ、あんたの正体」
イライラが募って、つい大きな声が出てしまった。
「何が言いたいのかはっきり言ってよ!全然わからない!」
エリは怒ったような顔をして、スマホを取り出した。
「この写真見なさいよ」
画面に映っているのは...確かに私だった。でも、これは...
「夏休み中に撮られた写真よ。年上の男性とホテルに入るところ。偶然目撃されたんですって。これについてどう説明するの、ルーシー?」
声は嘲笑に満ちていた。
血が逆流するような怒りが込み上げてきた。
「嘘よ!その人は私のお父さんよ!エリちゃん、信じて!」
必死に叫んだけれど、誰も耳を貸してくれない。
「あら、お父さんなのね...」
エリがにやりと笑った。
「変態ね...」
嘲笑の渦が教室を覆う。
その瞬間、頭に血が上った。
手が勝手に動いて、拳をエリの鼻に叩き込んでいた。血を流しながら地面に倒れるのが見えた。でも、それだけじゃ収まらなかった。倒れた上に馬乗りになって、さらに殴ろうとした時、クラスメイトたちにされて引き離された。
それがきっかけで職員室に呼び出された。お父さんも呼ばれて、エリの両親と一緒に並んで座らされた。でも、エリがまた嘘をついた。
「ルーシーはいつも乱暴で、無理やり言うこと聞かせようとするんです」
頭に血が上った。今度こそエリに手を上げそうになったけど、みんなの前でそんなことをしたら...
案の定、また私が悪者扱いされた。
最後にエリが言った。
「友達に戻ってくれるなら、問題ないです」
仕方なく頷いた。信じたかった。本当に、心から。
その時はまだ...エリを信じていたから。
数日が過ぎて、放課後の廊下でエリと出会った。シンも一緒にいる。
「エリ、ちょっと待って」
声をかけると、エリが振り返った。
「なに?」
「どうしてこんなことするの?私たち、友達だったのに...」
表情が一瞬で変わった。今まで見たことのない冷たい目で睨まれる。
「いつもイライラしてたのよ、あんたのことが。人助けして、何かもらえるとでも思ってるの?」
何も言えなかった。ショックで涙が出そうになる。
「その長い髪で可愛いと思ってるの?その話し方で良い人ぶってるつもり?成績が良いから頭がいいって勘違いしてるの?」
壁に押し付けられながら、彼女が吐き捨てるように言うのを感じた。
近づいてくる。怒りを通り越して、純粋な憎悪の表情だった。
「憎んでるのよ、ルーシー。あんたという人間を知った瞬間から、心の底から憎んでる。大嫌いなの」
動けなくなった。
継母を思い出した。あの人も最後に「嫌い」って言った。
逃げるように走り出した。振り返らずに、ただ走った。
エリがあんな風に振舞うのは、ただ私を憎んでるから。すべての嘘も、すべての非難も、ただそれだけの理由。
でも...人を助けることって、良いことじゃなかったの?
ずっとそう信じてきたのに。
どうして?
家に戻ると、玄関の暗がりが喉を締めつけた。
お父さんの靴ない。リビングのソファに倒れ込むと、抱き枕を顔に押し当てた。
嗚咽が布地に吸い込まれていく。涙の塩味が唇にじんわり広がる。
「私の優しさ…全部間違ってたの?」
全ての記憶が逆回転し、善意が黒い墨に染まっていく感覚。
三晩、お父さんは黙って背中をさすってくれた。痩せ細った手に気づいてしまった。
校長室は地獄だった。恵理の父が机を叩き、校長は天井を見つめ、お父さんの拳は膝の上で震えていた。
学校をやめて部屋に閉じこもった。パソコンの画面をぼんやり眺めるだけ。何もする気になれなかった。
夜中、ドスンという音。
部屋から出ると、お父さんが床に倒れていた。震える手で救急車を呼んだ。
病気が戻ってきた。手術が必要だけど、お金がない。
廊下のベンチで時計を見上げる。午前2時17分。
(この世界…私を必要としてない)
もう友達もいない。お母さんは私たちを捨てて出て行った。お父さんは生死の境をさまよっている。
病院の廊下を歩いた。下を向いて、どこへ向かうかもわからずに。気がつくと外にいた。それでも歩き続けていた。
暗い考えが頭をぐるぐる回る。
気がつくと橋の上にいた。手すりに近づいて遠くを見る。山の影、森の木々、下を流れる水。
唇が震えた。
もう、全部終わりにしてしまおうか。
優しさが罪になる世界で。
でも...その時、森の上に青い光が浮かんでいるのが見えた。
なぜかその光に惹かれて走り出していた。息を切らしながら森に向かって。足が勝手に動く。灌木が肌を引っかき、土の匂いが肺を焼いた。
森の奥まで来たけど、もう何もない。
でも、変な感覚が体中を駆け巡り始めた。何かがそこにいるような気がするのに、何も見えない。
怖くなった。
その時、胸から青い光が溢れ出した。眩しくて目を開けていられない。光は弱くなったけど、まだ心臓みたいに脈打っている。
目の前に奇怪な影の生き物が立っていた。人間のような形だけど背が高くて細い。顔はないのに、お腹の真ん中に動物の口がパックリと開いている。
「きゃあ!」
草の上に倒れ込む。体が震えて止まらない。化け物がゆっくりと近づいてくる。
「来ないで!」
でも反応してくれない。声を完全に無視して、ただ静かに歩き続けている。立ち止まると、腕を上げて―ゴムのように伸ばしてきた。
「あぐっ!?」
背中で木の幹が砕ける音。酸素が肺から追い出される。仰向けに倒れ、星空を見上げる。
怖いのに、なぜか一番幸せだった頃のことを思い出していた。涙が流れる。声も出ない。ただ涙だけが頬を伝って落ちていく。
怪物の影が覆いかぶさる。腹の裂け目から鋭い歯がのぞく。
(ダメだ…動けない)
閃光が走った!
黒い血の雨が降り注ぐ。怪物が蒸発する向こう側に、黒い異国風の衣装をまとった少女が立っている。
若く見えるけれど、とても変わった格好をしていた。長い黒髪、頭に奇妙な仮面のようなもの、そして全身真っ黒な服装。まるで異世界から来たみたい。
口が動かない。視界もぼやけている。でも近づいてきた少女の顔はなんとか見えた。
その瞳が夜の闇の中で金色に光っていた。
「絶対に死なせない!」
必死な声が最後に聞こえて、意識が闇の中に沈んでいく──
目を開けた瞬間、体が勢いよく起き上がった。
何か透明な膜のようなものに包まれていたけれど、簡単に通り抜けることができた。頭がくらくらして、足元がふらつきながらも家に向かって歩き始めた。
でも何かがおかしい。見慣れた街並みのはずなのに、人々の服装も家の形も車も、全部記憶と違っている。まるで違う時代にいるみたい。
急いで家に向かった。いつもの角を曲がって、いつもの坂道を上って...そこには何もなかった。
家があったはずの場所には空き地が広がっている。周りの建物も全部消えて、見たこともない建物が建っている。胸が苦しくなって、必死に街の中心部に向かった。
そして大きなスクリーンに映し出された日付を見た瞬間、全身が凍りついた。
あの日から五十年も経っていた。
この体はなぜ若いままなのか?成長もせず、心臓の音も感じない。
軽すぎる足取りが虚ろだった。
走り続けた。アスファルトで転び、膝から血が滲む。
しかし次の瞬きで──傷は消え、血痕さえ跡形もなく蒸発した。
絶望が背骨を這う。行くあてもなく、路地を彷徨う日々。
公園のベンチで夜を越えても、空腹は訪れない。
食べても味わえず、体は反応しない。
雨の日、教会の神父に出会った。
「誰にでも贖罪の機会はある」
その言葉に救いを求めたが、怪物化した真実は語れなかった。
(昔の私に戻れば…答えが見つかる)
偽名を使い、手を変え品を変え、幾度も高校に編入した。
──友達を作るたびに裏切りの記憶が蘇り、卒業式前には必ず逃亡した。
移り変わる学校で、週ごとに怪物が襲うようになった。
胸から青い光が迸り、青い長剣が現れた。
学校、戦闘、卒業前の逃亡。また学校、また戦闘、また逃亡。
目的もなく、ただ繰り返していた。
そして百年目の春。
あの事件から百年、目覚めてから五十年。
またいつもの学校生活。最後の年だった。でも、その日は違った。
転校生が来た。
「朝倉アレクスです」
名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが震えた。気がつくと目で追っていた。彼を見ているとお腹の中で何かが反応する。変だった。
人間の感覚なんてとっくに失ったはずなのに、なぜ生きている気がするの?
話しかけたかったけど、できなかった。諦めかけた時、森で出会った。目の前にいる彼。あの化け物たちが見えているなんて。
でも、彼に興味を持ったのはそれだけじゃない。彼の瞳の奥にある「何か」。私を見つめる時の視線。
もう人間じゃないのに、感じるはずのないものを感じている。何かが彼と共鳴している気がする。




