予期せぬデート
『4月8日 / 8:55』
息が喉で軋む。膝に手を突いて俯く俺の視界に、ルーシーのスニーカーが揺れた。数分間全力で走り抜けたのに、彼女の呼吸は乱れすらしない。
(…おかしいだろ。まるで運動してないみてえな平然ぶりだ)
「大丈夫?」
心配そうに近づいてくる。汗まみれの自分が恥ずかしくて、少し身を引きたくなった。
(この距離…妙に馴染み過ぎてる。でも彼女は“人間じゃない”ってアンジュが言ってた)
「ああ…ただ、久々に動いたからな」
すると、ルーシーがくすっと笑った。
「あたしなんて百年も生きてるのに元気よ。運動なんて全然してないのにね、えへへ」
ああ、そういうことか。彼女なりのジョークだった。苦笑いを浮かべたけど、あまり笑えなかった。
呼吸が整ってきた頃、ルーシーがじっと見つめてきた。
「それで、どうするつもりなの?反逆者さん」
その問いかけに、改めて現状を考えなければならなくなった。
ルーシーをどうすればいいのか、まだわからなかった。彼女を解放するためには、もっと親しくならなければならないのに...どうやって?
そんな時だった。
『いつまで棒立ちだ?早く仕掛けろ』
頭の中に声が響いた。
慌てて辺りを見回し、ルーシーの顔を見る。
「何か言った?」
ルーシーは困惑したように首を振った。
『違う、探すな。私だ、アンジュよ』
今度はもっとイライラした調子で頭の中に響く。
声を出しそうになったが、なんとか抑えた。心の中でアンジュに話しかける。
(…アンジュ!?、どうやって頭の中で話しかけてるんだ?)
心の中でそう問いかけると、誇らしげな声が響いてきた。
『驚いた?これなんて簡単な技術よ。もっと凄いのもあるけど、それは戦闘向きね』
もうこの時点で、アンジュは常識なんて軽々と超越している。何を言われても驚かない...そう思っていたのに。
『急いでルーシーとデートして、彼女を救いなさい』
「え?」
思わず声に出してしまった。デート?ルーシーと?
でも、冷静に考えてみれば、それが一番自然に彼女に近づく方法かもしれない。
沈黙が続く中、ルーシーが不機嫌そうに言った。
「もしかして、何の計画もなしに私をここまで連れてきたの?」
慌てた。完全に動揺している俺を見透かされている。
「そ、そうじゃない...ただ、どう言えばいいのか...今まで誰にも言ったことがなくて...」
言葉が出てこない。でも、もう後戻りはできない。
「ルーシー…デートしてくれないか?」
表情が変わった。驚いたような顔をして、唇が小刻みに動いている。何か言いたそうだったが、言葉が出てこないようだった。
しばらくの沈黙の後、やっと口を開いた。
「...それで、あたしは元のあたしに戻れるの?」
正直、確信はなかった。でも...
「たぶん、な」
曖昧な返事をしてしまった。ルーシーはくすっと笑った。
「ふふっ...アレクスくんって、案外頼りないのね」
そう言いながらも、表情は柔らかくなっていた。口元を手で覆いながら、彼女は笑った。
「ふふっ。でも...デートがどうして私を人間に戻してくれるのかわからないけど、信じてみる」
ほっとした。正直、断られたらどうしようかと思っていた。
辺りを見回すと、少し離れたところにショッピングモールが見えた。あそこなら人も多いし、普通のデートらしいことができるかもしれない。
「あのショッピングモール、どうかな?」
「行ってみたい!」
予想以上に明るい返事だった。ルーシーの足取りも軽やかになっている。
二人で並んでショッピングモールに向かって歩き始めた。
到着すると、制服を着たまま二人でこんな早朝にここにいることに不安を感じた。警察官に声をかけられでもしたら、全てが終わってしまう。そんな焦りを抱えながら、商店街を歩いていく。
ルーシーが突然、パン屋の前で立ち止まった。ガラス越しにパンを見つめている瞳が、キラキラと輝いているのが見えた。近づいて声をかける。
「欲しいなら、買ってやるよ」
でも、ルーシーは視線を落として首を振った。
「いえ、大丈夫です...ありがとう」
諦めたような表情で続ける。
「昔はいろんな甘いパンを食べるのが好きだったんです。でも今の状態だと...食べることはできるけど、味も何も感じないんです」
視線を完全に逸らして、地面を見つめながら続けた。
「実は食べる必要すら感じないんです...おかしいでしょう?もう人間じゃないから...」
声がガラスのように砕けそうになる。
その言葉を聞いて、胸が痛んだ。
アンジュが言っていたことを改めて理解する。ルーシーは何年もの間、人間らしい欲求も成長もなく、全く同じ姿のまま過ごしてきた。恐らく、アンジュが言っていた他の子たちも、ルーシーと同じような状況なのだろう。
でも今は、目の前にいるルーシーのことを理解しなければならない。
何かしてやりたかった。彼女に笑ってもらいたい。少しでも人間らしさを感じてもらいたい。そんな気持ちが胸の奥で膨らんでいく。
ふと遠くを見ると、ゲームセンターのような場所が見えた。
咄嗟に彼女の手を掴んで走り出す。冷たかった。生きているという実感が欠落した体温だ。
「こっちだ!」
ルーシーは突然手を握られて驚いたようだったが、頷いてくれた。そうやって見つめられると、なんだか嬉しくなってしまう。
中に入ってコインを買った後、ルーシーはきょろきょろと辺りを見回していた。
「もしかして、こういう場所は初めて?」
「...ええ」
(百年も生きてて娯楽を知らないのか?)
なるほど。それで格闘ゲームの筐体を指差してみせた。
「これ、やってみない?」
最初はルールが分からず戸惑っていたが、数分もすると慣れてきたのか、だんだん正確にボタンを押せるようになった。しばらく一緒に遊んでいると、楽しそうな表情を見せてくれる。
その後も色々なゲームで遊んでコインがなくなるまで過ごした。本当に嬉しそうで、きっと長い間こんな風に楽しんだことがなかったんだろう。
もう正午近く。ショッピングセンターから出るために歩きながら、横顔を盗み見る。やっぱり笑顔の方がいい。
入り口の近くで、ルーシーの足が止まった。何かの機械に興味を示している。
「アレクスくん、これは何?」
「ああ、それはガチャガチャだよ。コインを入れてレバーを回すと、ランダムでアイテムが出てくる」
説明すると、ルーシーの目がキラキラと輝いた。本当に興味深そうに機械を見つめている。
「やってみたい?」
コインを投入してレバーをひねると、カラカラという音と共にプラスチックの球体が転がり出てきた。
「はい」
球体をルーシーに手渡す。
「開けてみて。何が入ってるか見てみよう」
ルーシーは慎重に球体を回して開けた。中から出てきたのは、サメを擬人化したようなマスコットのキーホルダーだった。なんというか...シュールな表情をしている。
「可愛い」
ルーシーの顔がぱっと明るくなった。
「大切に保管しておくわ。久しぶりにプレゼントをもらったの」
その言葉を聞いて、胸が暖かくなった。彼女にとって、こんな小さな喜びも大切なんだ。
外に出ると青い雲が空を旋回していた。心臓がドキッとするが冷静を保つ。ルーシーの表情が一変し、突然走り始めた。
「ルーシー――」
彼女を追いかけて叫んだが、立ち止まってくれない。石畳を駆け抜け、人気のない路地に曲がったルーシーを追って息を切らしながら辿り着くと、雲がゆっくりと地面に降りてきた。
雲が人間の輪郭から異様に背の高い化け物へと形を変え、巨大な手と胸の中央に一つ目を持った姿になった。昨日とは全然違うが、これがアンジュの言っていた...
「夢喰い...」
ルーシーの後ろ姿を見つめながら、背筋が凍った。
夢喰いが近づいてくるのを見て、思わず叫んだ。
「ルーシー、気をつけろ!」
ルーシーは胸に手を当てた。心臓の近くに。すると、青い光が胸から溢れ出した。その光の中から青い剣を取り出す。
(これがアンジュの言ってた“霊輝”か…?)
攻撃の準備を整えると、大きく跳躍した。剣の柄をしっかりと握りしめている。だが、夢喰いは横に移動してあっさりと避けてしまった。
「え?...こんなに簡単に避けられたことなんてない。一体何が起きてるの?」
ルーシーの驚いた声が響く。
夢喰いが走り始めた。足ではなく、巨大な手で地面を這うように。ルーシーに向かって迫ってくる。
彼女は再び大きく跳躍した。夢喰いの手が届く前に空中へ逃れる。落下しながら剣を構え直し、再度攻撃を仕掛けるが、またしても避けられてしまった。
ルーシーが再び夢喰いと対峙する形で着地する。
後方から戦いを見守りながら、気づいた。ルーシーの様子がおかしい。目が定まっていない。夢喰いが俺の方向に向かおうとするたびに、わざと自分の身を危険に晒してでも、それを阻止しようとしている。
もしかして、俺に何かあることを心配して、俺を守ろうとしているのか?
そう思った瞬間だった。ルーシーの注意が散漫になった隙を突いて、夢喰いの巨大な手が彼女を捉えた。
「ルーシー!」
吹き飛ばされた彼女の体が、コンクリートの壁に激突した。
その時、夢喰いが俺に気づいた。胸の上にある目がこちらを向く。 背筋が凍った。 夢喰いがゆっくりとこちらへ動き始める。体が動かない。恐怖で足がすくんでいた。
巨大な手が振り上げられる。
「だめ...!」
間に合わない。
強烈な衝撃が体を襲った。痛みが全身を駆け巡る。地面に叩きつけられて、息ができない。
「やめてええええ!!!」
ルーシーの絶叫が響いた。
痛みで霞む視界の中、彼女が素早く立ち上がるのが見えた。一瞬で剣を手に取り、夢喰いに跳びかかる。刃が怪物を切り裂いた。
意識が遠のいていく。視界がトンネルのように狭くなって、ルーシーが駆け寄ってくる姿だけが見えた。
その表情は...必死で、涙を流していた。
声が出ない。体も動かない。
でも、心の中でだけ謝った。
ごめん、ルーシー...
意識がゆっくりと戻ってくる。頭の上に何か柔らかいものを感じるけれど、同時に冷たい感触もある。目を開けると、最初に見えたのはルーシーの顔だった。自分の頭が彼女の膝の上にあることに気づいて、慌てて上体を起こそうとする。
「ごめん」
でもルーシーは首を振って、大丈夫だと言った。それどころか、肩に手を置いて再び膝の上に頭を戻そうとする。この体勢に緊張してしまうけれど、受け入れることにした。
見上げると、ルーシーの表情が悲しみに歪んでいた。今にも泣き出しそうで、何か言おうとした時、彼女の方が先に口を開いた。
「ごめんなさい...私のせいで...あなたは死にそうになって…また誰かを傷つけた。助けたいだけなのに…ごめんなさい」
目を閉じて深く謝罪しながら、声を震わせて泣いていた。戦闘中、彼女が自分のことを心配そうに見ていたのを思い出す。もしかすると、これが本当のルーシーなのかもしれない。ただ人を助けたいだけの、他人を思いやる女の子なのかも。
そっと彼女の髪に手を伸ばして撫でる。驚いたように俺を見つめてくる彼女。それから体を起こして、彼女の隣に座り直した。
「知ってる?俺も霊輝持ってる...まあ、俺のとお前のとで何が違うのかはよく分からないけど...でも、霊輝があろうがなかろうが、言ったろ?お前を助けるって」
本当にルーシーを助けたいと思った。アンジュに任務として与えられたからじゃない。彼女と話して、一緒にいて、心からそう思えたんだ。
「ルーシー、お礼を言わせてくれ。戦闘中、すごくかっこよかった」
ルーシーは驚いたように何度も瞬きを繰り返した。突然の感謝に戸惑っているのが分かる。
「俺を守ろうとしてくれてたよな?実際は足手まといだったから...謝らせてもらう」
頭を下げた。
「そんなことない!頭を上げて!」
ルーシーの声が慌てたように響く。
「本当はあたしの方こそ...アレクスくんを守りたかったの。戦える人じゃないって分かってたから...ごめんなさい」
彼女も同じように頭を下げているのが、少し顔を上げた時に見えた。
静寂が流れる。
そして、なぜかお互いに笑い始めた。張り詰めていた空気が一気に緩んでいく。
空を見上げる。
「もしも霊輝に囚われる前に生まれていたら、どんな手段を使ってでもお前を救っていただろうな」
そう言いながら、自然と笑みが浮かんだ。
ルーシーの頬がほんのり赤くなって、視線を逸らした。耳まで赤く染まっているのが分かる。
手を伸ばして、彼女の手に重ねた。
「お前は俺にとって特別な存在になったんだ」
その言葉には、本当に重みがあった。心からそう思っている。ルーシーの中に、自分と同じものを見つけたから。誰かを助けたい、守りたいという気持ち。ずっと抱えてきた想いが、彼女の中にもあった。
「...」
ルーシーがゆっくりと頭を下げて、俺の肩に寄りかかってきた。
「...少しの間、こうしていても?」
「ああ」
それ以上何も言わずに、静寂の中で時間が過ぎていく。
空が懐かしい輝きを見せていた。もう放課後の時間だろうか。こんなに時間が経っていたのか、と思った瞬間、お腹が盛大に鳴った。
驚いて顔を見合わせる。
「ごめんなさい、時間を忘れてしまって」
ルーシーが申し訳なさそうに謝る。
「俺もだよ」
立ち上がって、帰る準備をする。でも、ルーシーとのこの時間がもう終わってしまう。あとはキスをするだけなのに。考えるのは簡単だが、実際にやるとなると...彼女が俺に何か感じているかどうか、どうやって分かるんだ?愛情メーターなんてついてないし、アンジュも「今ならいける」なんて教えてくれるわけじゃない。自然に起こらなければならないのだろうが、もしかしてもうその時なのか?
そんなことを考えていると、歩きながらルーシーが話しかけてきて、思考から引き戻された。
「ごめんなさい、アレクスくん、最後にひとつだけ、ある場所に付き合ってもらえる?」
これが最後のチャンスかもしれない。やらなければ。
「ああ、どこでも行くよ」
微笑んだ。でも、その笑顔には悲しみと懐かしさが混じっていた。
数歩先を歩くルーシーの後ろ姿についていく。彼女はまだ目的地を教えてくれないまま、静寂の中を歩き続けていた。
数分歩き続けて、丘を登っていく。丘道を登りきった時、視界がぱっと開けた。見晴らし台だ。
木々のざわめきを背に、ルーシーが柵に手をかけて俯いているのが見えた。
(彼女の横顔…なんだか切ない)
「ここを見せたかった」
風が髪を揺らす。彼女の声は街の喧騒に溶けそうで、聞き逃しそうになる。
「長い間…挫けそうな時、ここに来たの。特別な場所なんだ」
黙って隣に立つ。ルーシーの指が白く柵を握っているのが見えた。
「ありがとう。私が…忘れてた温もりを思い出させてくれて」
振り返らない。でもその背中に、百年分の孤独がにじんでいるのが見えた。
ふと彼女が顔を上げた。青い瞳が俺を見つめている。
胸が高鳴る。理由もわからず、ただ彼女の手を握りたくなった。
「たとえ…このデート、終わった後でも人間に戻れなくても…」
ルーシーの声が震える。
「私の過去を聞いてほしい。たった一人でいい…誰かに知ってほしくて」
目を逸らさない。逃げない。
風が俺たちの沈黙を運ぶ。
「ずっと昔の話なのに」
俺の目には彼女の微笑みしか映らず、その表情が微かに歪むのを見逃さなかった。
「まるで...昨日のことみたいだよ...ー」