降りそうな空の下で
いつもの日常、何も変わらないはずだった――そう思っていた。
だが、その日、ひとつの奇妙な出来事がアレクスだけでなく、彼の周囲の人々にも影響を与え始める。
静かに狂い始めた歯車は、もう戻らない。
『4月15日 / 12:00』
昼休みのチャイムが鳴った時、いつものようにエミリーの弁当を持って教室を出ようとしていた。
「待ってアレクスくん」
後ろから声をかけられて振り返ると、ルーシーがいた。まだ少し緊張する自分がいるが、もうそんな風に感じる必要はないはずだ。
「一緒に食べない?」
ルーシーの言葉に驚いた。もちろん一緒に食べたい。特にあの時の会話の後なら尚更だ。でも、すでにエミリーと約束している。
「実は...誰かと一緒に食べる約束があるんだ」
ルーシーの表情が変わった。警戒するような目つきになって、慎重に尋ねてくる。
「それで...その人って誰なの...アレクスくん?」
何か変だ。こんな聞き方をするなんて。
「前に話した後輩のことだよ。エミリーって名前の」
ルーシーが目を細めて小さく笑った。笑っているようで、でも何か違和感がある。
「エミリーって言うのね...くくっ...」
笑っているようだったが、何か違和感がある。
「もしよかったら、一緒に来ないか?三人で食べよう」
ルーシーの顔から先ほどの警戒した表情が消えて、承諾してくれた。
一年生の校舎の階段に着くと、エミリーが段差に座って目を閉じていた。人差し指で頬を軽く叩きながら、何か考え込んでいるようだ。遅刻したから機嫌を損ねているのは分かっていた。
静かに近づく。ルーシーも何も言わない。
「遅いよ、先輩。まさか、私の弁当忘れたなんて言わないでしょうね?」
エミリーが目を開けた瞬間、視線が真っ直ぐルーシーに向いた。
顔が青ざめた。
エミリーは何も言わず、ルーシーはただ無表情で見つめているだけだった。
「先輩、彼女はここで何をしているんですか?」
エミリーがついに口を開いた。笑顔を浮かべて、ルーシーを紹介する。
「彼女はルーシー、俺のクラスメートだ。一緒に食べたいって」
でも、エミリーはまだ動揺しているようだった。まるでルーシーの中に俺には見えない何かを感じ取っているかのように、視線があちこちに泳いでいる。ルーシーを直視することはなかった。
エミリーが居心地悪そうに立ち上がった。それでも礼儀は忘れていない。
「エミリーウォルターです...よろしくお願いします、ルーシー先輩」
そう言うと、また階段の端に腰を下ろす。でも明らかにルーシーを見ようとしない。視線をあちこちに向けて、必死に避けているみたいだった。
俺にはエミリーのこの妙な態度が全く理解できなかった。ルーシーに対して、なぜこんなに...距離を置こうとするんだ?
考えても仕方ない。エミリーの隣に座って、弁当を渡した。
「アレクスくん、どうして彼女のお弁当を持ってるの?」
ルーシーの質問に、恥ずかしさを感じながら答える。
「まあ、彼女の手伝いと引き換えに約束したことなんだ」
ルーシーはその情報を処理しているようだった。数分間、奇妙な沈黙が続く。理由がわからないこの気まずさを破りたくて、話題を変えることにした。
「そうそう、榊がゲーセンに誘ってくれたんだ」
その瞬間、エミリーの目が輝いた。
「もしかして、数週間前にオープンした新しいゲーセンですか?」
エミリーが言っているところと同じかどうかわからない。
「同じ場所かどうかわからないけど...来るか?」
エミリーは迷わず首を激しく縦に振った。とても興奮しているように見える。
その時、隣にいるルーシーの視線を感じた。振り返ると、じっと俺を見詰めている。
なんだか気恥ずかしくなって、プレッシャーも感じる。
「ルーシーも一緒に来るか?」
声をかけると、ルーシーの表情がぱっと明るくなった。まるで顔全体が光ったみたいに。
「はい!ゲーセン、行きます!」
嬉しそうに頷いて、答えてくれた。
数分後、ルーシーが立ち上がる。
「ちょっと用事があるので...」
残った弁当を片付けながら、振り返る。
「じゃあ、また後でお会いしましょう」
背中を向けて歩き出したルーシーが、小さくつぶやいた。
「エミリーと二人きりにはさせないわ...」
思わず苦笑いが浮かんだ。
(聞こえてるぞ、ルーシー...)
そこで思い出した。エミリーと出かける時に、気をつけなければならないことがある。
「そうそう、エミリー。もしよかったら、ゲーセンに行った時に霊輝を感じたら教えてくれ」
エミリーは黙って頷いた。でも、何か他に聞きたいことがありそうな表情をしている。
弁当を食べ終えると、ついに口を開いた。
「先輩...ルーシー先輩には、あの日のことを話していないんですか?」
その質問を聞いた瞬間、胸が締め付けられた。
罪悪感が心の奥から湧き上がってくる。話したい。ルーシーが長い間探し続けている答えを、俺は知っている。
でも...急ぎたくなかった。
まだ時間が必要な気がする。
エミリーが立ち上がって俺に向かって言った。
「まあ、話すか話さないかは先輩の勝手だけど...」
少し間を置いて、廊下の窓の外を見つめている。そして続けた。
「時機を逃して後悔しても知らないからね」
それだけ言うと、エミリーは自分の教室へと歩いて行ってしまった。
その言葉が頭の中でぐるぐると回っている。ルーシーのことを全部知ってるって、そして霊輝から解放したのが俺だったって...もう話すべきなのか?
立ち上がって廊下の窓に近づいた。遠くの空に灰色の雲が見えている。
「雨が降るのかな?」
でも、ふと青い雲のことを思い出した。最近、あの青い雲を全然見かけない。一体何が起こってるんだ?
青い雲は常に脅威だったのに、急にぱったりと現れなくなった。それに、アンジュとも最近話してない。
なんだか嫌な予感がする。背筋がぞくっとした。
今日、何か起こるんじゃないか?
その不安を抱えたまま、教室に戻った。
『15:30』
チャイムが鳴って授業終了を告げると、シャーペンを机の上に落として深くため息をついた。
「準備できた?」
前の席から振り返った榊に声をかけられる。
「ああ、でも二人ほど誘ったから一緒に来るぞ」
「え?誰?」
榊が驚いた顔をしていると、ルーシーが俺のところまで歩いてきた。
「もう準備できてるわ。アレクスくんは?」
「俺も大丈夫だ」
榊が俺とルーシーを交互に見ながら、まだ状況を飲み込めずにいる。そして少し身を乗り出してきて、小声で囁いた。
「おい、どうやってルーシーを誘えたんだよ?コツ教えろよ」
苦笑いを浮かべながら立ち上がる。
「行くぞ、榊」
教室の出口に向かって歩いていると、ルーシーの友達グループが通りかかった。彼女たちがルーシーを見つめているのに気づく。
最初に近づいてきたのはまいだった。
「ルーシーたん! どこ行くん~? まさか彼氏と? え~、マジで!?」
俺の隣に立っているのは、ルーシーの友達のまいという女の子だった。ポニーテールにした髪の毛先が金髪に染められていて、いわゆる"ギャル"系のオーラを漂わせている。
まいの言葉を聞いたルーシーは急に緊張したような顔になって、手をぶんぶんと振って否定した。
「そんなんじゃないから」
ルーシーの声は少し震えていた。
まいは片眉を上げて、詮索するような調子で聞き返した。
「じゃあ何で、あんたこの二人と一緒にいるわけ~?」
ルーシーは緊張を解いて答えた。
「ゲーセンに行くのよ」
ルーシーが答えると、まいの目が輝いた。
「ウチもついてっちゃダメ~? ね、ルーシーたん! 絶対楽しいし!」
ルーシーが俺と榊の方を振り返る。何て答えていいかわからずにいると、榊が先に口を開いた。
「もちろん、来てもいいよ」
まいが他の二人の方を向いて声をかける。
「あんたたちも来るよね~? 絶対来てよ! 盛り上がるし!」
カズミがすぐに答えた。
「うん、行く」
カズミを見つめて、頭の中で整理する。
茶色の長い髪をした彼女は、一見すると普通の女の子に見える。でも確か、バスケ部のメンバーで去年の大会で優勝したんだっけ。
まいとカズミが話しているのをただ眺めていた。二人ともルーシーの友達だが、三人目の女の子については...
視線をそちらに向けながら、記憶を辿ろうとする。
スマホの画面から目を離さずにいたヤヨイも、素っ気なく返事をした。
「行く」
ヤヨイを見る。
そういえば前に歴史の授業で一緒にチームを組んだことがあったな。でも、なぜかヤヨイはいつもスマホをいじってばかりで、周りにあまり注意を払わない。長い黒髪に眼鏡をかけて、本当に無口だし。ルーシーの友人グループの中では一番普通で、同時に一番変わった子だと思う。
ゲーセンに向かうみんなを見渡した。
…こんなに賑やかなグループに混ざるなんて、少し不思議な気分だ。
転校してから初めてだ。 クラスメイトと一緒に遊びに行くなんて。
「よし、ゲーセン行くぞ!」
榊が俺の背中を叩いてそう言った。
思わず笑顔になる。友達のグループの一員になれた気がして、ずっと憧れていた感覚だった。
…そう、この感覚。 人とつながっていると感じるあの温かさを、どれだけ忘れていただろう。
歩きながら、そういえばエミリーも誘ったことを思い出した。よく考えてみると...エミリーは唯一の後輩として俺たちに付いてくることになる。先輩ばかりに囲まれて、大丈夫だろうか。影響がなければいいんだが。
学校の入り口に到着すると、エミリーが一人で立っているのが見えた。グループ全体を見回していて、確かに俺たちがより大きなグループで、しかも全員が先輩だと気づいて動揺しているようだった。
急いで近づいて声をかけた。
「大丈夫か?」
「あ、はい...」
エミリーは少し緊張した様子で答える。
そこにまいが近づいてきて、あのギャルっぽい口調で緊張をほぐそうとしているのが分かった。
「ねえねえ~! あんた、名前なんて言うの~? ウチらと一緒に盛り上がっちゃおーよ」
まいは笑顔を浮かべていたが、エミリーは怖がっているというか、プレッシャーを感じているようで、よろめきそうになっていた。
すぐにルーシーが近づいてきて、優しい声で言った。
「あたしが一緒についていくから、まいちゃんに自己紹介してみて」
エミリーは他の女の子たちと一緒に歩いているが、怯えているように見える。でも、ルーシーが自然に彼女を仲間に入れようとしていた。いや、ルーシーだけじゃない。まいも同じように、エミリーを自然に輪の中に入れようとしている。
俺の周りには、本当に優しい人たちがいるんだな。
そう思いながら、女の子たちの様子を見ていた。
数分間歩いていると、空が完全に灰色の雲で覆われているのに気づいた。間違いなく雨が降るだろうが、誰もそれを気にしていないようだったので、歩き続けた。
ゲーセンに到着すると、『The McReyGame』という文字が看板で際立っていた。変わった名前だ。
中に入ると、あらゆる種類のアーケードゲームや他の設備で埋め尽くされた広大なスペースが広がっていて、楽しむための2階まであった。
エミリーは一人でどこかへ行ってしまい、榊も同じように離れていった。他の女の子たちもそれぞれ散らばって、結局ルーシーと俺だけが残った。
それに気づいた瞬間、ルーシーと二人きりでいることに緊張せずにはいられなかった。
ルーシーが俺に近づいてきて、アーケードゲームを指差した。
「あれ、やりたい」
緊張しながら頷いて、一緒にアーケードに向かった。
ゲームをプレイしている最中、どうしても思い出してしまった。前にルーシーとデートした時も、格闘ゲームのアーケードに誘ったっけ。でも今のルーシーには、あの記憶がない。
その事実が胸に重くのしかかって、思わず手が止まった。
「あー、やられた」
画面にゲームオーバーの文字が表示される。
「どうしたの?」
ルーシーが心配そうに覗き込んできた。
「いや、何でもない」
首を振ったが、ルーシーは納得していない様子だった。
「ちょっと待って」
しゃがみ込んで膝の上にリュックを置くと、中をごそごそと探り始める。
「気分が悪い時用の飴があったと思うから...」
リュックの中身を探しているルーシーを見下ろしていると、あるものが目に飛び込んできた。
「あああっ!」
思わず声が出てしまった。
「えっ?どうしたの?」
驚いたルーシーが顔を上げる。
頭を振って気持ちを整理してから、指差した。
「そのキーホルダー...」
ルーシーの視線がキーホルダーに向けられる。じっと見つめているが、何も言わない。でも、その目は離そうとしない。
「そのキーホルダー、大切なものか?」
ルーシーは迷いを振り払うように小さく首を振ってから、安堵したような笑顔を浮かべた。
「うん」
その返事を聞いて、真実を知っている少しだけ安心した。
あの時、俺がルーシーに渡したのは、確かにこのキーホルダーだ。
ガチャポンで手に入れた、ただの小さなキーホルダーにすぎない。
…彼女は、どうやって手に入れたのか、もう覚えていないだろう。
それなのに、 記憶がなくても、まだ持ち続けていてくれた。
…そう気づくと、 胸の重さが少しだけ軽くなって、自然と笑みが零れた。
ゲームセンターで過ごした時間は、思っていた以上に楽しかった。
ルーシーと一緒にいろんなアーケードゲームをやって、時間を忘れるくらい夢中になっていた。こんな何気ない時間が、こんなにも大切に思えるなんて。
気がつくと、休憩用のベンチに腰を下ろしていた。隣にはルーシーが座っている。
窓の外を見ると、いつの間にか雨が降り始めていた。
「あー、雨だ」
みんなが集まってきた。榊、まい、カズミ、ヤヨイ...
「うわ~、マジで雨やばくない?さっきまでめっちゃ楽しかったのに…。ねえ、今日はもう帰ろっか~?」
まいが提案したが、俺は周りを見回した。
「エミリーはどこだ?」
みんなが顔を見合わせた。
「えーっと...」
辺りを見回しながら、ヤヨイが呟いた。
「さっきまでいたよね?」
カズミが首をかしげる。
「もしかして、もう帰っちゃったとか?」
首を振った。エミリーは確かに人見知りで緊張しやすいけど、黙って帰るような子じゃない。
「探そう」
みんなで手分けして探し回ったが、結局、どこにも見つからなかった。
違和感が消えなかった。
携帯を取り出してメッセージを送った。
『どこにいる?』
既読がついた。でも返事がない。
『大丈夫?』
また既読。返事なし。
何度送っても既読スルーが続く。
その時、エミリーからメッセージが来た。
『助けて』
血の気が引いた。
「おい、エミリーが...」
思考に集中していると、肩に手が置かれた。振り返ると、榊が立っていた。
「従業員と話したんだが、エミリーっぽい子が十五分前に出て行くのを見たって」
その瞬間、血の気が引いた。
説明する間もなく、俺は外に駆け出していた。
雨なんてどうでもいい。エミリーに何かあったんだ。
雨の中に飛び出していく。後ろで仲間たちが困惑しているのが分かったが、止まれなかった。
「アレクスくん!」
後ろからルーシーの声が聞こえた。追いかけてきているみたいだ。
でも今は立ち止まれない。
エミリーを見つけなければ。
街の真ん中で立ち止まり、周りの人たちが奇妙な目で見ているのも気にせず、大声で叫んだ。
今、俺を助けてくれるのは一人しかいない。
「アンジュ!!」
エミリーの行方を追うアレクス。
絶望の中、アンジュの手を借りて、彼は再び立ち上がる。
それは、新たな「始まり」への一歩――。
続きも、ぜひ読んでみてください。