記憶の欠片
『4月14日 / 7:43』
今日は少し肌寒かった。
制服のポケットに手を入れたまま、学校へ向かって歩いていた。
この数日間の出来事がまだ頭の中でぐるぐると回っている。あんなに忙しい一週間は初めてだったし、まさか自分にそんなことが起こるなんて思ってもみなかった。
角の交差点に差し掛かった時、そこに立っていたのは...エミリーだった。まるで誰かを待っているかのように。
まさか彼女がこの道を通るなんて。考えたこともなかった。なのに、今ここにいる——そんな偶然が信じられなくて、一瞬、足を止めた。
目が合った瞬間、金曜日に彼女にしたことで胸が痛んだ。アナスタシアを探すのに彼女の協力がなかったら、絶対に見つけられなかった。それなのに、見つけた途端に彼女を遠ざけることしかできなかった...選択肢なんてなかった...あれしか方法がなかったんだ。
彼女が何か言う前に、近づいて頭を下げた。
「すまない!」
ほとんど叫ぶように謝った。彼女の表情を見ることができなかった。見えるのは彼女の靴だけだった。
「先輩、そんなことやめて頭を上げてください」
エミリーの声は動揺していた。でもまだ頭を上げられなかった。まだ罪悪感が消えない。
「もっとちゃんと説明すればよかった...許してくれ」
抑えていた気持ちをそのまま口にした。
「頭を上げてください。怒ってませんから」
エミリーの声のトーンが変わった。より誠実で、優しい響きになった。
「ただ...説明してください。先輩が何をしたのか。この状況...私には理解できないんです」
頭を上げて彼女を見た。エミリーは緊張したように視線を逸らしていた。
決心した。
「全部話す。だから……聞いてくれるか?」
学校へ向かいながら、エミリーに全てを話した。アンジュのこと、『囚われた魂』のこと、そして俺がロマンチックに彼女たちを攻略して解放しなければならないことを。
説明を終えた時、エミリーはどこか動揺しているようだった。俺の方を見ずに、歩きながら地面に視線を固定している。それに、頬が少し赤くなっているのが見えた。
俺も恥ずかしかった。ルーシーとアナスタシアにキスしたことを話さなければならないなんて。でも、二人ともそのことを覚えていない。俺の存在なんて、最初から話したことがないかのようだ。
エミリーは唇を噛んでいるようだった。その話を聞いた後、振り返って俺を見る。
「そう...だから...その、アンジュがあの刀を使って...それと...あの...アナスタシアって女性から出てた青い光...だから...その人を...キス、したのね...」
頷いた。でも、すぐに何かに気づいた。
なぜエミリーがそんなに詳しく知っているんだ?
歩くのを止めて、急いで聞いた。
「待てよ、エミリー...なんで胸の光とか、アンジュが刀で二人を解放したこととか知ってるんだ?」
エミリーは微笑んだ。
「だって、全部この目で見たもの」
驚いた。でも意味がわからない。
そしてエミリーは告白した。
「金曜日に『帰れ』って言われた時、実は隠れて見張ってたの。先輩が何をしてるのか知りたかったから」
目を大きく見開いた。
エミリーは、あの金曜日に俺が『帰れ』と言った時から、すべてを知っていたのか。だから、わざと俺に説明を求めたんだ。俺の話す内容と、彼女がその日見た事実が一致するかどうか確かめるために…。
彼女は何も知らないふりをしていた。ただ、俺が何を語るかを見極めるためだけに。
エミリーは人差し指を立てた。
「あの橋でその女性と一緒にいた時、何か話してるのは見えたけど、何を言ってるかは全然聞こえなかった。でも、先輩がその人にキスしたのは、はっきり見えたの」
顔を下に向ける。頬が熱い。恥ずかしさで顔が燃えるようだった。
でも、エミリーは止まらない。
「最初はただの変態か何かだと思ってたけど...胸から青い光が出て、変な存在が現れたのを見て、嘘じゃないってわかった...」
エミリーが近づいてくる。地面を見つめ続けていたが、彼女がしゃがんで俺の視界に入ってきた。
思わず顔を上げる。
顔が真っ赤になってるのがわかる。鏡を見なくても、自分の顔の状態は明らかだった。
「あの青い光が、アンジュの刀に吸い込まれて...それから二人とも倒れちゃったのを見たの」
ある事実に気づいて、思わず口を挟む。
「待てよ...救急車を呼んだのは、お前だったのか!?」
エミリーが微笑んで、人差し指を下唇に当てる。
「そうよ。他に何もできなかったから、そうするしかなかった。それに、そのアンジュって子は何も言わなかったの。ただ見てるだけで...私も話しかけたくなかったけど...あの子、何か背筋が寒くなるのよね...」
恥ずかしさが徐々に収まっていく。代わりに、エミリーの最後の言葉が気になった。
「背筋が寒くなるって、どういう意味だ?」
エミリーが腕を組んで、まるで寒さを堪えるような仕草をした。
「...彼女からは何も感じないから。見ることはできるけど、他の通りすがりの人たちは誰も彼女を見ることができなかった...それに...」
そこで言葉を切って、何かを思い出すように黙り込んだ。しばらくしてから、また口を開く。
「...彼女の霊輝が感じられない...まるで虚無を見ているような...そんな存在なの...一体何なの、彼女って?生きていて意識があるなら霊輝があるはずなのに...家族からそう教わったの...でも彼女は...何もない...その存在を思い出すだけで怖くなる...」
眉を少し上げた。混乱していた。
俺にとってアンジュはそんな印象じゃない。むしろ、今まで関わった中で感情だってあるように見える。空虚な存在なんかじゃない。プライドが高くて、面倒くさくて、大事な時に全部を話さない奴かもしれないが、エミリーが感じているような不気味さは感じたことがなかった。
エミリーは再び前を向いて、無言で歩き始めた。
遠ざかっていく背中を見ていたが、我に返って彼女の隣に並んで歩き始める。
最後のピースが繋がった。
金曜日、救急車を呼んだのは偶然通りかかった通行人なんかじゃなかった。エミリーだったんだ。ずっと俺たちを観察していた。でも会話は聞こえていなかった。だから最初は認知症のふりをして、俺が正直者かどうか確かめようとしたんだ。
おそらく今、エミリーは俺を悪い奴だと判断している。
足を止めた。
エミリーも気づいて立ち止まり、振り返る。
「どうしたの、先輩?」
エミリーの声が聞こえたが、何も答えられなかった。
沈黙が続いた後、ようやく口を開く。
「...何でもない...でも...俺のこと最低だと思ってるだろうな...もう協力したくないなら仕方ない。俺にはもう文句を言う権利もないし...」
エミリーが黙り込んだ。しばらくして、明らかにイライラした口調で言った。
「何言ってるのよ、先輩...約束したでしょ?」
その言葉に驚いて振り返った。エミリーは少し微笑んでいたが、何かを堪えているようにも見えた。ゆっくりと近づいてくる。
「先輩は最初から本当のことを言ってくれたでしょ?」
緊張して答える。
「そうだけど...でも...」
さらに近づいてくるエミリー。
「ただ何が起きてるか確かめたかっただけ。先輩は何も教えてくれなかったから、自分で調べるしかなかったの」
エミリーが再び歩き始めた。慌てて後を追う。数歩離れた距離を保ちながら。
しばらく無言で歩いて、学校の入り口近くまで来た時、エミリーが立ち止まった。また近づいてくる。
心臓がバクバクする。
「先輩、私の弁当、忘れないでよね?」
緊張を和らげようとするかのように微笑んで、まるでスキップするような足取りで校舎の中に消えていった。
その場に立ち尽くした。
なぜあんなことをしたのに、エミリーはまだ協力してくれるんだろう。あの時の約束だけが理由とは思えない。
顔を上げて校舎に向かおうとした時、肩を叩かれた。
振り返ると、そこにいたのは...
ルーシーだった。
目の前にいた。
先週と同じように、そこに立っている。表情が読めない。なぜ俺に話しかけているのかも分からない。
「...さっきの子...恋人?」
突然そんなことを言われて、肩がビクッと跳ねた。手を動かして説明しようとしたが、慌てて自制する。
「ち、違う...彼女は恋人じゃない。ただの後輩で、手伝ってもらってるだけだ...」
ルーシーが目を細めて俺をじっと見つめてくる。確認するように再び尋ねた。
「本当に?」
「ああ、本当だ...」
頷きながら答えると、ルーシーは隠そうともしないため息を漏らした。安堵の表情を浮かべている。
少し近づいてきた。頬が赤くなっているような気がする。
「後で時間ある?...お昼の時間とか」
「え?」
突然の誘いに理解が追いつかない。
「どうして?何かあったのか?」
少し視線を下に落として答える。
「あなたと話したいことがあるの...先週からずっと気になってることがあって...色々考えた結果、あなたのせいだと思うから...」
喉が渇いた。ゴクリと唾を飲み込む。
混乱している。ルーシーは俺のことを覚えていないはずだ。先週のあの事件の後、彼女の記憶は消えた。なのに――今、平然と「お昼の時間ある?」と話しかけてくる。
…彼女は何を考えている? わざとだとしたら、どんなゲームをしているんだ?
いや、違う。彼女の目は澄んでいて、本当に俺を“知らない”ように見える。
だが、それならなぜ今、俺を誘う? 矛盾が頭を駆け巡り、胸が締めつけられる。
混乱したまま、深く考えずに頷いていた。
「ああ...」
ルーシーがそれを聞くと、満面の笑みを浮かべた。目が輝いているのがわかる。まるで俺の返事を聞いて、本当に嬉しそうだった。
「じゃあ、後でね」
そう言いながら歩き始めて、手をひらひらと振って先に教室へ向かっていく。
その場に立ち尽くしたまま、またしても困惑していた。
(またか...)
情けない気持ちが胸に広がる。ルーシーはまた一歩先を行っている。躊躇なく近づいてきて、躊躇なく誘いをかけて、躊躇なく去っていく。
俺はまだ、そんな風にできない。
(ダメだな、俺は)
深くため息をついて、教室に向かって歩き始めた。
頭の中では、後でルーシーが何を話すつもりなのかということばかりが回っていた。
『12:00』
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、緊張が一気に押し寄せてきた。
椅子を引きずる音、カバンを片付ける音、教室から出ていく足音…すべてが混ざり合って、頭の中でガンガンと響いている。
「おい、アレクス」
前の席の榊が振り返ってきた。
「一緒に昼飯食わない?いい場所知ってるんだ」
「あ、ごめん榊。もう約束してるんだ」
榊が眉を上げて困惑した表情を見せた時、
「アレクスくん、もう準備できた?外でお昼食べましょうか?」
ルーシーが近づいてきた。
緊張しながら頷く。榊は幽霊でも見たような顔で、口をポカンと開けたまま目を見開いている。そんな榊を置いて、ルーシーと一緒に教室のドアへ向かった。
校庭に出て、木の近くのベンチに座る。カバンを開けて弁当を取り出そうとした時、はっとした。
エミリーの弁当を届けなければ。
でも、ルーシーとのこの時間を無駄にしたくない。エミリーには悪いが、遅刻することになりそうだった。罪悪感を感じながらも、ここに留まることにした。
「アレクスくん、何か趣味はある?」
あまりにもカジュアルな質問に戸惑った。もっと違う話をするのかと思ってたのに。
「まあ、フィギュア集めてるけど」
ルーシーが少し笑いながら答えた。
「ふふ...意外とオタクなのね」
思ってたより普通の会話になってて、混乱してる。でも、この方がいい。化け物とか超能力とかじゃなくて、こういう他愛もない話の方が。
街に来た経緯や、あちこち転々としながら生活していることを話した。母のことや、父さんとの関係が微妙なことは言わなかった。言う必要もないし、重い話になってしまう。
最後は食べ物の好みの話になった。本当にたわいもない会話だった...
信じられないくらい美しい数分間だった。
そう感じていた時、ルーシーが聞いてきた。
「ねえ、アレクスくん...この街に来てから...何か変なこと、気づかなかった?」
突然の変な質問に動揺してしまった。
「え?何それ、変って何のこと?」
ルーシーは弁当を見つめたまま黙り込んでしまう。そして小さく呟いた。
「たとえば……変な青い光...この辺りの森で...」
心臓が跳ね上がった。何の話をしているのか分かってしまった。でも直接は言えない。嘘をつきたくないから、曖昧に答えるしかなかった。
「もしかしたら...そうかも...」
緊張で声が震えてしまう。ルーシーはその答えに気づいたようで、俺を見つめてきた。まるで分析するような視線だ。
プレッシャーを感じて、今度は俺が弁当に目を向けた。
「知ってる、先週からなんだか変な感じがするの」
唾を飲み込んだ。彼女の方をまっすぐ見られなかった。
「ぼんやりと覚えてるの...何かが、誰かが一緒にいてくれたような...先週、何か変なことが起こって...それで...」
ルーシーが言葉を止めた。心配になって振り返ると、彼女がじっと俺を見つめていた。
「なぜか分からないけど、自然にアレクスくんに視線が向くようになったの...君のことを気になるようになった...」
何かを試すような目。冗談ではなく、明らかに“確認”するような声。
「先週からアレクスくんがクラスの皆と話してる姿を見てて...とても感じの良い人だなって思ったの...でも何より...アレクスくんを見てると懐かしい気持ちになるの...」
箸が手から滑り落ちた。頭が真っ白になってしまった。
顔が熱くなってるのを感じる。ルーシーはその様子を見て、慌てたように手と頭を振った。
「変な風に思わないで...まだ...」
混乱して瞬きした。
(まだって何だ?)
「わがままだって分かってるけど...何か知ってるでしょう?理由は分からないけど、そう感じるの...」
ルーシーについて考えていた。彼女は俺のことを覚えていないのに、心の奥で何かが彼女に囁いているのかもしれない。俺が彼女の今の気持ちの原因だと。そう感じているルーシーを見て、改めて思った。
この子は本当にすごいな。
「すげぇよ...ルーシー」
思わずため息と一緒に言葉が漏れた。
「え?!どういう意味?」
ルーシーが困惑した顔でこちらを見る。
空を見上げた。雲一つない青空が広がっている。もう隠すつもりはなかった。感じていることを素直に言おう。
「迷いがあっても、何かに囚われていても、お前は躊躇わずに前に進む...そう思ったんだ」
ルーシーは驚いたような顔をして、何度も瞬きを繰り返してから答えた。
「あたしがそんな風だとは思えないけど...」
意外な答えだった。思わず彼女の方を振り返る。
ルーシーは微笑んで続けた。
「そう思ってもらえるのは嬉しいな。でもあたしにも迷いはあるの...まだ解決できないことに縛られている気がして...」
信じられなかった。何も言えずにいると、ルーシーが続ける。
「...あのね、話したいことがあるの。それが本当にお昼に誘った理由なんだ」
ああ、そういうことか。彼女は解放される前の自分のことを話したいんだ。当然、俺は既に知っている。でも彼女はそれを覚えていない。
拳を握りしめる。
でも何か言う前に、ルーシーが口を開いた。
「もし時間があるなら、放課後付き合ってもらえる?案内したい場所があるの...」
まだ拳を握ったまま、無言で頷いた。
「じゃあ待ってるから!」
嬉しそうに立ち上がって、笑顔で走っていくルーシー。
でも俺は...自分自身にイライラしていた。
ルーシーについて改めて考えた。彼女はずっと人間だったんだ。過去を聞いた時の苦しみ、疑うのも当然だろう。彼女を理想の高い場所に置いていたが、それでもルーシーの中に俺にないものを見つけて、それに手を伸ばそうとしている。
よし、これが真実を話すタイミングだ。彼女が自分の過去を話してくれたなら、俺も——
考えをまとめる前に、誰かの気配を感じた。振り返ると、腕を組んで不機嫌そうな顔をしたエミリーが立っていた。
「先輩、どうしてここにいるんですか?私の弁当は?」
エミリーを見た瞬間、パニックになった。彼女を探しに行かなかった理由を説明しようとするが—
「あー、えっと...彼女と話したくて...その...」
うまく言葉にならない。
「いいですよ、怒ってませんから。それに、さっきからずっと覗いてましたし、えへへ」
エミリーがそう言った時、驚いた。
「いつから覗いてたって?どうやって?」
「最初からじゃないですよ。先輩の霊輝を探してから、こんな人里離れた場所で見つけるまで時間かかりましたから、えへへ」
エミリーは目を細めて悪戯っぽく笑った。
過ちを認めて、エミリーの弁当の入った袋を渡した。彼女は少し困ったような顔をした。
「もういいです...もうお腹空いてないですし...」
そう言った瞬間、静寂の中でお腹の音が響いた。
~~っ!
驚いて彼女を見ると、顔を真っ赤にして恥ずかしそうにしていた。
「今のは聞かなかったことにしてください!」
激しく頭を縦に振って、何も言わなかった。
エミリーは弁当の袋を受け取って座った。過ちを償おうと、俺も黙って彼女の隣に座った。
こうして昼食の残り時間は、完全に無言のまま終わった。
次回は、記憶を失ったままのルーシーとアレクスの関係が、少しずつ動き始めるお話になります。
彼女自身はまだ気づいていないけれど、その存在は確かにアレクスへと導かれていて……
彼女なりに、何かを感じ始めているようです。
ふたりの距離がどう変わっていくのか、ぜひ次のエピソードも読んでみてください。