鼓動と再会
今回はアナスタシアの視点から物語が始まります。
病院で起きた出来事を補完する形で、彼女の内面が少しずつ明かされていきます。
そして終盤には再びアレクスの視点へと戻ります。
『4月12日 / 7:29 / アナスタシア』
水底から引き上げられるような感覚。酸素が肺に突き刺さり、あたくしはベッドの上で跳ねるように息を吸い込んだ。
「――っは……っ!」
白亜の天井。薬品の匂い。これが病院という場所だと理解するのに、三度まばたきを要したわ。
急に押し寄せる呼吸に、胸が苦しくなる。
上半身を起こそうとした時、目の前にいた看護師と目が合った。彼女は驚いたような表情を浮かべている。
「目を覚まされましたのね。すぐに先生をお呼びいたします」
看護師は慌てたように部屋を出て行った。ゆっくりと上半身を起こす。記憶が波紋のように広がっては消える――あの橋のたもと。夕闇。そして……誰かの影?
胸に手を当てながら、昨日の記憶の断片を辿ろうとする。街を歩いていた。あの橋で...でも、誰か他にもいたような気がするわ。
不思議な感覚が心の奥から湧き上がってくる。誰かがいたの?それとも、なぜあの場所にいたのかしら。
その時、胸の下で何かが動いているのに気づいた。
鼓動が早鐘を打つのを感じた。
(……この高鳴りは? ずっと忘れていた体温や、血の巡りまでもが、今、鮮やかによみがえってくる)
心臓が、確かに脈打っているわ。
長い間失っていた感覚が、まるで春の訪れのように戻ってきている。驚きと共に、懐かしさのような感情が胸を満たしていく。
これは...本当に心臓の音なのかしら。
お医者様が入室なさった。銀縁の眼鏡が優しい印象の男性でいらっしゃる。
「ご気分はいかがですか?」
近づいてこられて、体調を気遣う言葉をかけてくださったけれど、答えることができなかった。答えたくないわけではないの。ただ、まだすべてが混乱していて、頭の中が整理できずにいた。
「お名前を教えていただけますか?」
お医者様がそう尋ねられた時、その手が手首に向かって伸びてきた。
反射的に手を引っ込めてしまった。
「触らないで!!」
思わず大きな声を出してしまい、お医者様も驚かれた様子だった。でも、一番驚いたのは自身かもしれない。なんということをしてしまったのだろう。
「……申し訳ありません。つい、反射的に」
慌てて謝罪したけれど、お医者様は優しく「大丈夫ですよ」と仰って、それでも診察の必要があることを説明してくださった。無言で頷くしかなかった。
それから数分間、診察が続いた。
そして、気づいてしまった。
あの「呪い」が...起こらない。
何事もなかったかのように、普通に診察を続けておられる。
信じられなかった。今まで、誰かがあたくしの近くにいたり、触れたりすれば、その人は死んでしまうかもしれなかった。それが「呪い」だったのに。
でも、今は...なぜ何も起こらないの?
瞬間、また何かがおかしいと悟った。昨日の記憶が曖昧で、断片的にしか思い出せない。何かが起こったのは確かなのに、具体的なことは何一つ覚えていないの。
お医者様が近づいてきて、安心したような表情を浮かべていらっしゃる。
「君は驚くほど回復が早いね…彼氏さんとは大違いだよ。まあ、心配しなくても大丈夫。きっとすぐに元気になるさ」
彼氏?
思わず眉をひそめてしまった。
「申し訳ございませんが、どなたのことをおっしゃっているのでしょうか」
お医者様は困惑した表情になられた。
「一緒に運ばれてきた男性のことですが...お二人とも橋の上で倒れているところを発見されて。救急車を呼んだ方が、君たちは恋人同士だと仰っていましたが」
「あの...あたくし、そのような方は存じ上げませんわ。記憶にございません」
お医者様の表情がさらに心配そうになり、新しい検査をすることになった。出て行かれた後、一人きりで病室に取り残された。
救急車?男性?恋人?
何一つ思い出せない。手が震えているのに気づいた。何かが決定的に欠けている。でも、それが何なのかわからないの。
なぜあたくしは再び人間に戻っているのかしら?何が起こったというの?
胸に手を当てて、いつものように...いつも戦いで使っていたあの拳銃を呼び出そうとした。自然に、何の迷いもなく召喚できていたはずなのに...
でも...何も起こらない。
何も現れない。
いつも呼び出していたあの武器が、もう出てこない。本当に...あたくしは元の自分に戻ったのね。人間に戻ったのね。でも...どうして?
答えが見つからないまま、涙が溢れてきた。声を出して泣きたい気持ちを必死に堪えながら、静かに涙を流す。何が起こったのか理解できない。どうしてこうなったのか、全然わからない。
しばらくしてから、急いで検査をしてくださった。現在の技術なら、頭の中に異常なものがあれば、すぐに分析できるはず。
でも結果は...正常。
何も異常がない。
「これは不思議ですね。君には何も異常がありません...でも...あの少年のことを覚えていないと仰るのですが...」
困惑した様子で呟いた。
あの少年...?誰のことを仰っているのかしら。
「...あの...お医者様...その方というのは...どのような...?」
質問に、驚いたような表情を見せた。
「隣の病室にいらっしゃいます...まだ高校生のようですね。おそらく最終学年でしょう。髪の色がとても印象的で、珍しい色をしていました...」
その曖昧な説明を聞いているうちに、なぜか心の奥で何かが響いた。記憶にはないけれど、その描写に惹かれるものがある。
「...思い出せませんわ...でも恋人ということはないと思います。もしかしたら...良いお友達だったのかもしれませんね」
お医者様が顎に手を当てて、何かを考え込んでいる様子だった。しばらくの沈黙の後、突然表情が明るくなった。
「そうだ!彼のことも調べてみよう。彼も同じような状況なのか確認してみる。もし彼が君を覚えているなら、君の症状は突然倒れたことによるトラウマかもしれない...すぐに戻ってくるから」
微笑みながら部屋を出て行かれた。ただ困惑したまま、その後ろ姿を見送るしかなかった。一体何をなさるつもりなのか、さっぱり理解できなかった。
一時間ほど経った頃、お医者様が戻って来られた。
「その少年と話をしてきました。どうやら彼は確かに君を覚えているようです...」
あたくしの瞳が大きく見開かれた。誰かが覚えている?でも、それは一体誰なの?なぜその人の記憶がないの?
「彼によると、君たちは友達だそうです。そして、君に起こったことを心配している様子でした...表情を見れば分かりましたわ」
視線を落として、自分の手をじっと見つめた。その少年が誰であれ、求めている答えを持っているに違いない。そう確信していた。
あたくしに近づいて来られた。
「それと、今気づいたことがあります...アナスタシアさん、君には連絡を取れるご家族や、助けてくれる方はいらっしゃいませんの?」
その言葉に返事をしなかった。ただ、彼をじっと見つめた。
「その少年にはお父様の連絡先がありましたが、君の場合、誰にも連絡しなくてよろしいのでしょうか。もちろん、ご希望であれば誰にも知らせずにおきますが...」
視線がさらに下に向いた。その時、気づいてしまった。再び人間に戻ったということは...この世界でまた一人ぼっちになるということを。友達もいない...弟もいない...お父様もいない...もう誰も。
「誰も...いませんの。もう...誰も」
小さな声でそう呟くのが精一杯だった。
統合失調症だなんて診断されたら、それこそ大変なことになってしまうわ。あの奇妙な出来事について、お医者様に本当のことを話すわけにはいかない。仕方なく、嘘をついてしまった。
数時間後、ようやく退院の許可が下りた。受付で書類にサインをしていると、驚くべきことを告げられた。
「お会計の方は、すでにお済みになっております」
「え?どなたが...?」
「記録によりますと、一緒にいらした男性の方のお父様が、お支払いくださったとのことです」
あたくしは混乱してしまった。あの少年は、本当にことを知っているのかしら?彼のお父様までもが?もしかして、何か重要なことを忘れてしまっているのかしら...
そんなことを考えながら立ち尽くしていると、視界の端に何かが映った。振り返ってみると、そこには背の高い少年が立っていた。お医者様がおっしゃっていた通り、確かに目を引くオレンジ色の髪をしている。学校の制服を着ているところを見ると、学生のようね。
彼が見つめているのに気づいたけれど、すぐに視線を逸らしてしまった。
ああ、この人があたくしの知りたいことをすべて知っている少年なのね。
反射的に歩き始めていた。気づけば彼の前に立っている。心臓が早鐘を打っている。
話しかけたい。この人が誰なのか知りたい。ことを何故知っているの?思い出せない。何が起こったの?...そして、どうしてこの人を見ていると、胸がこんなに苦しくなるのかしら。
いつも自立していたかった。強くありたかった。皆を平等に助けて、責任を持って、決して折れることなく...でも今は迷っている。この少年は間違いなく何かを知っている。そう感じるの。
口を開いた。
「君が...あたくしと一緒に倒れた人?」
彼が振り返った。動揺しているように見える。混乱しているのかしら。でも、もう決めていた。彼についてもっと知りたい。この混乱の中で答えを持っているのは彼なのかもしれない。
話し続けた。不思議と、彼と言葉を交わすことに懐かしさを感じる。
そして彼が名前を名乗った。朝倉アレクス...アレクス。
その名前を聞いた瞬間、中で何かが反応した。何なのかわからない。でも確実に何かが...
真実を知りたい。あの「呪い」が何だったのか。どうして人間に戻れたのか。そして何より...アレクス。
君は一体、あたくしにとって何なの?
電話番号を交換した。携帯電話は随分と古い機種だったけれど、まだ問題なく動いてくれる。
「それでは」
アレクスにそう言って別れを告げると、病院の駐車場へ向かう彼の後ろ姿を見送った。
胃の奥で何かがくるくると回っている感覚があった。空腹...それもあるけれど、違う。この感覚は、自由になれたという安堵なのかもしれない。ようやく、以前の人間としてのあたくしに戻れたのだという実感が、頬を一筋の涙となって流れ落ちた。
病院を出て歩きながら、心の中で決意を固めた。
今日から新しい人生が始まる。この機会を無駄にするつもりはない。胸から現れるあの不思議な武器のこと、あたくしを襲ってきた化け物たちのこと、そして薔薇の棘のように刺さる記憶の欠落...すべての謎を解き明かしてみせる。
まずは貯金を引き出して、何か食べ物を...
グゥゥゥ...
歩いている最中にお腹が大きな音を立てて、通りすがりの人々が振り返った。あまりの恥ずかしさに顔が熱くなる。
でも、その夜、これまでにないほどお食事を楽しんだのだった。
『4月 12日 / 15:53 / アレクス』
机に肘をついて、窓から差し込む夕光が目に刺さる。現実離れした出来事が頭の中で渦巻く。でも、解決しなければならないことがある。
アンゲに関わることだ。
「……アンジュ」
名前を呼ぶと、部屋の影からひょっこりと現れた。いつものように、まるで何事もなかったかのような笑顔を浮かべている。
「呼んだ?」
何を言おうか整理しようとしていると、アンジュがにやりと笑った。
「もしかして寂しくなった?でも私にはそういうのは...」
「ふざけるな...聞きたいことがある」
笑顔が消えた。俺の真剣さに気づいたようだ。
「アナスタシアの過去を聞いて、気づいたことがある」
アンジュは俺が何を言おうとしているか分かっているような表情をしていた。
「あの家……彼女が『誰かに見られてる』と感じたあの場所」
一瞬、アンジュの拳が固く握られたが、すぐに力を抜いた。
「お前だったんだろう?」
アンジュは視線を逸らした。今まで曖昧にしてきたことを、はっきりさせる時が来たようだ。
アンジュがほとんど囁くような声で「……うん」と認めた時、正直驚いた。でも、彼女が何を言おうとしているのかに集中した。
「あの家を見つけた時は空き家だった...まさか彼女があの家に住むことになるなんて思わなかった...」
アンジュは俺との視線を合わせるのも辛そうだった。それでも話を続ける。
「あの頃、その霊輝は最初と二番目の霊輝の持ち主を探すために与えられたものだったの」
最初がルーシーなら、百年前を考えると辻褄が合う。二番目が誰かは分からないが、三番目がアナスタシアということになるのか。
「当時、私はその霊輝を箱に入れてあの家に保管していた。空き家だったから、ここなら安全だと思って...他にも用事があったから...でも...」
アンジュは完全に視線を逸らした。俺を見たくないようだが、それでも事実を話し続ける。
「彼女がきっと私の箱を開けてしまったのね...その時に霊輝が部分的に融合したんだと思う。彼女には見えなかったけれど、胸がいつも青く光っていた...」
「いつも胸が光ってた?武器を胸から召喚する時みたいに?」
眉をひそめながら聞くと、アンジュは頷いた。
「霊輝は普通の人間には見えないの。オマエのような特別な霊輝を持つ人以外には。でも、あの頃から彼女の胸はずっと青く光っていたのよ...」
その時、何かが頭の中で繋がった。勢いよく椅子から立ち上がる。
「待てよ...今気づいたんだが...まさかその不完全な融合が原因で、彼女が周りの全ての霊輝を吸収することになったのか?」
アンジュは俺の方を見ずに頷いた。
「それが彼女の霊輝の『特性』なの。部分的であろうと完全であろうと、彼女の中にある限り、その『特性』は必ず発動してしまう。それが彼女の一部だから...」
そういえば前にも言っていたな、『特性』とかいうやつ。再び椅子に座り直す。
アンジュはベッドまで歩いて行き、端に腰を下ろした。
「アナスタシアがあの森に行った時、私はもう彼女を監視していた。霊輝が部分的に融合していることも知っていた...あの時、彼女の中の感情が崩壊した瞬間、霊輝が完全に融合してしまったの...」
説明を終えたアンジュが、ようやく俺の方を振り返った。視線がぶつかる。痛みを堪えているような表情だったが、涙は流していない。
まるで必死に自分を正当化しようとするかのように言った。
「私はただ隊長の命令に従っていただけ...私に責任はない...ただ...命令に...従っただけ...」
また視線を下に向けて、それ以上何も言わなくなった。
静寂の中、アンジュが小さくつぶやく。
「アナスタシアにこんな思いをさせたくなかった...」
聞いていて、怒りが少しずつ込み上げてきた。それでも、まだ抑えられる程度だった。アナスタシアが既にその霊輝を持っていることを知っていたのに、何もしなかった。そして隊長の命令に従っていたと言う。
隊長?一体何のことだ?
そもそも、彼女が別の世界から来たなら、なぜ「隊長」なんて呼び方をするんだ?アンジュは他に何を隠している?彼女が来た霊的世界って、一体どんな場所なんだ?
疑問が次々と浮かんでくるが、これ以上怒りを感じることはできなかった。これが俺の限界だった。
アンジュを憎むことはできない。
彼女の中に、俺と同じものを見たからだ。感情を押し殺し、隠している何かを。
ああ、こうやって俺も自分の感情を抑え込んでいるのか。
そう思った瞬間、決めた。もうアンジュのように感情を抑え込むのはやめよう。
「生と死を守る存在のはずなのに...なんでお前たちはこんなことをするんだ?」
アンジュは膝の上で手を握りしめて、俺の方を見ようとしなかった。答えは返ってこない。ただ黙って、拳を握り続けている。
そして震え声で言った。
「その通りよ...認めるわ...私は十回も失敗して、十人の女の子を巻き込んでしまった...私の種族は関係ない...全部私の責任よ、私だけの...」
だが、アンジュの言葉を聞いていて感じた。
まるで自分自身を責めることで、何かから逃げようとしているような。本当の理由を受け入れることを拒んでいるような。
なぜかはわからないが、そんな風に聞こえた。
それでも、俺はアンジュに近づいた。もう後戻りはできない。少しずつ、アンジュの世界で何が起きているのか、そして救った女の子たちに何が起こるのかを知ることになるだろう。
身をかがめて、彼女と目線を合わせる。
「アンジュ、言い訳はもういい。助けたいんだ。お前に言われたからじゃない。その女の子たち、今も苦しんでるんだろう?だから...」
アンジュの肩に手を置いた。
「全員救う。何があっても、やってみせる。たとえ俺のことを忘れられても、お前が信じてくれなくても...今ならはっきり言える。みんなを、もう一度自由にしてやる」
アンジュは驚いたような表情を浮かべた。唇が一瞬震えて、視線を逸らす。そして突然、肩に置いた俺の手を振り払った。
壁に向かって駆け出すと、そのまま影の中に消えてしまった。
姿が見えなくなったのを確認して、緊張を和らげるために独り言を呟く。
「照れてるのか?」
ため息をついて、ベッドに横になった。これから先、女の子たちを助ける旅が待っている。今のところ、残りは八人...八人の女の子をもう一度...
キスしなければならないことを考えて、激しく頭を振った。そんなことは考えたくない。疑いたくない。これは全部、助けられなかった重荷を背負いたくないからやってることだ。それに、変わりたいからでもある。
そんな気持ちのまま、眠りについた。
次回、アレクスの周囲で再び変化が起こり始めます。
少しずつ進んでいく物語の流れを、ぜひ見届けてください。