感情を認める勇気
『4月11日 / 18:44』
イライラが募る。アナスタシアを真っ直ぐ見つめながら、もう一歩近づいた。
彼女は困惑しているようだったが、その奥に見えるのは...恐怖だった。
長い間自分を責め続けて、本人すら気づいていないのかもしれない。
決心した。
「お前には、何の罪もない。自分を責める必要なんてない。……もう十分すぎるほど、頑張ってる」
アナスタシアは目を伏せ、かすかに唇を噛んだ。
「それでも……あたくしは、弟もお父様も守れなかった。この手は、ただ……奪うことしかできなくて、誰も救えなかった……罪は、決して消えないわ」
その言葉の続きを、聞くわけにはいかなかった。
覚悟を決めた。迷いはなかった。アナスタシアの手を取った。
「離して。いけません……触れてたら、貴君のエネルギーを奪いかねない。貴君まで……体調を崩すわ」
「じゃあ、手を離したら、お前はそのまま終わるのか?」
言葉に、彼女の目が見開かれる。
「それなら……離さない。お前が終わるくらいなら、俺が苦しむほうがマシだ」
静かに告げた。
「なら、ここで手を離したら、それがお前の終わりになる。俺じゃない、お前がそれを選ぶことになる」
俺の手を見つめ、そして、俺の顔を見た。
手を握りしめていると、だんだん疲れを感じてきた。でも、手を離すわけにはいかない。
「ついてこい!」
アナスタシアは何も言わずに頷いた。
静かに歩き始める。俺は目的地を知っていた。彼女が話していた橋...あの橋がどこにあるか分かっていた。
森へ続く橋だ。
ルーシーと出会った、あの森への。
……まだ立っていた。手を繋ぎ続けながら、歩を進めていた。身体に重さを感じていたが、それでも彼女の手を離すつもりはなかった。まっすぐ前を見据えて、歩き続けた。
歩いた先にあったのは、さっき彼女が話してくれた橋だった。
アナスタシアは驚いて俺を見つめた。
「……どうして、ここが分かったの?」
微笑みながら答えた。
「お前の話を聞いて、場所の位置から……なんとなく、そうじゃないかって思っただけさ」
ゆっくりと、彼女の手を離した。
そして、彼女の正面に立ち、しっかりと目を見て言った。
「アナスタシア。そんな風に自分を責め続ける必要なんてない。お前も……幸せになっていいんだよ」
その瞬間、アナスタシアの目から涙がこぼれ落ちた。
彼女は何かをこらえるように、必死に唇を噛んでいた。でも、涙は止まらなかった。迷わず彼女をそっと抱きしめた。
「やめて……今、それ以上近づいたら……!」
彼女はそう叫んだけど、離さなかった。どれだけ危険でも、彼女の心の痛みを感じた以上、もう放っておけなかった。
そして……彼女の唇にそっと、自分の唇を重ねた。
アナスタシアは一瞬、驚いたように目を開いた。でも、すぐに目を閉じた。俺は目を閉じず、ただ、彼女を見つめていた。
――そのときだった。
アナスタシアの背後に、――アンジュが現れた。刀を手に持ち、静かにその切っ先をアナスタシアの背中に当てた。
「……っ!」
……もう分かっていた。
その刀の切っ先が彼女の背に触れた瞬間、胸の奥が冷たく締め付けられる。
それは前と同じだった。ルーシーのときと、まったく同じ。
アナスタシアの胸から、青く淡い光がゆっくりと浮かび上がった。
――それが、霊輝だ。彼女が生きてきた証。存在のすべて。
動かなかった。
いや、動けなかったのかもしれない。
助けたい気持ちは確かにあった。それでも……分かっていたんだ。どう足掻いても、止められない。
だから、彼女の手をそっと離し、一歩だけ後ろに下がった。
アンジュの刀が霊輝を吸い上げるように、青い光は音もなく彼女の体から消えていった。
アナスタシアはまるで糸が切れた人形のように崩れ落ちるが、とっさに手を伸ばして、腕の中に受け止めた。
「……ふふ、これで二つ目」
アンジュが微笑みながら言った。
彼女の表情には、罪悪感も悲しみもなかった。ただ目的を達成した満足感だけがある。
「この調子なら、全部揃うのも時間の問題ね」
彼女は一歩一歩、俺の方へ歩いてきたが、その足取りは軽やかで、恐ろしいほど無垢だった。
……膝から崩れ落ちた。アナスタシアを抱えたまま、体中が重く、視界も揺れていた。無理をしすぎた……でも、後悔はしていない。
全身がだるく、視界が霞む。
心も、体も、重かった。
――それでも、アナスタシアの顔だけは見えた。
彼女の目は閉じていて、まるで眠っているようだった。
でも分かっている。彼女はもう……。
意識も、そこで途切れた。
『4月12日 / 8:43』
目を開けたとき、天井の白さが視界に滲む。病院だ。
そう思いながら、右側を見る。
そこにはアンジュがいた。今にも泣き出しそうな表情で、目が合った瞬間、俺の手を握ってきた。
「…遅いぞ。ようやく目覚めたか。……無事でよかった」
冗談を言おうとしてるみたいだけど、顔には本当の安堵が浮かんでいる。
上半身だけ起こして聞いた。
「……ここは?」
声がガラガラに渇いている。
「病院だよ、バカ」
そう言うと、冷たい手で俺の額を押さえつけた。
「…で、どうやってここに来たんだ?」
まだかすれた声で問いかけると、ふと冗談めかして付け加えた。
「まさかお前が救急車呼んだんじゃないだろうな?」
アンジュがパッと俺の手を離した。唇を尖らせて不満げに言う。
「馬鹿言わないでよ。あたし、人間の使う機械なんてわからないんだから」
手をぱたぱたと振りながら、最後にぷいっと顎を横に向けた。
「それに…普通の人間には私の姿、見えないんでしょ?」
片眉を上げて彼女を見つめる。確かにそうだ。ならば――
「じゃあ、いったい誰が?」
アンジュの口元がふわりと緩んだ。何か知っている。いや、確信している。
「それはね…」
俯き加減に上げた目に、いたずらっぽい光が揺れた。
「心配性の誰かがお前たちを見つけて、救急車を呼んだらしい」
アンジュの曖昧な返事を聞いて、疑問が頭をよぎった。一体誰が救急車を呼んだんだ?誰が俺たちを見つけたんだろう?
でも、その謎は脇に置いておくことにした。アンジュはこの件について冗談を言い続けるつもりらしい。それより、もっと重要なことが頭に浮かんだ。
アナスタシアのことを確かめなければならない。彼女が今の真の優先事項だった。
「アナスタシアは…?」
名前を口にするだけで胸が痛む。あの時の記憶――彼女が霊輝から解放され、同時に俺に関する全てを失った瞬間が蘇る。
アンジュがわずかに顔を背ける。
「隣の部屋にいるわ。大丈夫だから心配しないで」
アナスタシアが無事だと聞いて、胸の奥でほっとした。
でも、同時に胸が締め付けられるような感覚もあった。
無視しようとした。理由はもうわかっているから。
それでも、頭の中にあの思いが浮かんだ。
『彼女も俺のことを忘れてしまったんだろうな...』
しばらくして、父さんが部屋に入ってきた。
「一体何があったんだ?」
説明を求められたが、嘘をつくしかなかった。
「困ってる女の子を助けようとしたけど...うまくいかなかった」
「...はあ」
父さんはため息をついて、それ以上は追及しなかった。
数分後、先生が部屋に入ってきて俺の状態をチェックし始めた。でも、診察しながら妙な質問をしてくる。
「君の“彼女”は奇跡的な回復ぶりだ」
「は?恋人じゃない…ただの…」
言葉が詰まる。友達ですらない――記憶を失った他人だ。
「恋人じゃない?でも一緒にいたし...それじゃあ友達かい?」
その質問にどう答えていいかわからなかった。
「...ああ、友達だ。ただの友達」
友達でもないことはわかっていた。もう俺のことを覚えていないのだから。
「奇妙だね。君は彼女のことを覚えているのに、彼女の方は君のことを覚えていないようだった。でも検査結果に異常はない。医者として、これは不思議な現象だよ」
その言葉を聞いて動揺した。真実を知っているからこそ、皮肉な笑みが浮かんだ。何も言えなかった。
診察を終えた先生が立ち上がる。
「その子のことを支えてあげなさい。まだ検査を続けるが、失神の影響で混乱しているだけかもしれない。君のことを思い出すかもしれないからね」
少し目を伏せた。
先生は俺の表情に何かを感じ取ったようで、親指を立てて見せた。
「安心しろ。彼女に話してみるから。君のことを思い出してもらうよ」
「ちょっと待て—」
慌てて止めようとしたが、先生はもうドアから出て行ってしまった。
先生がアナスタシアに何を言うつもりなのか...考えただけで頭が痛くなった。
壁の影からアンジュが現れた。
「すごいじゃない、アレクス。あの先生のおかげで、アナスタシアともう一度話せるようになったのよ」
振り返って見たが、何も答えなかった。本当に近づくべきなのか?ルーシーとは違う。彼女はクラスメートだが、アナスタシアは年上で、近づく理由なんて特にない。
でも、また胸が痛んだ。まるで殴られたみたいに。
否定し続けているあの感覚が、また俺に合図を送っている。
(本当に...もう一度話せるのか?)
そんなことを考えていると、父さんがやってきた。
「退院だ。もう検査することはない」
廊下を歩きながら、父さんは車を取りに先に行った。
周りの全てが奇妙に見えた。シュルレアリスムのような感覚だ。こんな風に病院にいたことなんて、今まで一度もなかった。
受付に着いた時、少し先に彼女がいた。
まるで俺を待っているかのように立っていた。
アナスタシア...
彼女も俺に気づいたようで、視線が交わった。
慌てて目を逸らして動揺した。近づいちゃダメだ。近づくべきじゃない。
でも、誰かが俺の前に立った。
振り返ると、そこにアナスタシアがいた。緊張したような笑顔を浮かべて。
一瞬、心の奥で思った。
(本当に...俺のことを忘れたのか?)
儚い希望だった。なぜそんなことを考えたのかも分からない。
でも、アナスタシアが口を開いた瞬間、その淡い期待は砕け散った。
「君が... あたくしと一緒に倒れた人?」
疑問を含んだ声。ああ、やっぱりだ。彼女が俺を覚えているはずがない。
頷いた。でも、なぜか緊張して、アナスタシアから視線を逸らしてしまう。
「お医者様から聞いたの。君があたくしの友人だって...でも、本当のことを言うと、君のことを覚えていないのよ」
動揺した。
あの先生、何を彼女に話したんだ?でも待て...これはチャンスじゃないか?
なぜこんなに緊張している?あの時の勇気はどこに行った?彼女を救うために戦った俺の勇敢さは?なぜ今更迷っている?
もう一度、彼女をしっかりと見つめた。
本当に...アナスタシアは救われるべき存在というより、今この新しい人生で、霊輝から解放されて、信頼できる誰かを必要としているんだ。
そして、その誰かは俺しかいない。
彼女の過去を知っているのは俺だけ。彼女の本当の姿を知っているのも俺だけ。
今の彼女は...一人ぼっちなんだ。
その孤独感...俺も長い間感じていたものだった。誰とも本当に近づけずにいた時間。
何か言おうとした時、アナスタシアが先に口を開いた。
「覚えていないかもしれないけど...後で話せたらいいな」
手を差し出しながら、彼女は続けた。
「ハールヴァルドアナスタシアよ。君の名前は?」
驚いた。アナスタシアがこんなにも自然に状況を受け入れて、それでも周りのことに興味を示している姿に。何というか...彼女には俺にないものがあった。強い意志というか。
手を伸ばして握手を交わす。
「俺は朝倉アレクス。こちらこそ、よろしく」
霊輝から解放される前のアナスタシアと今の彼女...何も変わっていない。
ただ勝手に考え込んでいただけだった。彼女の痛みを知ったからといって、どう接していいかわからなくて。彼女が俺のことを忘れてしまうかもしれないという、身勝手な思い込みに囚われていた。
でも、わかったんだ。
ルーシーの時と同じように、たとえ彼女たちが以前一緒に過ごした時間を覚えていなくても、その記憶は俺の中にある。大切にしていけばいい。
そして...いつか...話してあげることもできるかもしれない。
アナスタシアと連絡先を交換した――そう、久しぶりに、それも女の子に自分の番号を教えたんだ。
…妙な気分だ。
胸の奥で何かが蠢く。不安? 期待? いや、そんな言葉じゃ表せない感覚。
「これでよかったのか」と自問しながら、駐車場へと足を進める。父さんの車はもう見えた。家に帰れば、すべてが終わるはずだった。
だが、俺の頭の中は、まだあの“問い”で溢れていた。
車のドアを開け、シートに体を預ける。エンジンが唸りを上げる音が、病院の静けさを切り裂く。
――心の片隅には、まだ引っかかるものがあった。
知っている。これが終わりじゃない。アナスタシアとのやり取り、あの不自然な繋がり。すべての答えは、アンジュが握っている。
車の窓から外を眺めながら、考えていた。
アナスタシアは強い。ルーシーもそうだ。二人とも自分の足で前に進んでいる。
それに比べて俺は...
運転席の父さんを横目で見る。何か聞いてみようかとも思ったが、何を聞けばいいのかわからない。この奇妙な力、霊輝について父さんが何を知っているというのか。それに、もうあちこち転々とするのに疲れたという気持ちについても。
この街にいると、なぜかここに留まりたいという気持ちが芽生えてきた。もう移り住みたくない。
父さんとの関係を振り返る。母親が亡くなってから、ほとんど会話らしい会話をしていない。仕事から帰ってきた父さんとたまに話すことはあっても、表面的なものばかり。
失った痛み、孤独感。ずっと押し殺してきた。選択肢がなかったから。
でも、ルーシーとアナスタシアに出会って、何かが変わった。
二人とも長年の痛みと苦しみを背負っている。それでも諦めなかった。絶望の淵に立たされても、もう一度戦った。その痛みを受け入れて、自分のものにした。
拳を握りしめた。
俺とは違う。ただ痛みを押し殺しているだけの俺とは。
二人を見ていて感じるのは、憧れだった。二人には俺が持ったことのないものがある。
勇気だ。
視線を下に落とす。
アナスタシアは一体何を考えて俺に話しかけてきたんだろう。どうやって俺だと気づいたのか...あの医者の仕業かもしれないが、それにしても。
彼女がよく俺に話しかける勇気があったな。
思い返してみると、ルーシーに話しかけようとして失敗したのとは対照的だった。アナスタシアの方から俺に声をかけてきた。もう諦めかけていた時に。
この数日間の出来事が、まるで別世界の話のように感じられる。今まで想像もしなかった現実が目の前にある。
決めた。
アナスタシアが俺に話しかけてくれたんだ。なら、俺だってルーシーに同じことができるはずだ。今度は失敗しない。短い会話でもいい。試してみたい。
彼女たちが見せてくれた勇気を、俺も感じてみたい。自分が何者であるかを受け入れて、今の自分を認めて...
もう感情を無視したり、避けたり、押し殺したりするのはやめよう。
いつの間にか、薄い笑みが口元に浮かんでいた。自分でも気づかないうちに。
「おっ!何思い出したんだ、アレクス?なんか嬉しそうな顔してるぞ」
父さんの声にハッとした。
「え!?あ、いや...何でもないよ...」
動揺を隠せない。
「ふぅ...」
父さんはため息をついて運転に集中し直した。
この笑顔が、俺の決意の証なんだ。もう自分の気持ちを否定しない。たとえそれがより多くの疑問を生み出すことになっても...最低限、否定だけはしない。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回は、アナスタシアがなぜアレクスに近づいたのか、その視点から描かれます。
今回の病院での出来事を、彼女の目線で補う形になりますので、ぜひ読んでみてください。