過去という名の鎖
今回は、ほとんどアナスタシアの過去に焦点を当てた内容になっています。
彼女が何を経験してきたのか、少しずつ見えてくるはずです。
終盤近くに、ようやくアレクスの視点に戻ります。
『××××年 / アナスタシア』
大学生活は、とても充実していたわ。
研究室では毎日遅くまでプログラムを書いて、週末にはドローンのクラブに顔を出して。
親しい友人もできたの。
カオルは、元気で明るくて、まるで風のような子。何事にも前向きで、あたしが落ち込んだときは真っ先に声をかけてくれたわ。
ユウスケは、研究仲間であり、一番の理解者。物静かで優しくて……何かを言わなくても、気持ちを察してくれる人だった。
マリは、少し気難しいけれど努力家で、芯の強い子。彼女とは研究内容でもよくぶつかったけど、それでも信頼できる、そんな関係だったのよ。
毎週末には必ず実家に帰って、ギドと過ごした。
「姉さん、おかえり」って玄関で笑ってくれる顔を見るのが、何よりの癒しだったわ。
お父様も、忙しい中でできる限り時間を作ってくれて、三人で食卓を囲むの。
彼は必ず、朝食のトーストを焼きながら、あたしに言うのよ。
「我々はチームだ。そして、お前がその中心だよ、アナ」
……本当に、幸せだったのよ。
けれど、それはあまりにも静かに、崩れ始めていたの。
最初は、ただの気のせいだと思ったわ。
新しい一人暮らしの家で、夜になると妙な違和感があったの。
窓を閉めても、カーテンを引いても、なぜか……見られている気がして、背筋がひやりとした。
けれど、周囲に人の気配はない。セキュリティも万全だった。
だから、笑って誤魔化したの。
「きっと疲れてるだけね」って、コーヒーを淹れて、音楽を流して……でも、それでも拭えなかった。
そのうち、悪夢を見るようになったの。
真っ暗な部屋、誰かの足音、耳元で囁くようなノイズ。
目が覚めると、涙が出ていたわ。
研究室ではいつも通りの日々が続いていたけど、少しずつ、あたくしの内側で何かが変わっていった。
集中力が続かず、注意力が散漫になって……でも、誰にも言えなかったの。
「アナなら大丈夫」って、そう思われていたから。
あたくしも、そうでなければならないって、思ってしまったのよ。
そして、ある日――それは突然、はじまったの。
自宅の部屋に戻ると、机の上に見覚えのない小箱が置いてあったの。
白い金属製の箱。何のロゴも書かれていなかった。
ギドかお父様が届けたのかと思って連絡したけど、ふたりとも心当たりはないと言う。
……その箱を開けた夜から、世界は少しずつ、色を失っていったの。
そのときは、まだ知らなかったのよ。
この街が与えてくれたすべて――希望、家族、仲間、未来……
それらが、静かに飲み込まれていくことになるなんて。
メトロポリスという都市が、どれほど残酷な顔を持っているのか。 そして、自身が……何を背負うことになるのか。
それでも、誰かの「お姉さん」でいたかったのよ。 どんなに暗闇が深くても――微笑んで、手を差し伸べる人でありたかったの。
ええ、たとえ、その手がもう、誰にも届かなくなってしまっても……。
あれは……ほんの些細なきっかけだったのよ。
お父様が関わっていた神経接続型のAIプロジェクト、そのひとつで異常が発生したという報道が出たの。
自律診断型の病院システムで、患者一名に不可逆性の脳死が起きた……って。
どこか他人事のように思っていたわ。まさか、そんな――たったひとつの事故で、すべてが壊れるなんて。
でも、壊れたの。
映像には、白衣を着たお父様の姿。「Dr.ハールヴァルド」と書かれた字幕。
ネットは瞬く間に燃え上がって、知りもしない人たちが彼を"人殺し"と呼んだ。
契約していた大学や研究機関は手のひらを返したように離れていって、
いつの間にか、お父様は"失敗作の開発者"というレッテルを貼られていたの。
……そして、ちょうど一ヶ月後の夜明け前。
お父様は、自宅の地下ラボで――冷たくなっていたわ。
警察は「自殺とみられる」と淡々と説明していたけれど、はわかってた。
……追い詰められていたのよね、きっと。
誰よりも正しく生きて、誰よりも優しかったのに……それでも、壊れてしまう世界。
でも、涙は出なかったわ。
心が凍ったみたいに、何も感じなかったの。
「申し訳ありませんでした」
「お父様は、ただ人を救いたかっただけです……」
あのとき、みんなに頭を下げていたの。大学にも、警察にも、研究室の仲間にも。
なのに――誰一人、こちらを見ていなかったわ。
それでも、崩れなかった。
代わりに、家に戻って、ギドの隣に座るようにしたの。
一緒に食事をして、少しのことで笑って……また、兄妹らしい時間を取り戻そうとしたのよ。
だけど。
今度は、まわりの"現在"が崩れ始めたの。
最初に倒れたのはマリだった。
授業中、突然顔色を失って……そのまま昏睡状態に入って、数日後に息を引き取った。
検査では何も出なかった。原因不明の多臓器不全……だなんて、そんな。
次に変わったのはカオル。
いつも元気いっぱいだった彼女が、ある日から目の焦点が合わなくなって、
言葉も少なくなって……ある朝、心停止で倒れていたの。
救急車を呼んでも、手遅れだったわ。
そして、ユウスケ――あの子だけは……あたくしの一番近くにいたのに。
彼は亡くなる直前、メッセージを送ってきたの。
「知ってたよ。君のそばにいると、体の内側が焼けるみたいだった」
……どうして?
どうして、そんな言葉でさよならを言うの?
それからすぐ、噂が広まったの。
"あいつと関わると死ぬ"
"エレガントな疫病神"――なんて、皮肉な綽名までついて。
つらかったわ。でも、それよりも――怖かったの。
何かおかしいの? 本当に?
ただ笑って、隣にいただけなのに? あたくしは……毒なの?
だから、ギドのもとへ帰ったの。
あの子だけは、大丈夫だと信じていたから。
でも……彼の目の下にもクマができて、食欲がなくなって、
病院で何度診ても「異常なし」。それでも確実に、衰弱していったの。
最後の夜、彼の手を握っていたの。
昔みたいに、童話を読み聞かせながら……ね。
そのまま、あの子は眠るように息を引き取ったわ。何も言わず、穏やかに――。
……それで、壊れたの。中の何かが、完全に。
叫んだわ。壊したの、鏡も、家具も、食器も。
床に崩れて、泣いて、声が枯れるまでギドの名前を呼んだの。
でも、誰も来なかった。誰も気づかなかった。
ニュースにもならなかったわ。ただの"心神喪失の女子学生"という扱いで。
それでも――信じたかった。
"呪いなんかじゃない" って証明したかったの。
だから、思い切って話しかけたの。
昔、かばってくれたクラスメイトの男の子に。
無言で、手を握ったの。目を見て。……その瞬間は、何も起きなかった。
それが、希望に思えたわ。
その夜、やっと眠れたのよ……久しぶりに、何の悪夢も見ずに。
けれど……翌朝、その子は重篤な状態で運ばれていた。
今度こそ、終わりだと思ったわ。
「彼女に触れられたんだって」
「呪われてるんだ、あの女は」
「父親もろとも、あれは災厄だ」
……息ができなかった。
大学を去って、家に閉じこもった。
水も食事もとらず、ただ独りで――
「なぜ……?」
「あたくしが、何をしたの……?」
「どうして、全部壊れていくの……?」
何度も、何度も、自分に問いかけたわ。
そして――ある夜。
静かにドアを開けて、誰もいない街を歩き出したの。
足元のアスファルト。風の音。信号機の赤。
全部、どうでもよくなっていたわ。
人の姿も、車もなかった。世界が忘れたかのように、しんと静まり返っていたの。
橋に着いて、手すりに手をかけて。
川の流れを見下ろして、目を閉じたの。
「ギド……お父様……ごめんなさい……」
「もし、あたくしが壊れてるのなら、ここで終わらせるわ……」
冷たい風が肌を刺して、
――そのまま落ちるつもりだったの。
その瞬間だった。
閉じたまぶたの向こうに、青い光が差し込んできたの。
優しくて、でも確かな、強い輝き。
目を開けると、遠くの山の中から、脈打つように光が――。
そのとき、不思議と胸が熱くなったの。
凍りついていた心の奥で、誰かが「行きなさい」とささやいた気がしたのよ。
気づいたら、手すりから降りていた。
膝をついて、息を切らして、でも――目はその光だけを見つめていたの。
……走り出したわ。
泣きながら、叫びながら、
「もし、君が知ってるなら……答えて!」
「あたくしが何者なのか、教えて……!」
「お願い……もう独りにしないで!」
その青い光だけが、今の全てだったの。
あの山の向こうに何があるのか……
その答えを、どうしても知りたかったのよ――。
あの光を追って――
森の奥深くへと足を進めた時、胸は不思議な高鳴りを覚えておりました。ですが、そこにあったはずの青い光は……もう、どこにもございませんでした。
静寂。
風に揺れる葉音だけが、耳に触れるような場所。月明かりがかろうじて辺りを照らし、一人を、まるで舞台に立たされた役者のように晒していたのです。
「……幻、だったのかしら」
言葉が息に混じって消えていく。引き返そうとした、そのときでした。
背後から、視線――
はっきりと、それを感じました。誰かに見られている。冷たい、まるで骨の中まで凍り付くような感覚。足が動かなくなり、震えが止まらず、喉の奥が固く締まって……思い出したのです、あの夜と同じ。
――家の中で、何度も感じた、あの「何か」がそこにいた。
「っ……!」
何かが、突如として襲いかかってきた瞬間、意識が弾け飛びました。全身に激痛が走り、視界がにじんで、呼吸さえもできなくなる。声も出せず、動くことすらできない。地面に倒れたまま、薄れゆく視界の中で、それを見ました。
人のようで、人ではない「影」。
その手足は異様に長く、輪郭が滲み、獣のように唸りを上げて――。
(これで終わりなら……それも、いいわ……)
そう、思ってしまったのです。 いなければ、誰も傷つかずに済む。この「災い」が、この世界から消え去れば。
けれど、そのときでした。
胸の奥が、熱く、光り出したのです。
(っ……これは……?)
青く、眩い輝き。
胸元から溢れ出すように放たれたその光に、恐怖と、懐かしさが混じる。
ギド……お父様……皆の顔が脳裏に浮かぶ。温かくて、優しくて、大切だった記憶が……心を締め付けるように、蘇ってくる。
そして、その影が、胸の光に手を伸ばした――その瞬間。
ズシャッ!!
鋭い音と共に、黒い影が大きく後ろへ跳ね飛ばされました。
そこにいたのは、一人の女の人。
長い黒髪をなびかせ、刀を手にしたその背中は、静かで、力強くて。顔には奇妙な仮面が掛けられ、背を向けながらも、ゆっくりとこちらを振り返りました。
その目が……見ていた。
悲しみを、深い後悔を宿したような眼差しで。
「ごめんなさい……私の未熟さが、オマエを巻き込んだの……もう、完全に結びついてしまったわ。霊輝は――」
その言葉が耳に届いた瞬間、意識が途切れていきました。
最後に見たのは、彼女が剣を構え、黒い影へと再び斬りかかっていく姿――。
……目を覚ましたとき、世界は違っておりました。
木々が多くなり、空気が変わっていた。森を抜けて、必死に帰路を辿ったけれど、家には見知らぬ人が住んでいて――。
「……何年、経ったのですか?」
「え? ……今は、xxxx年ですよ」
三十年……
あたくしの時間だけが、止まっていた。
姿も、年も、何一つ変わらないままに。
誰も知らない、誰も待っていない街。
三十年ぶりに辿り着いたのは、お父様とギドと一緒に暮らしていた、あの家でした。
けれど、周囲一帯に人が住んでいる気配はありませんでした。
まるで時が止まったかのように、そこだけぽつんと取り残されていたのです。
そしてその周囲――見慣れたはずの通りや家々は、すっかり様変わりしていました。
壁の剥がれた建物。割れた窓。崩れかけたフェンス。 「帰る場所」は、今や空き家が並ぶだけの、誰も住まない死んだ通りになっていたのです。
それでも、変わらないものもありました。
あたくしの隣にいる人々が、次々と倒れていくという現実。
……それは、過去にもあったことでした。
けれど、あの頃はまだ――時間がかかっていたのです。
じわじわと体調を崩し、やがて病に伏せるような、そんな穏やかな進行でした。
でも今は違います。
ほんの数分、一緒にいただけで。
ほんの少し、言葉を交わしただけで。
彼らの顔色が、みるみるうちに悪くなっていくのが分かるのです。
早く、より深く、より重く。
まるで存在そのものが毒のように、相手の命を蝕んでいく。
触れなくても、話さなくても、近くにいるだけで。
……もう、誰かを傷つける原因などではない。
あたくしという存在そのものが、災厄に変わってしまったのです。
もう、泣くこともできませんでした。
怖くて、悲しくて、苦しくて……それでも、生きていた。
そんなある日――
あの「影」たちが、再び現れたのです。歪んだ、異形の存在たちが、牙を剥いて。
けれど、胸の光は再び現れ、そこから今度は、蒼く輝く銃が生まれたのです。
これは――あたくしの武器。
逃げるのではなく、向き合うための、力。
何度も戦い、街を彷徨い、誰にも近づかぬよう生きていた。
それが、「償い」であり「答え」だと思っていたのです。
……けれど、彼に出会いました。
アレクス。
不器用で、しつこくて、でも優しくて――どうしようもなく、愚かなほどまっすぐな少年。
誰かの支えになりたかった。
でも、自身が、支えられることを忘れていたのです。
彼が教えてくれました。
もまた、助けを必要としている。
一人では、もう――歩けないのだと。
だから、今――
この命に意味を与えるために。
もう一度、生きるわ。
たとえこの身に呪いを宿そうと。
たとえこの心が、何も感じられなくなっても。
あたくしは、アナスタシア・ハールヴァルド。
この名にかけて、戦い抜きます――運命を、未来を、取り戻すために。
そして、もう誰も、失わないために。
『4月11日 / 18:35 / アレクス』
アナスタシアの話をすべて聞いたあと、しばらく何も言えなかった。ただ胸の奥に、どうしようもない焦燥感が渦巻いていた。何か言葉をかけたい、何かしてあげたい。でも、何が正解か分からなかった。
だから、静かに言った。
「ちょっと……歩こうか」
アナスタシアは驚いたように目を見開いたが、すぐに頷いてくれた。俺たちは二人並んで、あの廃れた家々が並ぶ通りを歩き出した。
言葉はなかった。でも、無言が苦ではなかった。むしろ、静けさの中にある空気を、ちゃんと感じたかった。アナスタシアの横顔。風に揺れる髪。どこか遠くを見つめる目。それを、心に焼きつけるように見つめていた。
通りの端まで来たとき、アナスタシアはふと立ち止まった。
「ありがとう……話を聞いてくれて。でも、あたくしはもう、誰にも助けてほしくないの」
彼女の声は震えていた。
その瞬間、俺の足が地面に釘付けになった。耳朶で血管が脈打つのを感じた。
彼女の背中は蝶の羽のように震え、握りしめた拳の関節が軋む音だけが通りを支配する。
無意識に顎が食いしばれた。助けを拒む権利? ふざけた真似だ。その隙に、想いを吐き出していた。
「…わかった」
彼女が振り向いた。涙すら許さない瞳は、硝子のように硬く冷たい。
この刹那、俺は理解した――あの目は鎖でできた鎧だ。なら撃ち砕けばいい。
一歩前に出る。
アナスタシアがその動きに気づいて、俺を見つめた。
「お前の話を聞いた今、もう選択肢はない」
静寂が二人の間に漂う。
「なぜなら...」
胸の奥で何かが熱くなる。
「俺は正義のヒーローなんかじゃない...ただの...」
拳を握りしめ、視線を少し地面に落とす。
「ただのお節介野郎だ...でも!」
ルーシーの記憶が雷のように頭を駆け抜ける。顔を上げると、彼女の瞳と目が合った。
「諦めろと言われる方が、よっぽど苦痛だ」
重い沈黙が辺りを包み込む。アナスタシアの肩が少し下がった。
彼女をその痛みから救うために、やるべきことをする決意は完全に固まっていた。解決策は、もうあと数歩の距離にあるだけだった――
アレクスの中では、もう決意はできていました。
あとは……やるべきことがひとつだけ。