雪の降り始める頃に
雪の降り始める季節、街は静かに白へと染まり始めていた。
コーポレーションの闇が少しずつ輪郭を見せる中、アレクスは冷たい現実と向き合う。
そして――氷のように閉ざされた少女、レイナの心にも、わずかな温もりが灯り始める。
灰色の世界に、ほんの一瞬だけ“色”が戻るとき、物語は静かに次の段階へと進み出す。
『12月16日 / 9:36』
周りを見回した。皆まだレイナのピアノに催眠術をかけられたような状態が続いている。マネージャーはレイナを微笑みながら見つめていたが、やがて話し始めた。
「まず言っておこう、彼女の力はそのピアノから来ているんだ。僕たちがそれを発見したのは、ある日彼女が研究室でそれを使った時だった」
話を聞きながら、ただマネージャーの言葉に注意を払っていた。レイナの力についての説明をまとめると、奴らは彼女で実験をしていた。ある日、彼女の前にピアノが現れ、テストを始めた。その時に人々への催眠効果を発見したのだ。その状態にいる間、人は命令を即座に実行するわけではない。レイナがピアノを弾き終わった時、その命令が潜在意識下で実行される。つまり、直接的な命令ではなく、潜在意識に命令の種を植え付け、それがゆっくりと花開くのだ。
さらに、その力を理解した後、コーポレーションはより高い目標を定めた。レイナを人類の「救世主」として使うつもりだ。彼女のピアノを通じて、すべての人間に種を植え付け、新世界秩序を創造する計画らしい。
その動機を聞いて、手を拳に握り締め、歯を食いしばった。少なくとも今は怒れない。今は協力的なふりをしなければならない。だが心の中では、奴らを完全に止めてやると誓っていた。絶対にそんなことはさせない。
突然、レイナのピアノが止まった。音楽が終わり、皆が我に返った。監督が急に立ち上がり言った。
「皆、聞いてくれ。レイナのメロディーを聞いた後、来年まで休暇を取るべきだと思う」
これがマネージャーが先ほど与えた命令なのかもしれない……。
そう考えると、このピアノの力は命令の実行速度に段階があるんじゃないか? すぐに動く者もいれば、少し遅れて従う者もいる……。でも結局は、誰もが命令から逃れられないように見える。
マネージャーは俺の方を振り返って言った。
「残念だが、お前のアシスタントとしての役目はこれで終わりだ」
どうやらマネージャーの意図は、もう録音をしないことで俺をレイナから遠ざけることらしい。だが、なぜ俺を仲間にすると言ったのか?
「理解できない。俺を味方にしたいなら、なぜレイナから引き離すんだ?」
「そんなことはどうでもいい。とにかく、来年まで会おう」
レイナに近づいて、行こうという合図をした。レイナはマネージャーの後をゆっくりと歩き、一瞬俺の方を振り返った。そして彼女は何かを地面に落とした。
近づいて見ると、しわくちゃの紙だった。それを広げると、自分の家に来てほしいと書いてあった。その言葉を信じていいのか分からないが、マネージャーの後ろでこれをしたということは、何か重要なことかもしれない。
アンジュが後ろから近づいてきて、その紙に書かれていることを見た。
「行くべきよ」
「ああ、分かってる……」
「安心して、私も一緒に行くから。まったく」
エミリーにメッセージを送り、起こったことを伝え、ウィリアムと他の者たちに知らせてほしいと頼んだ。事態が複雑になる可能性がある。マネージャーは俺が邪魔だと認識している。もしかすると、そのマネージャーが今最大の問題かもしれない。
コーポレーションの内部をもっと調べるために行ってみようと思った。そう決めて、向かった。
到着すると、駐車場はその大きさの割にとても空いていた。車がほとんど駐車されていない。休日なのだろうか?建物に入ると、とても静かだった。入館証があるので問題なく入れたが、警備員すらいないのは更に奇妙だった。
以前行った場所に直行したが、そのドアにはパスワードが必要で入れなかった。他の場所を見て回ることにした。廊下を探索したが、どのドアもパスワード付きの錠前がついていて、どこにも入れそうになかった。
廊下を曲がると、奥で数人が話しているのが聞こえた。隠れて聞いてみた。
「もう実験体を見たか?今度の実験は成功しそうだ」
「ああ、その通りだが、あの哀れな女性を気の毒に思う」
「心配するな、あの女性はもう人間とは言えないからな」
「その通りだ」
歩き始める音が聞こえた。おそらくあの人たちは、レイナを担当している科学者たちだろう。この場所の皆が、レイナを人間でない何かのように扱っている。
怒りが込み上げてきて、この場所を全て破壊してやりたくなった。歩き続けていると、科学者たちが立っていたドアが開いていて、パスワードが不要だと気付いた。
中を覗いてみると、誰かがベッドに横たわっており、心拍をモニターする機械の音が聞こえた。その人を見に入ることにした。顔に大量の包帯が巻かれていて、男性か女性か分からなかった。ベッドの前に掛けられたクリップボードに、この人の情報が書いてあった。女性のようだが、これほど包帯を巻かれているのは、彼女で実験をして...力を覚醒させるためだった。
この場所がなぜレイナにこれほど執着しているのか理解した。理由は、超能力を持つ人間を作り出そうとしているからだ。なぜそんなことをしたいのかは理解できないし、知りたくもない。こんなことをするのは非人道的すぎる。
静かに部屋を出て、周りを見回したが誰もいなかった。立ち去りながら、誰かに見られているような気がしたが、振り返っても誰もいなかった。周囲の霊輝を感じ取ろうとしたが、これらの部屋の人々の分だけで、近くには誰もいないようだった。
ただ去った。このこともウィリアムに伝えなければならない。それに、後でレイナの家に会いに行かなければならない。今度は彼女が何を望んでいるのだろうか?
『22:43』
レイナの家に着いた。前回と同じ場所から入る。彼女はベッドの端に座って何か考え込んでいた。近づくと振り返った。
「……来たのね……」
「当たり前だろ。紙を置いてったのはお前じゃないか」
「……あれを見た後でも...まだ気にしないと思った……」
「ピアノのことか?そんなの気にしてないって言っただろ。霊輝から解放してやるって」
「……川が海に戻るように、すべてが君に流れていく……」
「えっと……つまり俺が海なら、お前が川ってことか?」
いつものように反応も何もしない。でも今度はじっと見つめてくる。彼女の言葉を理解しようとしたが、一つしか思いつかなかった。
「でもな、川が流れて来なかったら海だって寂しいだろ」
沈黙が続いた。本当に理解できたのか分からないから、話題を変えることにした。
「あのさ、今日コーポレーションに行ってきたんだ」
「……どうだった?何を見たの?」
「……あそこの連中は頭がおかしい」
あそこで起きたことを思い出すだけで腹が立つ。思わず拳を握りしめた。そのとき、レイナの指先が俺の握った拳にそっと触れた。彼女は俺の握りしめた拳をじっと見つめている。まるでそれをほぐそうとするように。
「……今アレクスが感じているものを……理解したい……」
その言葉を聞いて驚いた。彼女が少しでも感情を見せたのか?そうなのか?よく分からないし、この部屋の暗さでははっきり見えない。
「おい、レイナ、電気つけてくれるか?」
「……明かりがついてるのに気づかれたら...誰か来るかもしれない……」
「小さなランプはどうだ?」
「……机の上にあるけど...ベッドから遠すぎる……」
面倒くさがってるのか。これも彼女の一部なのかもしれない。
「……コーポレーションについて……知っておかなければならないことがある……」
「何だ?」
「あそこの誰も止まらない……目標を達成するまで実験を続ける……私たちの目標を……」
レイナの言葉に違和感を感じた。
「なんで『私たち』って言うんだ?」
答えない。まるで彼女もその計画の一部であるかのように。まるで彼女もコーポレーションの不気味な計画に納得しているかのように。何を考えればいいか分からない。レイナもおそらくコーポレーションと同じ考えを持っているのなら……彼女の考え方を変えるしかない。操られているんだ。それを成し遂げるには彼女について聞く必要がある。
「レイナ、自分のことを話してくれないか?」
じっと見つめてくる。何も言わない。そのまま動かずにいる。そんな反応では話さないのは明らかだ。
「……私について話して何になるの?」
「助けるためには理解が必要だ」
「……意味がない……」
「俺には意味がある」
「……私の話を聞いてアレクスは私の気持ちが分かるの?」
「いや、でも少なくともお前について知ることはできる」
「……だったら余計に話すだけ無駄……」
「なんで自分のことを話したくないんだ?」
「……アレクスに私の痛みを理解する方法なんてないから……」
「理解できる。できないのは、お前がどう感じているかを知ることだ」
「……くだらない……」
「くだらなくない。何があったか教えてくれたら、もっとうまく助けられる」
「……この痛みは名前のない色で描かれた絵のよう……」
「じゃあ名前をつけろよ!」
「……私の心は誰にも読めない詩……書いた私でさえ、その意味を忘れた……」
「なら新しく作れ!」
「……なぜそんなにしつこいの?なぜ私のことを知りたがるの?」
「言っただろ。霊輝から解放するためだって」
視線を逸らした。これ以上話しても無駄だと理解した。窓に近づこうとすると、彼女が何かとても深いものを抱えているのを感じた。まだ見えないもの、理解する必要があるもの。
「レイナ、霊輝からだけじゃない。あのコーポレーションからも解放してやる」
何も言わない。振り返ると、彼女はまだベッドの端に座ったまま、少しも動かずにいた。彼女のように、何か他に言うべきことがあると感じた。彼女をあのような状態で見ていると、言える言葉があると思った。
「レイナ、痛みに音がないなら、どんな形をしているんだ?」
動かずにいる。また向きを変えて出て行った。彼女について理解すべきことがまだたくさんある。彼女の中で多くのものが組み合わさって話すことを妨げているようだ。何かとても深いものが彼女の中に刺さっていて、それが静寂の痛みを引き起こしている。助けを求めて叫ぶことさえできない痛み。明日はもう少し何かしてみよう。
『12月17日 / 15:39』
家に向かって歩いていた。レイナに会いに行った方がいいかもしれない。後で。招待されてないけど。
突然、冷たくて鋭い風が頬を撫でていく。冬がもうここまで来てるんだな。この街は雪が降ることもあるって聞いてる。スマホを取り出して天気をチェックした。普段はこんなことしないんだが、なぜか気になった。数日後に雪の予報が出ている。
視線を前に戻すと、誰かが立っている。待っているみたいだ。
レイナだった。あの「カモフラージュ」の服を着て、目立たないようにしている。
「ここで何してるんだ?」
「……アレクス……話があるの……」
近くを何人か通り過ぎていく。いつ注目を集めてもおかしくない。手を取って、一緒にどこかへ向かった。正直どこに行けばいいのか分からなかった。
「……どこに連れて行くの?」
「うーん、分からない。とりあえず歩こう」
当てもなく歩いていると、レイナが立ち止まった。振り返ると、彼女がある通りを指している。
「あっちに……」
「何があるんだ?」
「……そこに私のアパートがある……そこに行きましょう……」
彼女が二つの住む場所を持っていることに驚くべきか、それとも行く場所を提案してくれたことに驚くべきか分からなかった。
到着して、彼女の部屋へ。414と書かれたドアがなんだか不気味に見える。
中に入ると、全てがとても整頓されている。でも全てが「空っぽ」に見えた。特に目立つものは何もない。家具はごく普通。全てが完璧に整理されすぎて、全てがとても灰色に見える。個性が何もない。
この場所を見て、彼女がソファに座った。俺も座ったが、少し離れて。彼女を不快にさせたくないから。
昨日見た時に感じた恐怖はもうない。レイナの別の一面が見えるから。昨日の会話の後で。
「で、何の話がしたいんだ?」
「……分からない……」
「やれやれ」
辺りを見回した。この場所の雰囲気はとても灰色だ。とても孤独な感じがする。ここにいるとそう感じる。
テレビ台に音楽プレーヤーがあることに気づいた。立ち上がってそれに近づき、電源を入れた。タッチスクリーンのある最新モデルらしい。選べる音楽がたくさんある。
俺は音楽をそんなに聞かないが、レイナを元気づけられるかもしれない。何か明るいものを流して、ここの雰囲気を良くしよう。フィルターを使って、彼女を元気づけられそうな曲を見つけた。
音楽が流れ、この場所全体がそのリズムに合わせてより活気づいて見えた。
「どうだ、レイナ?この曲で少し明るくなったろ?」
「……えっと…分からない……」
表情には出てないが、彼女はなぜこんなことをしたのか理解できずにいるようだ。明るい音楽をかけるのが一番だと思った。彼女はいつも自分の痛みについて考えているみたいだから。この場所はとても灰色で、全てが彼女にとって単調に見える。だから少し明るい音楽があった方がいいと思ったんだが、予想通り、彼女は全く反応しない。
「この音楽、嫌いか?」
「……好きか嫌いかの問題じゃない……変なの……」
「じゃあ、嫌いじゃないってことか?」
「……いえ……でもそういうことじゃない……」
どうすればいいか考えた。一つのことしか思いつかなかった。
音楽をもっとワルツのものに変えた。多分これの方が彼女の好みだろう。悲しくも憂鬱でもない。こんな音楽なら、一緒に踊るのにもぴったりだ。
彼女に近づいて、手を差し出した。
「この一曲、俺と踊らないか?」
レイナは俺をじっと見つめ、それから差し出した手を見た。ゆっくりと手を伸ばして、俺の手を取った時、彼女の手がとても冷たいことを感じた。でも構わない。
スペースは限られているし、こんな風に踊ったことはないから、流れに任せることにした。腰に慎重に手を回し、もう片方の手を取って、音楽に合わせて踊った。
近くで見る彼女の顔は相変わらず無表情で、視線は床に固定されているようだった。
「俺を見たくないのか?」
「……そうじゃない……ただ家具を傷つけたくないだけ……」
言い訳のように聞こえる。とにかく、一緒に踊り続けた。でもあっという間に終わってしまった。最も集中していた時に。
音楽が終わると、彼女は離れて再びソファに座り、指を組んだ。考え込んでいるようだった。
「……どうしてそんなことをしたの?」
「単純に元気づけたかったんだ」
「……理解できない……」
「自分の周りの全てを理解する必要はないさ」
今度は黙っていた。考えているようだった。
「……今日は……私のことを知りたがったりしないの?」
「もちろん知りたいが、不快にさせたくもないんだ」
「……人と知り合うと……その人を理解できるようになる……その人が通っているパターンを認識できるようになる……」
「当然だろ?」
「……例えば……ある場所で働く二人の友達がいるとして……この友達同士はお互いをよく知っているけれど……」
彼女は一瞬沈黙し、俺に視線を向けた。
「その職場はお菓子屋で……友達の一人は時々お菓子を持って帰っていた……自分の子供たちに味わわせたかった……悪意があってしたことじゃない……単純に親切心からだった……でも……それは仕事……ルールがある……そして友達はその人が何をしているか知っていた……」
なぜかこの「比喩」はやけに詳細だった。今回は何かをこれを通して伝えようとしているようだった。
「ある日、上司が誰かがお菓子を持ち出していることを知った……責任者が誰なのかは分からなかった……それを知っている友達を問い詰めた……その友達は、お菓子を取る理由をよく知っている……でもルールがある……そしてそのルールに従う……でもその友達は……ルールのために友達を裏切るの?……あなたなら何をする?」
これについて深く考えた。二人の友達、お菓子、ルール。一人がお菓子を持ち帰り、友達がそれを知っていた。上司がそれを知って、責任者を探している。真実を知っていてルールに従う友達なら、最終的にこの話にはただ一つの答えしかない。
「レイナ!なんでこの話をするのかよく分からないが、その話に結末をつけることはできる」
彼女は答えに興味があるようだった。俺は彼女に近づいて、隣に座った。
「もしその友達が真実を知っていてルールに従うなら、その人は何をするか完璧に知っているはずだ。もしそれが友達で、よく知っているなら、何をするか分かる……言わないさ」
レイナは一瞬驚いたようだった。とても微妙な反応だったが気づいた。反射的に指を動かし、目を素早く瞬かせた。なぜこの話をしたのかよく分からないが、俺の答えを聞いて何かが彼女の中で反応したようだった。
彼女が語った「物語」について考えていた。あれは彼女が自分を表現しようとする方法だったんだろう。
視線が交差する。静寂だけがそこにある。音楽プレーヤーは次の曲を再生しなかった。
彼女の目を見つめていると、何かを探しているような感覚があった。でも分からずにいる。隠れているように見える。
「……明日、会える?」
「ああ、もちろんだ」
今までとは違うレイナが見え始めていた。現在の彼女の下に隠れた別の女王が。もし彼女の世界が灰色なら、その人生に色を与えることができるかもしれない。
もう一度周りを見回した。立ち上がる。行動を起こす準備はできている。
「レイナ、写真とか絵とか……飾るものは持ってるか?」
「……いいえ……なぜ、そんなものが欲しいの?」
「この場所を整理する許可をもらえるか?」
彼女は頷いた。何を計画しているのか理解していないようだった。
家具を動かし始めた。物の配置を変えて、もっと個性を持たせるために。作業を終えた頃には夕日がカーテン越しに差し込んでいた。でもこの場所は、少なくとも俺には、もっと「生きている」ように見えた。
彼女は周りをじっと観察しているようだった。でも何も言わない。反応もしない。
「どうだ?」
「……以前とあまり変わらない……」
「マジか?」
「そう……でも違って感じる。家具が別の場所にあるのを見るのは。いつも慣れ親しんでいた配置とは」
何かを成し遂げたようだった。
彼女はポケットに手を入れ、小さなノートを取り出した。そこに何かを簡潔に書いてから、また仕舞った。
「何を書いたんだ?」
「……今は言えない……まだ」
もしかすると彼女は何かを話し始めるかもしれない。今日ではないかもしれないが、より近づいているように思えた。
彼女に別れを告げ、家に向かった。でも帰り道で、冷たい小さな雫が降り始めた。
もしかして……雪が降るのだろうか?
次回、静寂を裂くように現れる新たな敵。
圧倒的な力の前で、アレクスは再び“極限”へと追い詰められる。
けれど、その刃の中でこそ――ひとりの少女が、眠っていた力と向き合う。
それは守るためか、それとも壊すためか。
雪の降る街で、二人の運命が交差し始める。




