二人だけの空間
『4月11日 / 16:10』
そこに、彼女はいた。
部屋の隅。古いカーテンが風で揺れる中、俺に向けて奇妙な形の銃を構えていた。
だが、その手は小刻みに震えていた。
「……君、何が目的なの。どうして……どうして、あたくしを追ってくるの……!」
声が震えていた。恐怖と怒りが混ざったような、壊れそうな声だった。
一歩踏み出し、両手をゆっくりと上げて見せた。
「待ってくれ。俺は……お前に危害を加えるつもりなんてない。ただ、お前を助けたいんだ」
「……助ける?」
銃を構えたまま、彼女の眉がわずかに動いた。
「お前の中にあるもの……それは自分のせいじゃない。……落ち着いて聞いてくれ。その力の名前は……霊輝だ」
瞳が一瞬広がる。銃を構えた手が微かに震え、地面に視線を落とす。
「……霊輝……?」
声は掠れ、まるで未知の言葉を噛み砕くように繰り返す。
「……ああ。たぶん、もう目にしているはずだ。……胸の辺りで光る、青く強い光。……あれが霊輝だ」
銃口が、わずかに下がる。
それでも、その言葉に――ほんの僅かだけど、希望が見えた気がした。
やがて、彼女の手から銃が消えるように霧散し、両手が力なく下ろされた。
「本当に……助けてくれるの?この"呪い"から……本当に……信じていいのかしら?」
「……ああ、約束する」
彼女は、数秒だけ俺を見つめ、それからそっと近づいてきた。
そして、右手の人差し指を、俺の肩に軽く触れた。
――ズンッ。
一瞬で、足が重くなる。目の前がぐらつく。全身の力が抜け落ちていく感覚。
(これだ……)
これは、「吸われてる」感覚だ。霊輝を。
踏ん張った。倒れずに歯を食いしばり、踏みとどまった――意識が薄れそうでも、立ち続けた。
彼女が目を見開いて、指を離した。
「……おかしいわ。あたくしがこの力を手に入れてからのよ……触れた人間はみんな体調を崩すのに……。君は、なぜか……平気なの」
そして、ほんの少しだけ微笑んだ。
「あたくしの名前は……アナスタシア・ハールヴァルド」
「俺は、朝倉アレクス。よろしくな、アナスタシア」
握手はしなかった。お互い、触れることに慎重だった。
「……それで、これからどうするの?」
「ちょっと、待っててくれ。すぐ戻る」
階段を駆け下りて、外にいたエミリーのもとへ。
「もう大丈夫。ここからは俺がやる」
「は……? ちょっと待って、何それ。どうして私を外すの?」
「任せてくれ。彼女と……話がしたい」
納得いかない顔のまま、エミリーはしばらく黙っていたけど――
「……わかった。でも、ちゃんと説明してよ」
「あとで、絶対」
頭を下げ、エミリーの背を見送った。
(……ごめん、エミリー。でも、彼女と二人きりでないと、きっと……後でちゃんと謝ろう)
そして振り返ると、家の玄関から、ひょこっとアナスタシアが顔を出していた。
「さっきの方……どなた?」
「ただの友達だよ。お前を探すのを手伝ってくれてた」
アナスタシアは、少し安心したように頷いた。
そして、俺の前に立ち、無言のまま見つめてくる。
(……なんだこの空気)
『早くなんとかしなさいよ。ずっと見つめ合ってても何も始まらないわよ』
頭の中に、アンジュの声が響いた。
「ったく……」
苦笑いしながらアナスタシアに向き直った。
「……ちょっと付き合ってくれないか。近くにカフェがあるんだ。君のこと、もっと知りたい」
アナスタシアの眉がぴくりと跳ねた。――誘いなど、予期していなかったのだ。
彼女の指先が、自分の胸をそっと撫でる。あの青い光が、また誰かを傷つけるのではないかと。
「心配するな。俺が側にいる限り、お前の霊輝が周りに影響を与えることはない」
彼女の唇がかすかに震え、視線を地面に落とした。……それでも、ゆっくりと、一度だけ頷く。
カフェへ向かう一歩目は、まるで薄氷を踏むような慎重さだった。
『16:47』
カフェの扉を開けると、チリン、と小さな鈴の音が響いた。
中は暖かい雰囲気で、コーヒーの香ばしい匂いが漂っていた。
でも、彼女の表情からは居心地の悪さが滲んでいた
アナスタシアの歩く速度が遅くなった。まるで、このカフェが何かの罠だと警戒しているみたいで。目線が落ち着かず、椅子に座るときも身体が硬直していた。
(緊張してるな……)
彼女の気持ちも、無理はないと思った。ずっと、自分の霊輝に怯えながら生きてきたんだから。
どれほどの間、そうしていたのかは分からないけど――誰かに心を開くなんて、簡単じゃない。
沈黙が数分流れた。気づけばテーブルには湯気を立てるコーヒーカップが二人分、店員に置かれていた。
微笑みながら、言葉を選んだ。
「大丈夫」
声が、わずかに震えているのに自分で気づいた。
「何も怖がらなくていい……だって――」
息を深く吸い込み、覚悟を決めた。
「俺も、霊輝を持ってるんだ」
「……え?」
アナスタシアの瞳が一瞬で見開かれた。珈琲カップからこぼれた液体がテーブルクロスに暗いシミを広げるのにすら気づかない。
「そ、それは……信じられない……だって……」
彼女の手がテーブルの上で震えた。ナプキンを握りつぶし、指の関節が真っ白になる。 唇を噛みしめ、俯いたまま息を詰まらせている。
(……今だ)
腰をかがめ、彼女の目線の高さまで降りた。陽が彼女の輪郭を柔らかな金縁で描き出す。
「ずっと一人で背負ってきたんだな……『誰も傷つけたくない』って想い」
声を潜めて、テーブルの木目を指でなぞる。
彼女がゆっくりと顔を上げる。長い睫毛の陰に、閉じ込めていた光が一瞬揺らいだ。
「ほら……無理に一人で背負わなくていいんだよ」
コーヒーカップの縁に指をかけ、そっと回した。
「さっき言っただろ? 俺も霊輝を持ってる。つまり――」
息を少し深くして、目をまっすぐ見つめる。
「お前の苦しみ……少しでも分かち合えるってことさ」
アナスタシアの指がナプキンの端をひねる。白い布に細かい皺が寄った。
「たとえばさ」
声のトーンを軽く上げ、窓の外の街灯を指さす。
「あの明かりだって、一つじゃ暗いけど……二つ並べば、道を照らせるだろ?」
彼女の視線が街灯へ移り、唇がかすかに緩む。
「だから……」
腕を伸ばし、掌を上に向けて差し出した。
「一人で高い壁に立ち向かうより……誰かと手を繋いで谷を越えた方が」
口元に小さな笑みを浮かべて続ける。
「きっと、登り詰めた時より美しい景色が見られるって、俺は信じてる」
もう一度、何も飾らずに掌を差し出した――この手に危険はないと約束するように、静かに。
沈黙が流れる。カフェの喧噪だけが、時を刻む。周囲の会話や笑い声、コーヒーカップの触れ合う音——全てが、彼女の鼓動に重なって聞こえた。
アナスタシアの指が止まった。宙に浮いたまま、微かに震える人差し指が、俺の掌の上に針のように突き刺さりそうで――でも届かない。
「……だめだ」
彼女の呟きが、硝子の破片のように鋭く飛んだ。
「触れたら……君の命を奪うかもしれない。あたくしは……触れるものすべてを喰らう渦なんだ」
息を殺した。掌を動かさず、ただその細い指を見つめる。
(……吸い取られてもいい。俺の霊輝が盾になる)
すると――
人差し指の先が、ゆっくりと掌の中心へ沈んでいった。 氷のような感触。
冷たさの奥で、かすかに鼓動が響く。まるで薄氷を踏む鹿の心臓の音だった。
「……っ!」
彼女の肩が跳ねる。目を閉じ、長い睫毛が蝶の羽ばたきのように激しく震えた。
(奪わないで……お願い……止まれ……)
――だが、何も起きなかった。
「……え?」
彼女が目を見開く。指先に残ったのは、ただの温もりだけだった。
……正直、俺だって何を言えばいいかわからなかった。
台本なんてない。ただ、彼女の目を見て、必死に言葉を探した。
彼女の人差し指が、俺の手のひらに触れる。一瞬の接触、それだけでもう十分だった。
——彼女は、わずかながらも俺に賭けてくれたのだ。
彼女は視線を落としたまま。
自信を持って微笑んだ。彼女が最初の一歩を踏み出した――信じることを選んだのだ。
「アナスタシア、お前が持つ霊輝は、一つの強い感情から来ているんだ」
コーヒーカップの縁をそっと撫でながら、真剣に見つめた。
「君の過去で……心が砕けそうになった瞬間はあるか? あの時、霊輝は目覚めたはずだ」
アナスタシアの指が止まった。長い睫毛が俯いた顔に影を落とす。
「……思い出すのは辛いことばかりね」
テーブルクロスの織り目をなぞりながら、彼女の声が遠のいていく。
「でも、どんな記憶でも構わない」
数秒の沈黙。店内の時計の針が三度、カチッと音を立てた。
「……一つだけあるわ」
彼女が胸に拳を当てた。爪が服の布地に食い込み、白い指関節が浮かび上がる。
「あまりに遠くて……それでいて近すぎる記憶。気づけば三十年の歳月が流れていたの」
(……三十年? でも見た目は20代前半――まさか、ルーシーと同じく時を囚われていたのか?)
ルーシーの姿が脳裏をよぎる――霊輝に囚われ、彷徨い続けた百年の記憶。孤独が魂を蝕むあの絶望を、今アナスタシアも背負っているのだ。
「……ずっと、辛かったな」
俺の呟きに、彼女の肩が微かに震えた。
すると突然、アナスタシアが顔を上げた。瞳に決意の光が灯る。
「もしかすると……あの家ならもっと覚えているかもしれない」
「あの家?」
「え」
彼女が恥ずかしそうに目を逸らす。
「……さっきの場所…あの家…あたくし、あそこに住んでいたの」
「まさか!」
声が思わず跳ね上がる。冷めたコーヒーカップが揺れ、残りかすが渦を描いた。
アナスタシアは無言でうなずき、スカートの裾を整えながら立ち上がった。窓の外では太陽が沈み、カフェのネオンが彼女の横顔を青白く浮かび上がらせている。
「行きましょうか」
俺も椅子を蹴って立ち上がる。廃屋への道のりが、二人の影をゆらゆらと飲み込んでいった。
『17:08』
夕方の光が、窓の隙間から細く差し込んでいた。
まだ日は落ちていないはずなのに、この家の中は妙に薄暗く、静まり返っている。
埃の匂いが、懐かしいような、それでいてどこか遠ざけたくなるような感覚を引き起こす。
(……この家に何かあるはずだ。彼女の感情を揺さぶるような、そんな何かが)
アンジュが教えた通り、強い霊輝は――
強い霊輝は、強い感情から生まれる。
もし彼女の中に、それを生んだ記憶や思いがまだ残っているのなら……それに触れれば、何かが変わるかもしれない。
「なあ……中をちょっと探してみてもいいか?」
俺の言葉に、彼女は一瞬戸惑ったように眉を動かし、けれど小さく頷いた。
「……うん。いいよ」
一階の家具を一つずつ開けていく。
中には何もない。空っぽの引き出し。誰かが意図的に物を処分したような感覚。
(写真とか……アクセサリーとか……そういうのがあれば)
彼女の感情に結びついたものを探していた。けれど、何一つ見つからなかった。
階段を上がり、あの部屋へ――彼女を見つけた場所。
そこにも、あまり物はなかった。衣類が数点、生活の痕跡。
それ以上は見ないようにして、静かに部屋を出た。
廊下に戻り、今度は隣の部屋の前に立つ。
扉の前で足を止め、ゆっくりと手を伸ばして、ノブに触れようとした――そのときだった。
「――そこは、ダメ」
彼女の声が、背中越しに聞こえた。
「……どうして?」
「……」
沈黙。
優しく言葉を選びながら尋ねた。
「言ってくれないか? 理由を」
彼女は目をそらし、唇を震わせながら言った。
「……実は、わたくし、自分の中で一番辛かった瞬間を、ずっと覚えていましたわ」
驚いた。だが、怒りはなかった。ただ、ゆっくりと呼吸した。
「……どうして、知らないふりをしたんだ?」
「試してたの。……本当に信じられる人か、知りたかった。あと……あたくしと長く一緒にいたら、君に何が起こるのか、それも確かめたかったの」
少しずつ崩れていく彼女の仮面。
その奥にいる、孤独で、不器用な“人間”が見えた気がした。
「……そっか。じゃあ、今は話してくれる?」
彼女の潤んだ瞳が、ゆっくりとこちらを捉えた。
「……くだらない話よ。聞いたら、きっとあたくしのことを哀れで滑稽な女だと思うでしょう?」
「それでも、聞きたい」
声は、静かで、まっすぐだった。
彼女はそっと目を閉じて、深く息を吸った。
「あたくしの、はじまりを――君だけに話すわ」
『××××年 / アナスタシア』
あたくしの人生が変わったのは――そうね、たぶん、あの晩からだったと思うの。
それまでは、ごく普通の幸せな日々だったわ。
母はあたくしが小さい頃に病気で亡くなったけれど、お父様がその穴を埋めるように、懸命に育ててくれたの。
ハンスハールヴァルド――神経系ネットワーク工学の分野で有名な技術者で、あたくしにとっては世界で一番かっこいいお父様だった。
家はメトロポリスの西側、緑の多い高台にあった大きな一軒家。
でも、いわゆる「お金持ちの家」って感じじゃなかったのよ。家具も落ち着いていて、派手さはなかった。
お父様は「贅沢よりも、心が満たされる暮らしの方が大事だ」って、よく言ってたわ。
それに……あたくしには弟がいたの。
ギド。あたくしより六歳年下で、ちょっと内気だけど、頭がよくて優しい子。
あの子はいつもあたくしの後ろをついてきて、「ねえ、アナ姉」って笑うの。あたくしのことを「姉さん」って呼ぶ、その声が、いまでも耳に残ってる。
あたくしは昔から「お姉ちゃん」気質だったのかもしれないわね。
周りの子たちが泣いてたら、手を引いてあげて、落ち込んでたら、話を聞いて。
「アナって、なんだかお姉さんみたい」ってよく言われた。
だからかしら、あたし、自分を守るより先に、誰かを守りたいって、いつも思っていたの。
高校を卒業して、あたくしはメトロポリス帝国大学に進学したの。
専攻は「神経サイバネティクス」、つまり人工知能と義肢、脳神経とのインターフェース技術ね。
お父様の影響もあるけれど……それ以上に、人の可能性を拡張する技術に惹かれたの。
誰かの「できない」を、「できる」に変えられる。そんな未来を作りたかったのよ。
ただ生きていくだけで、苦痛しか待っていないなんて...あたくしには想像もできなかった。この先に何が待ち受けているのかも知らずに、ただ歩き続けるだけの日々。それでも、諦めるわけにはいかないのよね...きっと何か意味があるはずだわ。
アナスタシアの過去については、次のエピソードでもまだ続きます。
今回では描ききれなかった部分があるので、もう少しだけお付き合いください!