ノスタルジア
そのセカイは
残酷なまでに
とても優しかった
鴻儒 緋翠、翠琉、水比奈
風に溶けるような竜笛の音が月夜に響く。
唯一の灯かりは屋敷の遥か彼方に浮かぶ仄かな月。
男は、竜笛を懐にしまうと、杯に注がれた酒を一気煽った。
喉を通り臓腑へ染み渡るその感覚にしばし浸った後、すやすやと寝息を立てる我が子へ視線を移す。自然と笑みが零れた。まだ5歳にも届かないだろう幼子は、今は夢の中を揺蕩う。
そんな少女を包み込んでいるのが、白い白い大きな犬だ。その毛並みは月の光を反射して白銀に輝いている。
頭と頭を擦り寄せ合って寝息を立てている少女の頭を、そっと撫でた。くすぐったかったのか、少女はあどけない笑みを浮かべて白い中へと顔を埋める。小さな手には、掛け布の代わりに少女を覆うふさふさの尾がむんずと掴まれているのだが、彼は嫌がりもせずにただじっと目を閉じていた。
―― が………
―― ゴホッ………
嫌な咳にピクリと耳が立つ。見れば掌に朱い朱い不吉な花が咲いていて。鼻に付く独特の錆た臭いに彼は、はっと男を仰ぎ見る。頭をもたげて心配そうに見遣る彼を、男は手で制した。
「翠琉が起きてしまう……」
口許を拭いながら微笑む。その様は穏やかで、病魔が蝕んでいるとは思えない。
ましてや、裡に闇が巣喰っているなど、誰が思い至るだろう。
(ですが緋翠様……)
尚も言い募ろうとする声無き声に、男を頭を緩く横に振った。
「いいのだよ、白銀」
―― それより、せっかくの夢を邪魔してしまう事の方が心苦しい
その言葉の先にいる少女を、彼も同じように……愛おしむようにもう一度己の身体で包み込む。そして、そっと鼻頭で柔らかい頬を付いた。
そんな彼らに後ろから声が掛かった。
「主様……」
決して大きな声ではない。だが、深と静まり返った屋敷には良く響いた。
「ああ水比奈、ありがとう」
そんな男に「いいえ」と朗らかに笑む。20歳そこそこになろうかという妙齢の娘で、その身に纏う衣は現世のものとは到底言い難い。盆を両手に載せて、娘は男の少し後ろに腰を下ろした。
「一杯くらい、付き合ってくれないか?」
言いながら、徳利を軽く持ち上げて笑む。
「はい、主様……」
そう応える娘は、見る方が胸を締め付けられるような……そんな哀しい微笑みを返した。
「また“あるじさま”か……いい加減、名で読んではくれないか?」
もう返って来る応えは判りきっているのだろう。そう諦めたように苦笑を漏らしながら、差し出された杯に酒を注ぐ。
「いいえ……主様は主様です…こうやって、人型のまま御仕え出来るだけで私は……」
―― そう、貴方様の御側に居る事を許されているだけで
「幸せなんです…なのに、式神の分際で主の名を呼ぶだなんて」
そんな生真面目な己の式神に「ああやっぱり」と 男は軽く溜息を付いた。そんな溜息はそよぐ風に攫うわれて、代わりに紅葉がはらはら舞う。
「あっ」
娘の声に手元を見れば、器にはひとひらの紅い秋が浮かんでいて
「ほう……これはまた……」
―― 風流だね
そう言う声は、少し嬉しそうだ。
杯をことりと置くと、竜笛を手にする。
奏でる旋律は、どこか哀愁を帯びていて。空高く響く音は、誰かを想う文そのもので。
娘は、そっと目を閉じてその響きに身を任せた。
―― 嗚呼………
そっと、心の中で静かに願う。
ずっと続いたら良い
この
静かで
穏やかな時間が
終らなければ良い
………でも………
そんなささやかな願いすら叶わないのだと彼女は知っている。
“主様”と慕う男の胸中には、既に唯一無二の存在がいて、その存在を救うためだけに息をしているのだと。
そして、男に残された時間がもう僅かであることも、知っていても、願わずにはいられない。
このセカイは
何て美しくて
何て残酷
―― 永遠なんてもの
それこそが夢想だ――
END